第10話 三匹目の化け物


 江戸の行政、司法、治安維持は、南町奉行所、北町奉行所が担っている。


 南町、北町と名称は異なるが、これは江戸を南北に分け、管轄を別にしている訳ではなく、月番制で、北町奉行所と南町奉行所が、交互に公務を務めているのである。


 役職としては、町奉行が頂点であり、その次が与力、そして同心と続く。

 町奉行は旗本が務め、与力、同心は御家人が務める。


 旗本、御家人、どちらも将軍直属の家臣であるが、旗本は御家人とは違い、将軍への謁見が許される家格を持っている。


 奉行は南北に1人ずつ、与力は25人ずつ、そして、その下の同心は、約100人ずつが、その役についている。

 合わせて250人程度である。


 当時、100万とも言われた江戸の人口に対して、この程度の人数では、治安を守ることは不可能であった。

 そのため、同心は、御用聞き、岡っ引きと呼ばれる、私的な部下を多数抱えていた。


 ◆◇◆◇◆◇


 玄白の自宅を辞した翌日。

 午前中に南町奉行所を訪ねた研水は、景山が市中の見回りに出たことを教えてもらうと、それを追うように、江戸の町を歩きはじめた。


 何やらおかしなことに巻き込まれているという思いはあったが、決して嫌なものでは無かった。

 あの異形の化け物の正体は、研水も興味がある。

 それに、尊敬する師の頼みを受けて奔走することは、誇らしいことであった。


 ただ、仲介を頼まれた、同心の景山との相性が悪かった。

 それが、どうにも気を重くする。


 ……一昨年の冬。

 景山の御内儀を診察したことが、そもそもの始まりであった。


 微熱と咳が収まらない御内儀の治療を頼まれ、研水は景山の屋敷に赴いた。

 六郎を庭先に残し、屋敷にあがった研水は、佐那という名の小柄な御内儀を診察した。


 目の下を指先で押し下げ、白目の色を診る。

 口を開けてもらい、舌の色や乾き具合を診る。


 その間、研水のすぐ斜め後ろには、景山が石仏のように座っていた。

 呼吸音が、はっきりと聞こえる近さである。

 気が散って仕方がない。


 「では、脈を……」

 「待て」

 研水が、佐那の脈を診るために手を伸ばすと、景山がそれを制止した。


 「糸脈という方法を聞いたことがある。

 糸脈で、診てもらいたい」

 研水は、驚きと呆れが半々の思いで振り返った。

 しかし、斜め後ろに座る景山の顔は、いたって真剣である。


 糸脈とは、触れること、近づくことさえ許されぬほど高貴な人の脈を診る際に、行われたと言われている診療方法である。

 貴人の手首に絹糸を巻き、離れた場所に控えた医師が、その絹糸の端を持つ。

そして糸から伝わってくる脈を感じ、診察を行うというものである。


 当然、でたらめで、そのような方法で脈を診られるものではない。


 「景山様。

 まともな医師は、糸脈など行いませぬ」

 研水が、糸脈の荒唐無稽さを説明すると、景山は渋々、御内儀の手を取り、脈を診ることを許した。


 ……悋気か。

 ……やっかいなことになるぞ。

 研水は、佐那の脈を診ながら困惑した。


 悋気。

 早い話が、景山は自分の妻に触れる研水に、嫉妬し、警戒しているのだ。

 診察の場から離れないのも、そのためである。

 ひどい嫉妬は、容易に敵意、殺意に変わる。


 「どうだ?」

 「脈に問題は無いようでございます」

 研水が答えると、景山の悋気に、じわりと怒気が混ざった。


 「問題が無い」ということは、景山の中で、研水は、意味なく、妻の手に触れた男ということになったのだ。


 研水が改めて佐那を見ると、たしかに美しい顔立ちをしていた。

 色が白く、潤むような瞳をしている。

 小作りだが、鼻筋は通り、赤い唇は、ほどよく膨らんでいる。


 ……どうしたものか。

 研水は、弱り切った。


 この後、心臓の音、肺の音を確かめなくてはならない。


 聴診器の原型ともいえる医療具は、この年より一年前、フランスで発明された。

 もちろん、まだ日本には入ってきていない。

 つまり、心臓の音、肺の音を確かめるには、素肌に耳を当てるしかないのだ。


 ……怖い。

 悋気の塊のような景山の前で、佐那の胸に耳を当てれば、斬られる可能性が無いとは言えない。

 こんなことで、斬られたくは無い。

 しかし、医者として、いい加減な診察で終わらせるわけにはいなかった。


 「景山様」

 やむなく研水は、景山に、次の診察の手順を話した。

 事前に説明し、景山自身から許可を得ようと決めたのだ。


 研水の話を聞く景山の顔から、表情がスッと沈むように消えた。

 怒りを押し殺していた顔よりも怖くなる。


 「か、景山様?」

 「……病の場合、心臓の音は、どのように聞こえるのだ?」

 景山が静かに問う。


 「鼓動の調子が乱れる、鼓動と鼓動の間に、しゅっと息を吐くような微かな音が聞こえれば、心臓の病と考えられます」

 「肺は?」

 景山がさらに問う。


 「ごぼごぼと泡立つような音、ちりちりと擦り合わせるような音がすれば、肺に炎症が起こっていると考えられます。

 また、細く息が漏れるような音がすれば、喘息、もしくは肺に水が溜まっていることが考えられます」

 「わしが聞き、わしが判断できるか?」

 研水の説明を聞いた景山が、とんでもないことを言う。


 どう答えようかと間やんだとき、佐那が「旦那様」と、呆れたような声を出した。

 「先生を困らせてはなりませぬ」

 「分かっておる。

 分かっておるわ……」

 子供を諭すような佐那の言葉に、景山が気まずそうな顔になった。


 「では、こうすればいかがでしょうか?」

 研水が提案する。

 「必要なものは、耳でございます。

 なので、わたしは手拭いで目隠しをいたします」

 「……うむ」

 景山が渋々ながら頷いた。


 かくして研水は、お正月の遊びにある、『福笑い』のような状況で、佐那の心臓の音、肺の音を聞くこととなった。


 なんとか診断を終え、佐那が胸元を整えると、研水は目隠しを取った。

 「どうであった?」

 「心臓の音、肺の音に異常はありませぬ。

 ただの風邪でしょう」


 「ただの風邪……か。

 ならば、心臓の音も、肺の音も、確かめる必要は無かったな」

 また、景山の怒気が膨れ上がりそうになる。


 「か、風邪を侮ってはなりませぬ。

 薬を、薬を調合いたします」

 研水の「薬」という言葉に反応して、景山は怒気を収めた。

 ただの風邪といっても、長引いているのだ。


 研水は、薬研を使って粉末状にした、葛、生姜、大蒜などを調合し、小分けにして包むと、佐那に差し出した。

 「朝と夜に、お飲みください」

 「ありがとうございます。先生」


 佐那が微笑みながら礼を言う。

 景山が無言のまま怒気を放つ。

 研水は、逃げるようにして、景山の屋敷を出た。


 しかし、何を気に入られたのか、それから何度か、景山家に呼ばれることになった。

 その度に、研水は、景山に睨まれながら、佐那を診察する。

 気が休まらなかった。


 昼になろうかというころ、研水は、ようやく巡回中の景山を見つけることができた。


 「景山様!」

 「……研水殿ではないか。

 どうしたのだ?」

 岡っ引きを連れていた景山は、研水に怪訝な目を向けた。


 研水は職務の邪魔をすることを詫びてから、玄白に頼まれたことを景山に話した。

 景山は、茶屋の前にあった床几台に腰を下ろして話を聞く。

 気を利かしたのか、岡っ引きは、二人から少し離れた位置へと移動していった。


 「……鵺ではなく、西洋の化け物、まんてこあ、か」

 「いかがでございましょう。

 ぜひとも、私の師である、杉田玄白にお会いしていただきたいのですが」

 研水は景山の反応に焦った。

 一昨日の夜とは違い、あの化け物の正体に、さほど興味を持っているようには感じられなかったのだ。


 「あの化け物は、すでに高野の坊主たちが運び出しよった。

 すでに、真蔵院の境内に埋めてしまったであろう。

 鵺であっても、西洋の化け物であっても、すでに終わった話と言うことだ」

 「で、ですが……」

 研水は上手く反論できなかった。


 たしかに、武士殺しの下手人とも言える化け物は、死骸となって捕獲された。

 事件は終わったと言えば、その通りなのだ。


 「玄白殿の話は、興味深くはあるが、わしも忙しい身でな」

 景山が渋った顔になったとき、岡っ引きが、慌てたように駆け戻ってきた。


 「か、景山様……」

 景山を呼んだが、目は景山を見ていなかった。

 岡っ引きは、脅えた顔で、別の方向を見ている。


 「あれを、あれを……」

 自身が目を向けている方向、通りの向こうを指さした。

 指先は水平ではなく、斜め上を向いている。

 研水と景山は、岡っ引きの示す方向を見た。


 二人の視線は数瞬、岡っ引きの伝えようとするものを探した。

 それは、すぐに見つかった。

 晴れ上がった青い空を背景に、半鐘を吊るした高い櫓がある。

 いつからそこにいたのか、その櫓の天辺に、ひっそりと佇む不気味な影があったのだ。


 巨大な黒い鳥が羽をたたみ、止まっているように見えた。

 しかし、鳥にしては、異様なほどの巨体であった。

 人間ほどにも見える。


 研水の口の中が、恐怖に乾いた。

 さらに異様なことに気づいたのだ。


 「そ、そんな……」

 その鳥は、頭部があるべきはずの場所に老婆の顔を持っていた。

 しかも、憎悪に歪んだ黄色い目で、研水を睨んでいたのである。

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