第39話 縁がある話
京都の世界遺産、清水寺と言えば、何と言っても、「清水の舞台」から京の街を眺め、「音羽の滝」に降りて、流れ落ちる霊水を飲んで、頭脳明晰になって帰るというイメージだ。
だが、「清水の舞台」を過ぎて進んだところに、素通りしそうになる地主(じしゅ)神社がある。
なにしろ、奈良の法隆寺が日本最古の木造のお寺なら、地主神社は、京都最古の神社で、とうの清水寺より古いときているからおどろきだ。
そのご利益は、入口にも大きく記されているが、「縁結び」だそうである。
この「縁」ということば、「縁がある、ない」とか「縁起がよい」とかに使うが、なんとなく、人と人との深いつながりみたいな意味なんだが……
ただ、その「あの人とは縁があるなあ」と言われると、それまで一度も会ったことのない人なのに、どこでその人とそういうつながりができたのかと聞きたくなるが、それは前世だというのだ。
それなら、前世なんて信じない人にとっては、「縁」などということばは、こじつけだと言われても仕方がないだろうから、この「縁」なることばは、そういうことを信じている人だけが使えばいいんじゃないのって思うが、やっぱり、何か気になるのだ。
ちゃんと調べると、「仏教用語で、結果を生じるための間接的な原因」などと書いてあるおかげで、もっとわからなくなる。
だが、地縁、血縁、離縁、内縁、良縁、悪縁などなど、いたるところに使われているから、やっぱり気になる。
そこで、「ええい、思い切って、勝手に考えてみるか!」っていうことにした。
「縁」(えん)という読みは、語呂を合わせると「円」(えん)となる。
「円」というのは、当然、「丸」(まる)だから、コロコロころがって、巡り行くものだ。
つまり、ある人とは、初めてあったのにもかかわらず、その関係が、コロコロとうまく転がって、上手く巡り行くものを「縁があるんだね」と解釈すると妙に納得できる。
じゃ、「縁を結ぶ」ってのは、ふつうに考えると、お互いが「縁」という紐(ひも)というか、ロープを持っていて、それを、とれないように固く結ぶ(しばる)ことのようなイメージがある。
えー、それだと、そのお互いが持っている紐(ひも)というか、ロープって、何で、最初からそんなの持ってるのってなるから、また、前世がでてきてしまう。
だから「縁結び」を「円結び」と言いかえれば、きれぎれになって転がらない「円」を、転がるようにきれいに完成させることによって、コロコロと転がる円となって、うまく巡って行き、最後は結婚にゴールインとなるわけだ。
いいね、だから、「縁」(えん)は「円」(えん)だ。
だから、円を壊すには「縁切り」だし、だが、もっと、こわいのは「悪縁」だ。
「悪い円」だから、悪い方へ、悪い方へと、コロコロ、転がっていくのだから始末に負えないし、「腐れ縁」なんてのもあるが、コロコロと転がって腐っていくんだから、これも困る。
本当に「縁は異なもの味なもの」である。
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