第37話 旅立ち
「ご飯、食べに行こうか。どんな時でもお腹は減るから」
レイチェルは笑った。
「うん……」
食堂へ降りるとすでに朝食が準備され始めている。
「もう少しで準備ができるぞ」
フリード様が言う。
無理やり明るく振舞っているようだった。
それに朝食とは思えないほど食べ応えがある料理が並んでいる。
全てレイチェルの好物であることはすぐに分かった。
「ありがとうございます」
レイチェルが感謝の言葉を言うとフリード様は泣きそうになる。
朝食はとても静かに進む。
俺やフリード様はこの後のことを考えて、あまり食欲が無かったが、当事者のレイチェルはいつも通りにたくさん食べていた。
「お父様、一つお願いをしても良いですか?」
食事が終わりに近づいた時、レイチェルが言う。
「なんだ?」
「一緒にお酒を飲んでください」
「……お前も酒を飲むようになったのか?」
フリード様は驚いていた。
「いえ、今まで飲んだことはありません。でも、一度はお父様とお酒を飲みたいと思ったのです」
レイチェルは微笑む。
「…………分かった。すぐに用意……いや、私が持ってこよう」
そう言って、フリード様は席を外した。
戻ってくると酒瓶を手にしていた。
「これはセレナが、お前の母が好きだったワインだ」
フリード様は説明しながら、自らワインの封を開けた。
一緒に持って来た三つのグラスにワインを注ぐ。
「アレックス君、君も一緒に飲んでくれるか?」
「良いんですか?」
「ああ、ぜひ頼む」
フリード様は悲しそうな笑みを浮かべた。
俺は一つ、グラスを手に取る。
レイチェルもフリード様もグラスを手に取った。
「お父様、アレックス、本当にありがとうございました」
レイチェルの言葉が合図になり、俺たちは乾杯して、ワインを口に運ぶ。
屋敷で二日前に飲んだワインより甘くて、飲みやすい。
でも、俺の隣ではレイチェルが咽ていた。
「ケホッ……! お酒ってこんな味なんですか? 美味しくないです」
恐らく、誰もがお酒を始めて飲んだ時に思う感想をレイチェルが言った。
それを聞いた俺とフリード様は笑った。
「大人になるとこれが旨いと…………」
フリード様は途中で言葉を止める。
レイチェルには酒を楽しむ時間が、大人になる時間が残されていない。
場の空気が重くなりかけた。
するとレイチェルは残っていたグラスのワインを飲み干す。
表情を歪め、無理やり飲んでいるのが分かりやすかった。
「もう一杯飲んだら、少し良さが分かるかもしれません」
「そんなにすぐ美味しく感じるものではないぞ」
フリード様がレイチェルのグラスに酒を注ぐ。
レイチェルは二杯目のワインに口を付ける。
「うん、さっきよりは美味しい……気がします」
苦々しい表情でレイチェルは言う。
それを見た俺とフリード様は顔を合わせて、苦笑した。
「あっ、二人とも私を馬鹿にしていませんか?」
「そんなことは無い。アレックス君ももう一杯、どうだ?」
フリード様は瓶を手に取った。
「頂きます」
俺たちが二杯ずつワインを飲むと瓶は空になった。
「ご馳走様でした。本当に美味しかったです」
レイチェルは俺と一緒に席を立つ。
「レリアーナ!」
フリード様が声を張った。
「はい?」
「……いや、何でもない」
フリード様の心中を考えると俺は何も言えなかった。
その後は部屋に戻って、最後の旅の準備を始めた。
驚くほど簡単な準備を終え、俺とレイチェルは部屋を出る。
客間へ行くとフリード様とブレッドさんが待っていた。
今日も朝からクロエさんは姿を現さない。
「お父様、親不孝をお許しください」
「私の方こそ、無能な父を許して欲しい。勇者として魔王との危険な戦いに身を投じさせ、呪いを受けて帰って来た娘に何もしてやれなかった」
フリード様はレイチェルを抱き締める。
「気になさらないでください。お父様、どうかお元気で。あなたもですよ、ブレッド」
レイチェルに名前を呼ばれたブレッドさんは無言で頭を下げる。
フリード様の視線が俺に向けられた。
「アレックス君、レイチェルのことを最後までよろしく頼む。念のため、言っておくが君を恨むようなことはしない。君が戻って来たら、私の方からお礼をさせてくれ」
「分かりました……」
フリード様の言葉が胸に突き刺さる。
結局、レイチェルに対して、俺が出来たのは本当に些細なことだった。
「それでは」とレイチェルは言い、客間を出ようする。
――その時だった。
ノックも無しに客間のドアが外から開く。
「クロエ……」
そこにはクロエさんが立っていた。
寝ていないのか、随分と酷い顔をしている。
「良かった、あなたにも一言……」
「行かせません……」
クロエさんは短剣を構える。
「クロエ、何をしている!?」
ブレッドさんが娘の暴挙に驚く。
「何をしている、は私の台詞です!! 父上も、フリード様も、アレックス様も、それにお嬢様も!」
クロエさんは怒鳴った。
「なんで皆様はお嬢様が死ぬというのに無理やりにでも止めないのですか!? お嬢様はなぜ、簡単に死のうとするのですか!?」
「クロエ、なんてことを言うんだ! 勇者として、王族として、人々の為、お嬢様は決断をされたのだ!」
「人々のことなんでどうだって良いです! お嬢様には自分のことだけを考えて、生きて欲しい。アレックス様がいる限り、『魔王の呪い』は発動しないのでしょ? だったら、それでいいじゃありませんか? もしもの時のことを考えているならば、どこか人のいない場所に家を立てましょう」
クロエさんは俺が、そして、恐らくフリード様もしたであろう提案をする。
「クロエ……」とレイチェルは言葉を漏らす。
「確かに片手しか使えず、お嬢様とアレックス様が離れることの出来ない生活は不便でしょう。でしたら、私がお供を致します。お嬢様とアレックス様のお世話は私がします。そうすれば、何も問題がないでしょう!?」
クロエさんは泣いていた。
「問題だらけです。あなたやアレックスの人生を台無しにしてしまいます」
「台無しにはなりません! 私はあなたの傍に居たのです! あなたに生きていてほしいのです! 一度は……お嬢様が勇者になり、死ぬかもしれない戦いに出向く時は、まだ耐えることが出来ました。でも、二度は無理です。もう沢山です! それに今回は絶対に帰ってこない。それなのに見送ることなんて出来ません! 行っては駄目です!」
「ごめんなさい」と言いながら、レイチェルは手刀でクロエさんが持っていた短剣を叩き落とした。
「うっ……!」
同時にブレッドさんが動き、クロエさんを抑え込む。
「レリアーナ様、フリード様、申し訳ありません! 娘の短慮は親である私の責任です。処罰は私が受けますので、娘にはどうか寛大な処置を……」
「安心してください。クロエの行動は私を思ってのことです。罪に問うようなことはしません。お父様、それでよろしいですね?」
フリード様の表情は険しかったが、
「お前がそう言うなら、不問にしよう」
ととても穏やかな口調で言った。
フリード様もクロエさんの気持ちは痛いほど良く分かっている。
「待ってください、お嬢様! もしも決意が変わらないというなら、私も一緒に連れて行ってください!」
クロエさんは暴れる。
「……一緒に来て、どうするつもりですか?」
「最期まであなたのお供をします!」
「殉死など無用無益です。誰も喜びません。あなたは生きてください。生きて、幸せになってください」
「あなたのいなくなった世界で、どうやって幸せになればいいのですか!?」
「それは私にも、そして、誰にも答えることは出来ません。…………ブレッド、最後に一つだけ、お願いを聞いてくれますか?」
「…………なんでしょうか?」
「クロエを絶対に自決させないでください。私の後を追う、そんなくだらないことを絶対にさせてはいけません」
レイチェルの言葉に対して、ブレッドさんは涙を浮かべ、
「もったいない、お言葉です……はい、かしこまりました……」
と震える声で言う。
レイチェルの説得は不可能、とクロエさんは思ったのだろう。
視線が俺に向いた。
心臓を握られたような気持ちになる。
「アレックス様はこんな結末で良いのですか……? あなたにとって、お嬢様の存在はこんなものだったんですか!?」
「俺だって、嫌ですよ。でも……」
「だったら、なんでもっと強く引き留めないんですか!? それとも口ではそう言っておいて、一生、お嬢様と一緒にいるのは面倒だと思っているのですか!? これ以上は付き合い切れない。あとは報酬をもらって、自由になろう、と! だとしたら、私は思い違いをしていました。この冷血漢!」
そんなことない、と言いたかったのに、咄嗟に声が出なかった。
俺の気持ちはどうであれ、レイチェルを見殺しにする、という結末は変わらない。
「クロエ、今の言葉は取り消してください。アレックスはとても優しく、温かい人です。私に対しての、暴言暴挙は構いませんが、アレックスに対しては別です」
庇ってくれるレイチェルの言葉を聞いて、俺は心が痛んだ。
「…………」
クロエさんは言葉を取り消そうとせず、沈黙する。
「あなたとの最期の会話がこんなことになってしまい、残念です。ですが、あなたには本当に感謝しています。子供の頃から今まで尽くしてくれたこと、本当にありがとうございました。…………さよなら」
レイチェルはクロエさんとブレッドさんの横をすり抜ける。
俺たちが客間から出ると、クロエさんの泣け叫ぶ声が聞こえて来た。
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