2章 緑の拠(よりどこ)

叔母の美菜子とその娘である樹里亜が黒ずくめの男たちに連れ去られた後の室内は窓が破れ、カーテンなども破れて垂れ下がる惨憺たる有様だった。


抑止力の制裁がいつ襲ってくるかも分からないので、ハンクは早急に足元の影に手を翳す。


────フォン!!


すると、魔力の働きかけによるエキゾチックな羅針盤がパッと鮮やかに浮かび上がった。

きらきらと色とりどりの小さな宝石球が盤上を廻りながら刻むのは、時間と座標である。

ビリヤードの要領で小さな手球を指先で弾き、レネディールへの座標を定めた瞬間だった。


「!」


回転のふいの外力で球が跳ね、予期せぬ座標に定まってしまったのだ。

突然に足元の地面が抜けたようなぐらつきと浮遊感が全身を包んだ。


「…ハンク…これ、もしかして落ちてる?」


「怖いか?」


「少しだけ…」


「大丈夫だ。俺にしっかり掴まって」


時空移動が発生して身体が掻き消えていく中で傍らのエマの様子を見やると、不安に充ちた眼差しが返ってきて…ハンクは強くエマを抱き締めた……のが先刻。


──────ザブ……ン!!


深い水の中に沈みゆくような感覚を伴って到着したのは、レネディールの首都リジアから南の方角にあるフェネルトという街の農村地帯だった。

…同じレネディールではあるが、未だ戦火が届いていない実り豊かな山があり、海も見える風光明媚な村に移転できたのは不幸中の幸いだ。


「…どうなるかと思ったが、案外なんとかなる…エマ!?」


時空移動に酔ったのだろう。その場にぐったりと座り込んだエマを、ハンクは慌てて膝に横たえた。


「う……っ」


呼びかけられたエマは青い顔でゆるゆると頭を振る。応えるのも辛い、という反応だった。

置いたまま傍を離れるのは気掛かりだが、この状況が一番辛いのはエマだ。


「済まないが、助けを呼んでくる。そこで待っていてくれな…」


青褪めた額にキスを落として、八方塞がりを打開すべくハンクは大通りに向けて走り出した。

高く澄んだ青空の下、はるか遠く地平線まで長閑な風景が広がっている。どう見ても戦争などとは無縁の場所だった。

見渡す限りの同じような畑の景色ばかりで、目が可笑しくなりそうだ。


「くっ……誰かいないのか…」


どれくらい走ったのかは分からないが、大分走ったせいか漸く少しずつだが人家が増えてきた。

ふと笑い声がしたので耳を澄ませると、声はその先の十字路からで、そこでは農婦らが談笑しながら収穫した野菜を疎らに広げていた。

───作物の出荷だろうか。ならば都市部に向かうに違いない。

路傍には野菜を積んだ荷馬車が停まっており、ハンクは隙かさず馭者に行き先を訊ねた。



エマは、夢の中で過去を思い出していた。

大きく揺れる飛行機内。老若男女、たくさんの人の阿鼻叫喚。不安がって泣き叫ぶ幼い妹の声。「大丈夫よ」と背を擦る母の、震える手。

言いようもなく恐ろしくて、逃げ出したくて。

なのに足は疎か、身体すら石のように固くて動かせない。

何でオマエだけ生きてるの?

ワタシモ、オレモ、イキタカッタノニ

ズルいよ。ズルいよ…口惜しいよ…。

無数の冷たい闇の手が迫ってきて絡み付き、あわや闇の底へと引き摺り込まれそうになった時───。


「だめだエマ、戻って来るんだ!!」


悪夢の闇をこじ開け、穴を開けて飛び込んできたハンクの強い声が、闇を弾き飛ばした。


「ハン……ク…」


強い声に呼ばれて目を醒ましたら傍にハンクがいて、ただそれだけなのにすごく嬉しくて、胸苦しくなったエマはうっそりと目を細めた。


「気が付いたな。良かった……大きな声を出して済まない」


逞しい両腕に抱えられていると冷え切っていた身体にスっと体温が染入るようで、エマは抱えられたままゆっくりと首を横に振った。

ここが何処なのか、何処に向かっているのか。気になることは沢山あるのに、身体の自由が利かない。


「……ううん。良かったわ、ああでもしなかったら…連れていかれていたから」


寄越されてきた革製の水袋を受け取ったエマは、半ばハンクの胸板に寄りかかるような体勢で水を口に含む。

渇ききった喉に、冷たい水は酷く甘かった。


「ねえハンク、私たち何処へ向かってるの?」


「この国の首都、リジアという街だ。そこなら警戒線が張られているから人間エダイン・ウルグも容易には入って来られない」


人…間エダイン…ウルグって、一体何がしたいのかしら…」


異なる思想がぶつかり合う時、起きるのが戦争だ。人間側の主張の不透明さに、エマは眉を顰めた。

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