第48話 沈黙した大奥 参

 菜月は静かに首を振った。

 なにもかもかなぐり捨てた綾の姿を自分が答えることはできない。

 彼女の名誉を傷つけてしまうことになるだろうから。


「……わたくしにお答えできることはございませぬ。申し訳ございません」

「で、では、菜月殿もお見舞いにきてきただけませぬか。綾さまを励ましていただくだけでも……」

 

 楓は懸命に言い募るが、やはり、菜月は首を振るだけだった。

 楓もそれっきり黙り込んでしまった。

 しばらく沈黙が続く。

 すると、それまで口を挟まなかった幸が口を開いた。


「あのっ……! な、ならば参拝に行くことは叶いませぬか? 綾さまのご回復を祈り、祈祷をしていただくのです。そうすれば、お身体もよくなるやもしれませぬ」

「参拝に……?」


 幸は必死に続ける。


「菜月殿にご無礼を働いたことは申し開きもございませぬ。何度でもお詫びいたします。……ですが綾さまはわたくしたちにとって、姉のような存在なのです。上様のお渡りがなく、身を小さくしていたわたくしたちに優しくお声をかけてくださいました。そのお陰でこの大奥で生きてこられたようなものなのです。ですから……どうか、ご一緒に……」


 幸の背に、楓が手を添えている。


「なぜ、わたくしが一緒に? おふたりだけでも、十分に綾さまのお心は慰められると思うのですが……」

「いいえ、菜月殿であればこそ、神仏の恩恵が深く賜れる身であると思うからにございます」

「わたくしが……?」


 幸は首肯する。


「菜月殿は誰を誹ることもなく、御台さまのお心をつかみ、上様のご寵愛を賜りました。そのお心の清らかさが必要であると、わたくしは信じているのでございます。浅はかとお思いでしょう。ですが、どうか、どうか一度だけ、綾さまのためにその慈悲を賜りたく」


 菜月はどう答えたらいいのか言葉に迷った。

 幸が言う清い心など、綾の切なる願いを断ってしまった自分にはない。

 朝永と綾を天秤にかけ、朝永を選んでしまったのだから。

 幸は震える手で、きゅっと胸をつかんで、縋るような目を向けた。


「……このまま、食べることを拒み続ければ、きっと綾さまは死んでしまわれます。生き恥をさらすくらいなら死を選ぶ。綾さまは、そういう気高いお心をお持ちのお方ですなのです。ですから、どうか……!」


 幸の目は真っ赤で涙が瞳をうるませていた。

 楓と幸は、心から綾のことを案じていた。

 人を信じることが難しい大奥で、三人だけが同じ苦しみを分かち合えたのだろう。

 朝永がこない日々の寂しさや、後悔を。

 今のわたしには、それがわかる……。

 菜月は小さく頷き、そして言った。


「わかりました。参拝に参りましょう」

「菜月さま……!」


 香が声を上げた。その拳は震えている。


「……わたくしごときが口を挟むのは恐れ多いことですが、楓さまも幸さまも勝手がすぎます。菜月さまが、どれだけお心を砕かれ、大奥ここでお暮らしになってきたか。菜月さまに無礼を働いたとのことですが、簪を壊したのは――」


 スッと菜月の手が伸びて、香を制した。


「香。そこまでよ。それ以上、言っては駄目」

「しかし……」

「いいえ、終わったことを蒸し返しても意味が無いわ。わたしはもう気にしていない。それに、綾さまがお亡くなりになられたら、上様がどう思われるのかを考えなくてはいけないわ」


 菜月は静かに語る。


「確かに上様は頑ななところがおありになる。けれど、やるべきことを投げ出してしまわれるお方ではないわ。そんなお方が総触れにもお出ましになられないのよ? きっとなにかおありになったのだわ。そんなときに綾さまの訃報をお知りになったら、きっとご自分を責めてしまわれる。……今、わたしたちがするべきことは過去にこだわり人を見放すことではないわ。支え合うことよ。――お願い香。わかって」


 香は苦しげに顔を歪めたが、やがて小さく「はい」と答えた。

 そして、幸と楓に向き合って告げる。


「ことは一刻を争います。すぐに入江さまに参拝の許可をいただきに参りましょう」

「はい……!」


 ふたりは力強く答えた。

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