第47話 沈黙した大奥 弐
菜月のもとへ朝永が訪うことは、もうないだろう。
それを思うと、じわじわと哀しみが胸に広がっていく。
朝永の存在は菜月にとって、他には代えがたいほど大きく育ってしまっていた。
短く交わす言葉に温かみを覚え、向けられる視線の柔らかさに幸せを覚えた。
春の海のさざ波のように揺れる青い瞳は、もう冷たいものではなく、親しみを持って菜月を見つめてくれた。
黄泉がえりの娘であることを不吉がることもなく、甘藷のことや薙刀を続ける些細なことであっても、その行動を認めてくれた。
朝永はただ厳しいだけでなく、人の行いに対し、正当な評価を下す度量を持つ人であった。自身を甘やかすこともなく、いつだって日の本のことを考えていた。
そんな朝永に心を奪われていたのだ。
いや、あの青い瞳に魅入られたときから、きっと。
今になって綾の気持ちが痛いほどわかる。
待ってもこない人を想い続けることが、こんなにも息苦しく、一日が長いなんて想像さえしなかった。
そう思うと御台所の誇りの高さが、いかに強い心の裏付けであったかと思い知らされる。
これから、菜月も朝永のこない日々を生きていかなければならない。
この大奥で成すべきことを探さなければならない。
かりそめの関係がお役御免となれば御台所に仕えると心を決めていたのだ。ならば、御台所をしっかりと支える自分でいなければ。
――このまま部屋に閉じこもっていたってなにも解決しないわ。御台さまをお支えせよと上様は仰った。ここで挫けていることをきっとお喜びにならない。
生き返ったときも、香と一緒に立ち上がったのだ。
歩みを止めては駄目。大丈夫。きっと大丈夫。
近いうちに御台所を訪ねることを決め、香に言づてを頼もうしたときだ。
「もし、失礼いたします」と声がした。
菜月の肩がビクリと跳ねる。
声の主が楓だったからだ。菜月が無言でいると、それを見た香が対応へ向かった。 菜月は息を潜めて上の間の様子を伺った。
「申し訳ございませぬ。菜月さまは、ただいまご養生中にございましてお目にかかることはできかねまする」
「それは存じております。ですが、どうしてもお願いしたき儀があり、まかり越しました。少しでよいのです。お目通り願いませぬでしょうか」
「火急のことゆえ、どうか――」
幸さまも一緒なの?
ふたりの声は極めて深刻だった。
簪を壊したときや結を傷つけたときはまるで違う、縋るような必死さがあった。
一体どんな要件なのかと菜月の心臓は高まる。
「お願いとはどのようなことにございましょう」
香が尋ねるが、楓は「それは、菜月殿にじかにお話ししたく」と答え、帰る様子はない。
香も返答に困っている。
切羽詰まったふたりの様子に菜月は襖を開けた。
ふたりの視線が集まり、驚いたことに楓と幸は平伏した。
「お休み中のところを申し訳ございませぬ」
「楓さま、幸さま。どうぞ、お顔をお上げになってください。一体どうされたというのです?」
「……綾さまのことです」
「綾さまがどうかされたのですか?」
「菜月殿はこの五日間総触れにお出ましになられないので、ご存知ないでしょうが、綾さまもずっとお姿を見せにならないのでございます」
菜月が願いを断った日から、綾は十日間姿を見せなかった。
それから、更に五日も?
「ご病気、なのですか?」
「それがわからないのです……。最初は気分がすぐれないのかと思っておりましたが、さすがに長すぎると思い、お部屋を訪ねたところ憔悴しきっておいでで……。布団に伏せたまま起き上がることもできず、食事もほとんど食べていらっしゃらないと部屋子も心配していて……」
菜月にすがりついた姿と、零れ落ちる涙が蘇る。
あれから十五日も食べていない……。
それは大袈裟でもなんでもなく、綾の命の危険を示していた。
楓は続けて語る。
「なにがあったのかと聞いても、首を振るばかりでお答えにならないのです。長年、部屋子として仕えている小夏という娘に問うても口を閉ざしたままで、毎日、問い続けましたら、ようやく菜月殿のお名前を出したのです。ですが、なにがあったのかは話さぬままで……。ですので、非礼を承知でお伺いした次第にございます。どうか、綾さまになにがあったのかお聞かせ願えませぬでしょうか」
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