第45話 不確かに揺れる感情 陸
朝永が菜月のもとへ通うことを止めた数日後、幕府を揺るがす大きな事件が起こった。知らせが届くやいなや、朝永はすぐに指示を出した。
「陽水、島原での蜂起だが、まずは
十月二十五日。
有馬村のキリシタンが中心となって一揆が起こり、代官を殺害し、城下町を焼き払うなどの略奪行為が始まった。
数日後、呼応するように肥後天草でも蜂起。その数は一万から二万を超える大規模な数に膨れ上がり、島原藩だけでは押さえ込めない一揆へと変貌したのだ。
「この反乱に追随する動きがあれば、世が大きく乱れる。どのような手段を使っても必ず食い止めねばならぬ。諸藩の大名に戦支度を命じ、島原に出兵させるのだ!」
高麗川も険しい表情で答える。
「キリシタンの反乱ともなれば、ポルトガルの援軍があることも懸念されます。そうなれば幕府とて、ただでは済みませぬ。必ずや制圧させまする」
朝永は頷く。
やはり、キリシタンは根絶やしにしなければならぬ――。
反乱に参加しているのは豊臣氏と血縁関係にあり、取り潰された藩の浪人が多く加わっているという。
ただの領民の一揆とはわけが違う。油断するわけにはいかない。
二手、三手先を考えておかなければ。
自分に残されたものは、もう国だけなのだ。
朝永は高麗川に短く問う。
「菜月は今どう暮らしている」
「総触れに出ず、お部屋にこもっておいでです」
「病ではないのだな?」
「はい。そのような話は出ておりませぬ」
「ならばよい。引き続き俺の名代として奥の一切を取り仕切れ」
「――御意」
朝永は苦い息を吐いた。
――あのような場所はなくなるべきなのだ。
朝永にそう決意させたのは、五日前のことだった。
いつもとおり菜月の部屋へ赴いたのだが、「こちらでお待ちです」と案内されたのは
「なんの真似だ。なぜ、おまえがここに」
結は手を突いて答えた。
「菜月さまは、病を得て伏せってしまわれました。そのあいだ、上様のおそばに侍るよう入江さまに命じられました。今宵からは、わたくしが上様のお相手をいたします」
菜月の具合を聞いても、「酷くお辛そうで、お匙と香殿が懸命に手当をしておられます」と答えるだけだ。
そうして、自分は側室になったのだと告げた。
「わたくしは怯えたりなどいたしませぬ。どうぞお情けを……」
伸ばされた手を振り払い、入江の部屋に向かった。
入江は動じる様子もなく、
「重い病にかかった女子では子は望めませぬ。手厚い看病はいたしますゆえ、上様はどうぞお世継ぎの責務をお果たしくださりませ」と白々しく言った。
――そこまでして子が欲しいというのか……!
朝永の身体は怒りで震え、殴りつけたい衝動を懸命に押しとどめた。
乳母である入江に育てられた朝永にとって、入江は情を与えてくれた、ただひとりの女性だ。
その優しさに母を重ね、心を許した時期もある。
だが、彼女が真に欲するものは『世継ぎとなる男子』であり、『朝永という自分』ではなかった。
戦国の世を生き抜くために、土地を追われ、夫変え、子を捨てた女は、朝永の祖父と父に仕え、そして、
『戦がない世を続かせるためには、世継ぎをもうける必要がある』
と大奥を作り上げた。
俺の血を引く男子こそが戦のない次の世の安寧へもたらすのだと、そう信じ切っている。そのために男子を望み、女を与え続けてきた。
――愚かな女だ。そして、なんと醜悪な場所だろうか。
朝永は憐れみと侮蔑を浮かべて拳を下ろし、本来の姿にもどった。
絶対零度のなかにある、誰も寄せ付けない氷の鎧をまとわせて。
「――ならば好きにするがいい。俺は二度と奥へはこない。それを選ばせたのはおまえだ」
「上様……! いい加減にご自分の役割をご理解くださりませ! 世継ぎが生まれることこそ、亡き大御所さまが作り上げられた戦のない世を続かせるのでございます! なぜ、それをおわかりになられないのございますか……!」
だが、朝永は徹頭徹尾、冷ややかだった。
「乳母であるからこそ目もつむってきたが、妄執に取り憑かれた老婆など俺には不要だ。――じさまの亡霊に取り憑かれた哀れな女よ。その亡霊を抱いて大奥で朽ち果てるがいい」
入江の権力の象徴である『朝永の乳母』という自負と、権威が地に落ちた瞬間だった。
入江は目を見開き、唇をわななかせた。
立ち去っていく朝永に追いすがる。
「うえ、さま……! お待ちください! 上様っ……!!」
だが、朝永は一度も振り返らず入江と大奥に背を向けた。
そして、二度と足を踏み入れることはなかった。
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