第44話 不確かに揺れる感情 伍

 香の話にザラつく感情が波紋を広げる。

 総触れのとき、入江さまに変わりはなかったわ。でも――。

 果たして。

 菜月の予感は的中した。

 昼の少し前に入江がやってきてこう告げたのだ。


「本日付けで、結を新しい御中臈として迎えることと相成りました。そのためには相応しい教養を身につけていただかねばなりませぬので、わたくしの部屋子として迎えましてございまする。菜月さまにはしばしご不便をおかけいたしますが、新しい者をお付けいたしますので、お待ちくださりますよう願い奉りまする」


「ま、待ってください。結を上様の側室にとは誠にございまするか!?」


 驚く菜月とは対照的に、入江は落ち着き払っていた。


「そうです。大奥総取締役であるわたくしが決めたことにございますれば、どうぞご承知おきくださいませ。では」

「お待ちください! なぜ突然そのようなことを……! 上様は、上様はご承知なのでございますか!?」


 入江の瞳は冷たく菜月を刺す。

 それでも問わすにはいられなかった。

 朝永が承知している話だとは思えなかったからだ。かりそめの関係が終わることも告げられていない。


「いつまで上様のご寵愛にのさばるおつもりですか? 閨に侍り、もう五月いつき。未だ懐妊に兆しがないのは、菜月さまに子を身ごもる力がないからにございましょう。そのような女子を上様のおそばに置くわけには参りませぬ」


「……ま、まだ五月にございます。もう少しだけお時間を……」


「まだ、そのような情けを請われるか!」


 ピシャリと鞭打つ言いようにビクリと身体が固まる


「わたくしがいくらお止めしても薙刀を止めず、袴姿で犬と走り、上様のご寵愛をいいことにわがままを増長させ――。もし、お子ができていたなら、薙刀の稽古で流れたに相違ありませぬ! お世継ぎ問題は一刻を争うのです。引き際くらい心得なされませ!」

「そ……れは」


 菜月の口は言葉を発しようと開くが、言葉が出ずに唇を噛むだけだった。

 いつか。いつかこの日がくることはわかっていた。

 それでも、それは朝永の口からもたらされるのだと信じていた。

 入江がこんな謀を企んでいるとは想像もしていなかったのだ。

 ここへきて、菜月は初めてお世継ぎ問題の深刻さを思い知った。それでも言わずにはいられない。


「……わたくしが身を引くことは受け入れます。ですが、こんなやり方は上様がお辛すぎます。お世継ぎのためだけに意思をないがしろにされ、相手がすげ変わるなど余りにも無体ではございませぬか」


 母親の愛情を得られず、女性たちに恐れられ、それでも泰平の世を願って政を行っている朝永になぜ幸せは訪れてくれないのか。

 自分の役目が終わり、朝永が養子を取るという目的が果たされれば、閨の役目を退くことを厭う気持ちはない。面目を保つだけの訪いだけでも十分だと、そう思って努めてきた。

 朝永がときおり浮かべる穏やな表情に、自分はなにかの役に立てているのかもしれないと、わずかながらに思っていた。

 それが、こんな形で終わってしまうなんて正しいやり方とは思えない。


 ――誰も上様のことを、ひとりの男性であることを顧みることがない――。


 それでも入江の瞳は揺らぐことはなく、ただただ、冷ややかだった。

 必要のなくなった道具を捨てるように。


「それが将軍としての務めなのです。お世継ぎ問題とは、泰平の世を続かせるために欠かせぬ義務。――そなたごときが上様のお立場をわかった気になるでない!」


 入江の一喝は皮膚が痺れるように鋭かった。

 朝永の背負う重さを菜月にわかるはずもない。

 菜月は唇を噛むことしかできなかった。

 入江は言い含めるように言う。


「――上様には、そなたが病にかかった。そう申し伝えておきます。よろしいですね?」


 その日から、朝永が菜月のもとを訪れることはなかった。

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