第43話 不確かに揺れる感情 肆

 綾は平伏したまま続ける。


「……確かに、わたくしは恐ろしさのあまり上様を拒みました。ですが、それは己の役目に逆らうことです。わたくしが成すべきことは子を産むこと。再びお渡りがあれば、そのときは添おう。そう心に決めておりました。――ですが、二度目などなかったのです。待っても、待っても上様はこない。そのうちに楓殿や幸殿がやってきて、おふたりも、わたくしと同じ道をたどることになりました」


 綾がゆっくりと頭を上げる。

 その目には涙が滲んでいた。


「他の女たちも皆、同じでした。それで諦めもついたのです。全員がそうならば仕方がないと。ですが、上様は変わられました。菜月殿を見つめるときの瞳の柔らかさに、ただただ驚き、その気持ちは……憎しみへと形を変えてしまった……。あなたが憎くてたまらなくて……、そして羨ましかったのです」


「……綾さま」


「菜月殿のように、上様を恐れずに向き合わなかったことを悔やみました。わたくしのしたことは、顧みられなかったことを慰め合うことだけ。自分の愚かさをこれほど呪ったことはありませぬ」


 綾の瞳から涙がこぼれ落ちる。


「勝手を言っているとわかっております。ですが、わたくしに残されているのは、これしかないのです。菜月殿がお子を身ごもったあとでよいのです。どうか、過ちを犯したわたくしに今一度、上様と添う機会を与えてくださりませ。お願いいたします。お願い――」


 そこにはなにも取り繕わない、ひとりの恋する女性がいた。

 なりふりかまわず、菜月に懇願している。

 それは身勝手で、必死で、とても正直だった。

 上様がどれだけ傷つき、諦めてきたか考えもしないで、五年以上をすごしてきたのは綾さまたちではございませぬか。上様がお変わりになれたからといって、情けを請うのは間違っています。

 そう言ってしまいたかった。

 けれど、剝き出しの心を傷つけることはできなかった。

 今の綾はなけなしの勇気を振り絞っている。

 身分の低い自分に頭を下げてまで頼んでいる。


 ――でも……。


「綾さま。綾さまのお心はわかりました。ですが……それはできません」

「な、づき……どの」

「ごめんなさい。綾さまが憎くて申しているわけではございませぬ。上様は怯える女子に無理を強いたくないと、ずっと諦めてこられました。わたくしにできることは、これ以上、上様のお心を傷つけないことだけなのです。ですから、綾さまの願いに頷くことはできません」

「――……」

「ごめんなさい」


 綾はなにも言わなかった。代わりに涙と嗚咽だけがこぼれていた。

 傷ついた綾にかける言葉を持たない自分は、この場所に相応しくない。

 菜月はそっと立ち上がり、部屋を出た。

 香が控えている横で、小夏は顔を覆って身体を揺らしていた。


「……香。かえりましょう」


 苦い思いが胸に広がる。

 菜月はそれを捨てず、抱えて歩き出した。綾のためにできることは、それだけしかなかった。


 翌日から綾は総触れに顔を出さなくなった。

 それは三日、五日と続き、七日を過ぎるとさすがに周囲も異変を感じ始めた。


「どうなさったのでしょう……」

「なんでも塞ぎ込んでしまわれ、床から起き上がれないそうよ。お食事もほとんど口にされていないと御膳所の者も心配しているみたいで――」

「楓さまと幸さまがお見舞いに行かれても、お話もなさらないって……」


 そんな話を聞くにつけ、菜月の心には濃い陰が広がっていくようだった。

 あの夜、なにもかもかなぐり捨て、菜月に懇願した綾の姿は忘れられない。彼女もまた、哀しみを背負った女性のひとりだった。

 それでも菜月は綾の願いに応えることを選べない。何度考えてもそれは変わることはない結論だった。

 香もまた綾に関して口を開くことはなく胸の内にしまっている。

 菜月の部屋も以前のような明るさはなく、静かに沈黙を保っていた。

 その静けさを破ったのは綾が姿を見せなくなってから十日後のことだった。


 その日の朝、菜月が総触れからもどると結の姿が見えなかった。


「入江さまからお呼びがあり、もどってこないのです」

「入江さまから?」

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