第42話 不確かに揺れる感情 参

 秋の気配が満ち始めたころ、事態は緩やかに動き始めていた。

 静かに、しかし、確実に忍び寄る陰のように。

 夜の総触れが終わったあとのことだった。菜月が部屋にもどろうとすると、声がかかった。


「菜月殿。よろしいかしら?」


 声の主は綾だ。菜月の身体に緊張が走る。

 結の一件から極力、綾には近づかないできた。菜月は用心深く答えた。


「……なんでございましょう」


 他の女たちは次々と大広間を出て行く。

 それと逆行するように、綾は大広間の片隅に無言で歩を進め、菜月は後ずさるように追い詰められた。綾のすることに口出しする者はおらず、いつも一緒にいる、楓や幸も今夜だけはいなかった。


 ――いざとなれば大きな声を出せば――……。いいえ、わたしなら走って逃げられる。


 そう頭の片隅で考えていると、綾は潜めた声で、「少しの時間でよいのです。わたくしの部屋へきていただけませぬか?」と言った。


 無理な話だ。

 隔離された部屋へ赴くことは危険でしかなく、御台所にも身辺には重々気をつけるように言われている。


「申し訳ございませぬが、お受けいたしかねます……」


 そう言って横をすり抜けようとしたとき、綾の手が手首をつかんだ。

 驚いて綾を見やる。

 綾の手は震えていた。食いしばるような声が唇からもれていく。


「……そうなるのは……、いえ、そうなって当然のことをいたしました。申し開きもございませぬ。けれど、どうしてもお願いしたいことがあるのです。部屋方でも、世話係でも付いてきてもらってかまいませぬ。ですからどうかお願い……。どうか、きてくださりませ」


 見たこともない綾に菜月は戸惑った。

 切羽詰まった表情に敵意はなく、心底、菜月に懇願している。

 どうしたらいいの? よからぬ考えを持っているようには見えないけれど、ひとりで付いていけるほど、綾さまを信じられない……。

 すると入り口からひとりの娘が、こちらへやってきて菜月にの足下に平伏した。


小夏こなつ? どうしてここに……?」


 綾が驚いたように問う。

 だが、小夏と呼ばれた少女は菜月に頭を下げたまま言った。


「――どうかお願いいたします。わたくしが、お部屋の方を呼んで参りますゆえ、一度だけ。一度だけ綾さまをお信じください」

「あなたは……」

「わたくしは綾さま付きの部屋子で小夏と申します。このような場に割って入ったことを深くお詫び申し上げます。綾さまはこの半月ほどずっと思い詰めておられ、おひとりにするのは忍びなく近くに控えておりました。……そうしたらお声が聞こえて……」


 小夏は菜月を見上げた。


「後生でございます。綾さまの願いをお聞き届けくださりませ……!」


 小夏という娘の瞳に嘘は存在しなかった。

 自分の身と引き換えにしてでも、主の願いを叶えようとする忠誠心だけがある。

 綾を見る。


「お願い……」


 唇からこぼれた声は精一杯の懇願を含んでいた。


「――わかりました。お伺いいたします。小夏殿。部屋から加賀香かがかおるという世話係を呼んできてくださる?」

「……はい……! すぐに」


 答えた小夏は早足で駆けていった。菜月は覚悟を決めて告げる。


「では、参りましょう」




 綾の部屋には人気がなく、仕える者たちは二階に上がっているようだった。明かり取りの火がぼんやりと部屋を照らし、ジジと油が燃える音が微かに鳴る。


「――どうぞお座りになって」


 綾に勧められて、菜月は腰を下ろした。

 目の前の綾は記憶にある姿よりやつれていて、人をひれ伏させるような威厳も誇りも失われているように映った。

 なにがあったというの……? わたしをどうしようというのかしら……。

 身構えていると、


「――一菜月殿、これまでの無礼をお許しください」そう言って綾は平伏した。


「あ、綾さま?! なにをなさって……」

「どうぞこのままお聞きください。お願いがございます。わたくしのもとに上様のお渡りがあるよう働きかけていただきたいのです」

「――……え?」


 菜月は自分の耳を疑った。

 今、綾さまはなんて仰ったの?

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