第41話 不確かに揺れる感情 弐

 不意に浮かんだ考えに、そんなはずはないと慌てて打ち消す。

 これはただの事実だ。

 菜月が成したことへの報告にすぎない。東斬直孝に知られたとて問題のないことだ。

 朝永の心情を知らない菜月は、読み終えた書状に顔をほころばせた。


「本当にようございました。畑仕事をしていたことが、このような形でお役に立つなど思いもいたしませんでした。来年は江戸で収穫された甘藷で菓子をお作りいたします」

「前に作ってくれたのは、近衛家で供されている菓子だったな。確かに甘く、上品な味だった」

「お気に召したのであれば、今度はもっと上手く作ってみせます」

「――菜月」

「はい?」


 袂にあるかすかな重みが、また取り出せない。

 今回の褒美だと渡すだけのことなのに、なぜ躊躇う。

 自分の行動を迷うことなどなかったはずなのに。


「上様?」

「――いや、なんでもない。作ってくれるのならば食べよう」

「あ、ありがとうございます!」


 この娘はなんでもないことを、なぜこうも喜ぶのだろう。

 着物や化粧の品、装飾品などに目もくれず、薙刀や犬を欲しがり、自分に菓子を食べさせたいと言う。


 ――いや、それで満足するならそれでかまわぬ。


 朝永は思考を切り替えた。

 これ以上、答えの出ないことを考えることに意味はない。俺は俺のままだ。それに菜月が喜ぶ話は別にある。


「江雪がみごもったぞ」

「! 誠にございますか!」

「ああ。もう二月ふたつきもすれば生まれよう。ようやくそなたの願いが叶うな」

「嬉しゅうございます……! 貞宗と江雪の子ならば、さぞ愛らしい子犬でしょう。江雪には滋養のあるものをたくさん食べさせてやらなければなりませんね。ああ、そばにいることができればよいのに……!」

「名前でも考えて待つといい」

「はい。いくつか考えております」

「ほう、どのような名だ」

「巴、静などよいかと思っているのです。他には小豆あずきも候補にございます」


 朝永はくくっと笑った。


「女武将の名ばかりだな」


 上様がお笑いになられた――。

 初めて目にする表情にトクンと胸が高鳴り、顔が赤らむのを感じた。


「どうした。顔が赤いぞ? 熱でもあるのか?」

「い、いえ、嬉しくて……」

「ならよいが。しかし、小豆はどのような由来からきたのだ」


 朝永が興味を持ってくれたことが嬉しい。

 菜月は頬を上気させながら答えた。


「金ケ崎の戦いにて信長公を逃すために、お市さまが機転を利かせた小豆からにごさいます」

「浅井の裏切りを知らせた、あの小豆か」

「はい。お市さまの機転がなければ、織田と伊々田軍は、越前と北近江から挟撃を受けておりました。そんなお市さまのように賢い犬に育ってくれればと願いをこめております。共に精進を続ければ、わたくしも、お市さまのような女性にょしょうになれるやもしれませぬ。そうなれば、上様のお役に立つことができるかも、と」


 朝永は不可解な面持ちでこちらを見ている。

 菜月は自分が自惚れていると気づいて、「た、高望みであることは承知いたしておりまするが……、気持ちだけでもそうありたいと……」とうつむいてしまった。


 どうしよう。呆れてしまわれたかしら……?

 怖々としながら視線を上げる。――と、朝永は穏やかに口元を緩めていた。


「いいや、目標があることは悪いことではない。じさまも、その金ケ崎の戦いを切り抜けて生き残ったのだからな」

「はい……!」


 素直な感情を花のように開かせるのを見て、朝永の心は知らず、温かいもので満たされた。

 菜月の率直な心のあり方が愉快だったからだ。

 菜月もまた、朝永の穏やかな表情に幸福が胸に満ちていく。

 まるで、ふたりのあいだに見えない糸が結ばれるような感覚がする。


「――名は小豆にいたします」

「そうするといい」

「貞宗という名前にも由来があるのでしょうか?」

「ああ。じさまが戦のとき必ず持っていた脇差の名だ。自分に勝利をもたらしてくれる守刀だと仰っていた。名は物吉貞宗ものよしさだむねという」

「まぁ……大権現さまの守刀。上様のおそばにあるお犬さまとして、とても相応しい名前であると思います。きっと美しい刀なのでしょうね」


 菜月が夢見心地で呟くと、朝永が「これだ」と言って腰から引き抜き、手渡した。


「えっ!?」


 無造作に差し出された刀に、慌てて着物の袖に乗せて恭しく受け取る。

 ズシリとした重さが腕に伝わる。

 朝永が持っているとそれほど大きさを感じさせなかったが、鋼の重さは想像以上だ。


「こんなに重いものなのでございますね……。わたくしが扱っている薙刀でも、重いと感じておりましたが比べものになりませぬ」

「菜月のものは木製薙刀だからな。それでも扱えることは立派なことだ。これからも続けるといい」


 ――今、名前を呼んでくださった……。


 菜月と呼ぶのは、結や香の前で仲睦まじい様子を演じるために必要だからであり、基本は『そなた』と呼びかけられる。

 今は、ふたりきで誰もいなのに、親しげに名前を呼んでくれたのだ。

 そのことに朝永は気づいていない。自覚がないのだ。

 だからこそ、こんなにも嬉しい――。

 菜月は柔らかく微笑みながら「はい」と答えた。


 朝永のその行為がどれほどの意味を持つのか、双方が気づくこともなく。

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