第40話 不確かに揺れる感情 壱

 九月に入り日中の気温も下がり始めた昼下がり、高麗川から報告を受けた朝永は、美しい顔を歪めもせず「そうか」と答えただけだった。


「お秋さまのことですから、どうぞお気になさらず」


 端的に言う高麗川の言葉に朝永もただ頷く。


「よいのだ。風邪を引いたのであれば、朝照あさてるが手厚く看病するだろう。見舞いの品など余計なことだった。それにこうなる予想もついていたしな」


 朝永の母、秋が床に伏せった知らせに、胡桃や柑子などを贈ったのだが「不要です」という文とともに送り返されたのだ。

 未だ母の心は『己の子は朝照ひとりきり』のままなのだろう。

 変わらない。これは一生変わることはないことはない。

 それに傷つくほど母の愛情を得た記憶はない。母の愛はいつだって弟、朝照だけにそそがれていた。父の死後、すぐさま駿府城へ呼び寄せるほどに。

 考えるな。忘れろ。

 朝永は首を振って過去を振り払った。

 ここには母も弟も存在しない。自分が成すべきことが山積している。

 高麗川が新しい書状を差し出した。


「上様がお待ちになっておられた、甘藷の栽培についての報告になります」

「きたか」


 ざっと目を落とす。

 そこには、朝永が期待したことが記されてあった。そよと風が吹く。

 それに促されたように書状をたたんで懐にしまった。そして言う。


「――奥へ参る」




「上様、ようこそおいでくださいました」


 いつもとおりの笑顔で菜月が迎え入れる。


「変わりないか」

「はい。あ……なにかよいことがございましたか?」


 睫毛の長い瞳が朝永を見つめた。

 朝永は懐から書状を取り出し、菜月の前に差し出した。


「これは?」

「以前、そなたに聞いた甘藷かんしょの栽培についての報告だ。土を調べさせてみたのだが、問題なく育つことがわかった」

「まぁ……! 覚えていてくださったのですか?」


 桜に赤を重ねたような色に頬が染まる。


「植え付けの季節はすぎていたが、試しに植えさせみたところ、夏を耐え抜いて育っていると書かれてある。来年の実りの結果次第では、諸藩に栽培を推し進めることになるだろう。成功すれば飢饉に備えることができる。これはそなたの手柄だ」

「え?」


 菜月の瞳がこぼれそうに開かれた。


「いえ、わたくしはお話しただけにございます。実践なされたのは上様で――」

「いや、育つ環境を教えてくれなければ試してみることもなかっただろう。読んでみるといい」


 菜月は瞳を輝かせて書状を開いた。

 横顔から覗く、うっすらとツツジのように色づいた耳朶をみつめながら、自分はなにをしているのだと不思議な感慨を持った。

 まつりごとの経緯を知らせるなど、どうかしている。

 こういったことは高麗川にしか聞かせたことはない。だが、菜月が知れば喜ぶだろうと、そう思ったのだ。

 まるで、母親を喜ばせたいと胸を弾ませた子供のころのように。

 馬鹿らしい。

 情などなくとも生きてゆけると、先ほども切り捨てたはずだ。

 菜月とはかりそめの関係で、それ以外の理由はない。


 ――ならば、なぜ、俺は菜月に読ませたいと思ったのか。


 朝永が訪うと、そよ風が吹き抜ける春の日のような佇まいで迎え入れる。そのたびに朝永は自然と呼吸ができるような安らぎを覚える。

 俺はこんな甘えた男ではなかったはずだと訝るのだが、菜月の微笑みを目にしていると、それが続いてくれたらと願う自分がいる。

 朝永はその考えを否定した。


 ――俺はなにも変わっていない。誰かを信用することも、隙を作ることもあり得ぬ。菜月のことも時期がくれば終わる。夜をすごすこともなく、こうして昼に訪うだけだ。こんなものは一時の気まぐれにすぎない。


 それでも菜月が嬉しそうに書状を読んでいる姿を見ると、今まで経験したことのない感情が胸に広がる。昼だけでなく、夜の穏やかな時間も。

 それは朝永が知らない時間の流れだ。


 ――そばに居て欲しいのか……?

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