第39話 御台所の忠告 弐

「そうやなぁ。ほな、小西の志ら菊でも頼みまひょか。すぐに重陽の節句がきますやろ? 菊合きくあわせのとき呑んだら、さぞ甘露な味がしますやろ」

「ああ! そうでございました。持ち寄った菊の美しさを左右にわかれて競うという」

「そうや。薩摩でもええ花師を抱えているはずや。ようっとえ菊を選ばれるんやで」

「……わたくしに菊の目利きができるかどうか。御台さまには、とても適いそうにござりませぬ」

「ええんよ。綺麗な花をたんと並べるだけでも目が楽しいですやろ。ようは花びらを浮かべた酒を呑む遊びなのやさかい」

「きっと、このしらべのように優美なのでしょうね。わたくしも、お酒を勉強いたします」

「菜月はんは、ほんに真面目なこと」


 御台所はコロコロと楽しげに笑い終えたあと、スッと表情を瞬時に切り替え、「――よぉ聞いて」と潜めた声で切り出した。


「菜月はんは、しばらく身辺に気ぃつけた方がええ」

「え……」


 先ほどまでの柔らかな声音とは違う、重さを伴った忠告に菜月の酔いは吹き飛んだ。

 御台所が言葉にするということは、それだけの判断材料があるということだ。

 花紅葉はせせらぎのようにシャラシャラと流れている。


「物ごとが大きく変わるときは、必ずどこかで軋轢を生むものです。菜月はんは、そういった妬みなんかとは遠いお人やから、わからんかもしれんけど、大奥はそんなもんを煮詰めたような場所や。――大奥は長いこと上さんがおって、おらんような場所やったからこそ、女たちは、それほどいがみ合うこともなく上手くやってこれた。それが、ひとりの女子に上さんが興味を持ち、傍目にもわかるほどの変化をもたらせた」


 菜月は息を呑むように耳を傾ける。


「それは、強い不満を持つ女を生み出すということ。そして、不満は憎悪へと形を変える。行き先は変化をもたらせた者――菜月はんや。上さんが菜月はんを寵愛すればするほどに、増悪は大きゅうなって、本人の意思ではどないにもできひんようになる。女の情念を甘う見たらあかんえ」


 結に裸踊りをさせようとした綾たちが浮かんだ。

 あの悪意がもっと大きくなるというの……?

 確かに、あのときの綾は、闇を支配するような仄暗い力を持っているようだった。部屋のなかは蛇の巣穴のように暗く、別の空間に迷い込んだ錯覚さえ覚えた。

 それに、側室は綾たちだけではない。

 菜月は知らず喉が鳴った。


 ――自分を守ることも大切だけど、同じくらいに結や香のことも考えなければならないわ。よくしてくださる御台さまも、上様だって安全ではないかもしれない。


 菜月はキュッと唇を引き結ぶ。


「御台さまもお気をつけくださりませ。西の丸は本丸より警備が厳重ではございませぬ。どうぞ、身の回りに人を置き、決しておひとりにならぬようになさってくださりませ」

「……菜月はんは、ほんに人がよろしゅうおますな。己が危ないというときに人の心配ばかり」

「御台さまは、わたくしによくしてくださります。そのことで万が一にも危険なことがあってはならぬと思うだけにございます」


 御台所はふっと息を吐き、緊張のほぐれた表情で「わたくしにも妻を娶ることができたらええのに」とささやいた。

「御台さまが妻を……?」

「そうしたら、菜月はんを選びますのに」

「え……?」


 御台所の中指がそっと菜月の頬を滑る。


「ふふ。そないに驚いたら目ぇがこぼれてしまいますえ」

「い、いえ、そのように思っていただけるとは、思いもよらず……」


 御台所の思わぬ行動に気が動転してしまい、思うように言葉が出ない。

 なんだか、とても意味深な行為に思えて胸がザワザワと騒ぐ。

 御台所の瞳はどこか切なげだ。


「汚おして、ずっこいことばーっかり見てきた身からしたら、菜月はんの綺麗ぇな心根は、代えがたい宝みたいなものや。……上はんもきっと……」


 吐息がかかるほどの距離で紡がれる言葉に、菜月の唇はツルリと、「御台さまは……上様のことを、まだお慕いいたしているのだと……」そうこぼしてしまった。


「ほんまに純粋なお人だこと。わたくしは大奥のあるじであり、帝の血を引く女ですえ? 振り向いてくれへん殿方に未練を抱くやら、己に許すことはあらしまへん」


 なんて誇り高いのかしら……。

 その気高さは、朝廷の威信を示しているかのようだった。

 菜月は手を突いて言った。


「――わたくしは、近いうちにお役御免・・・・となりまする。そのときは御台さまに誠心誠意お仕えいたします」


 御台所はなにか言いかけたが、それを飲み込んだ。そして、


「よろしゅうおたのもうしますなぁ」としなやかに微笑んだのだった。

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