第38話 御台所の忠告 壱

 八月も終わりを迎え、幾分か過ごしやすくなった。

 打掛を羽織る必要がなく、腰に巻くだけなので大分楽なのだが、菜月は朝永の許しを得て、部屋では袴姿ですごしている。

 薙刀の稽古もあるが、時折、貞宗と江雪を連れてきてくれるので、散歩のときには袴のほうが安心なのだ。


 二頭はやんちゃなさかりで、歩く速度が速く、菜月も犬たちと番奏するように駆けるときの風の香りがたまらなく好きだった。

 そして変わったのは季節だけでなく、朝永も、女性たちもだった。

 それを顕著に感じたのは彼女たちの視線だ。

 総触れのあいだも、終わってから無言で立ち去る朝永を皆の目が追いかけるのだ。

 それほどに朝永が纏う空気は変化していた。


 もちろん冷たさが消えたわけではないし、優しい言葉を発するわけでもない。

 けれど、御台所が『凍てついた冬』と評した絶対零度の冷たさのなかにあった氷が、ほんの少しだけ溶けだした変化でも、青鬼という噂を体現したような冷然たる朝永を目にしてきた女たちにとっては、注目をさらって有り余るものだった。


 一文字に引き結んだ唇が、わずかにゆるむさまは、蕾がゆっくりと時間をかけて繊細な花弁を広げるようで、その瞬間を目にした者は心を奪われてもおかしくない。

 もともと朝永の姿形は恐ろしく整っている。

 優美な眉と筋の通った鼻梁から唇をたどり、形よく整った細い顎は選び抜かれたような曲線を描いている。

 夜に咲くはずの月下美人が朝日のなかで咲き、青の双眸は湖のきらめきを放つような神秘性をもたらしているのだ。

 誰だって目を奪われる。

 最近は菜月に視線を向けてくれる瞬間があり、その視線は柔らかに細められていることがある。それを見るたびに胸がトクンと跳ね上がり、全身に喜びが満ちて、ここにいることが幸福であると感じるのだ。

 渡りがある夜も以前のような義務感から抜け出し、菜月の薩摩での暮らしや、朝永が見ている世界について語ることも増えた。

 そのときの朝永は肩の力が抜けて、ふたりで星の瞬く湖に浮かぶ小舟に揺られ、揺蕩う時間に身を任せているように穏やかだ。

 共に眠るときは、この方の未来が優しいものでありますようにと、菜月の細い指先は祈りを捧げるように合わせられる。

 御台所から声がかかったのは、そんな時間を過ごしていたさなかのことだった。


「ようきてくれましたなぁ」

「いえ、お招きいただきまして嬉しゅうございます」

「ほんま? ようやく西の丸での生活整うて落ち着いてきたよってな。菜月はんが上さんに、暮らしやすうなるよう、些細なことを進言してくれはったお陰や」

「いいえ、御台さまのお心が晴れることを上様は願っておいででした。わたくしではなく、上様のお心遣いかと存じまする」

「ふぅん。上さんが変わりはったというんは、ほんまのことなんやなぁ。どないな方法を使ったのか教えてくれはらへん?」


 そう、からかうように御台所は笑った。


「方法など……。今の上様こそ本来のお姿なのでしょう」

「謙遜することあらへん。誰かの心を動かすいうんは簡単なことやないさかいに。まぁ、そんでも、本当の姿を見せるんは、菜月はんの前だけやと思いますけどな」


 どう答えていいのかわからないでいると、「嫌味を言うてるんやあらしまへんえ。わたくしかて、誰にでも菜月はんと同じように接することがないのと同じこと。大奥ここは心を許せる人を作るには難しい場所やよってな」


 御台所の言葉に「そうでございますね」と頷いた。

 そのあとは、京から呼び寄せた楽器奏者による『花紅葉』という演奏を聴いた。六人の奏者が奏でる琴と三味線と尺八の音色は、京の雅さを謳っているようで、菜月はうっとりと聴き入った。

 御台所から勧められた酒はほんのりと甘い香りがして、口当たりがよいものだった。

 二口、三口と呑んでいくと身体がふわふわとしてくる。

 それを見た御台所はクツクツと笑う。


「菜月はんは、お酒に弱いようですなぁ。もう、お顔がこぅ染まってますえ」

 

 菜月は思わず両頬に手をあてる。


「わたくしは、大奥に入るまでお酒を口にしたことがなくて」

「ホッホッホ。そら、薙刀を振り回しているお人には酒なぞ必要ないでしょう」

「……お恥ずかしい限りです。御台さまがお好きなのでしたら、今度お持ちいたします。どのようなお酒がお好みでしょうか?」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る