第37話 入江の一手

「ならば、わたくしに直接、仰ればよいことしょう。逆らえない結にこのような無体を働く必要などございますまい。確かにわたくしは世継ぎを産む資格がないのかもしれませぬ。ですが、これだけは言えます。あなた方より魂は穢れていない」

「なんですって!?」


 一番年若い幸が眉をつり上げた。


「いくら美しく着飾ろうと、美貌を誇ろうと、その魂の穢れは生き返ったわたくしの穢れよりも醜悪です。逆らえない相手に地位を利用して無体を強いるなど、いかに大名家のご息女であろうと許されることではありませぬ。人の心を軽んじるならば、それをなさる行為も軽んじられて然り。上に立つ立場におられるのならば、なおのこと人の心を慮り、慈悲の心を持つべきだとわたくしは考えます。――さぁ、結。帰りましょう」


 結は小さく頷いて立ち上がった。

 菜月はその身体をしっかりと支え、部屋を出ようとした。

 その背に幸の甲高い声が届く。


「どうせ上様に告げ口なさるのでしょう! そんなことをしても無意味ですからね! 上様は誰の言葉も意に介さないのですから!」


 感情をむき出しにした声は、やるせない憤りに満ち、子供が駄々をこねているようにも聞こえた。

 そうか、と菜月は気づく。

 朝永の寵愛を得るために存在する大奥において、それが潰えた悲しい女性たちのひとりなのだと。綾も、楓も幸も。

 皆、一度は朝永との閨は行われた。

 きっと菜月と同じように噂に不安を抱いて迎えたのだろう。

 いや、世継ぎをもうけることの重要さは、菜月と比べものにならないほど理解していたはず。

 けれど、朝永の青い瞳を目の当たりにして恐怖が勝ってしまった。

 与えられた一度の機会を自ら潰してしまったことは、悔やんでも悔やみきれないできごとだったのだろう。

 なぜなら、どんなに願おうとも朝永が二度目を求めることはないのだから。

 そして、残されたのは途方もない時間だけ。

 それでも綾たちに同情はできない。

 虚しさを埋めるために憎しみを人にぶつけることに頷けないからだ。


「結。歩ける?」

「……はい」


 幸の声に振り返ることなく歩みを進めて行く。

 菜月の心は、大奥に存在する哀情に軋んでいた。

 大奥ここには朝永の苦しみが、わかり合うことを諦めてしまった御台所の哀しさが、綾たちの後悔が重なり合っている。

 そして、皆、辛くて悲しい気持ちを抱えながら生きている。

 菜月だってかりそめの関係だ。近いうちに閨もお役御免となる。

 そのあとは面目を保つための来訪だけ。

 その寂しさに胸が痛むからこそ、綾たちに同情できなくても心底憎むことができない。


 ――大奥は狭すぎるのだわ……。なにが正しくて間違っているのかを忘れさせるほどに。



 ◆入江の一手



「菜月が上様に侍ってからもう四月よつきじゃ。しかし、懐妊の兆しが一向にない。やはり、曰く付きの娘に期待すべきではなかったか……」


 入江は脇息に身を預けながら、ぽそりと呟いた。

 ようやく、朝永のお手が付いたというのに子を身ごもらないのでは意味がない。

 一体いつになったらお世継ぎを抱けるというのか。

 自分は五十六歳で、大奥総取締役として盤石である時間はもう僅かだ。

 己が大奥を采配できるうちに、なんとしてでも世継ぎを産んでもらわなければならない。

 このまま手をこまねいて待っていているだけでは、お世継ぎ問題は解説しない。

 朝永の血を引く男子こそが、次の世の安寧をもたらすのだ。

 大御所さまが築かれた戦のないこの世を。

 だが、朝永が女を抱ける身であることを証明できたことは幸いだった。

 であれば、菜月と似た娘であればなんとかなるのではないか。


「――例えば身分の低い、快活な女子ならば、あるいは」


 計算高い頭脳が勝率の高い絵図を描く。

 はたと、ひとりの娘が浮かんだ。

 これならばいけるやもしれぬ……。

 入江はほくそ笑む。


「さて、どのように仕掛けるか……。まずは、身辺を洗い出そうかの。わしの言葉に頷くしかない弱みがあれば重畳じゃ」

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