第35話 新しき部屋方 肆
香はくすりと笑って言った。
「卵を使った菓子で色は綺麗な黄色で、滋養が高いのですよ。それに砂糖もたんと入れるので、とても甘く、それはもう美味なのです」
「……聞くだけで美味しそうです」
興味津々の結に菜月は微笑んで言った。
「ふふっ。わたくしたちのぶんもあるから、あとでいただきましょうね。一箱は御台さまにお届けいたしましょう。結、行ってくれる? 西の丸は遠いから大変だけど」
「お任せください」
結はそう答えて風呂敷に包んで軽やかに駆けていった。
香には薩摩藩邸に出す書状を託し
政務が立て込んでいるときにはこないが、昼までに奥泊まりする連絡はくるので、そのときは酒を用意して夜を待つ。
温かくなったここ数日は障子を開け放ち、月の光が注ぎ込む部屋で静かな時間をすごしている。
その静けさは苦痛ではなく、桃の香りのように菜月の心を甘やかにさせる。
口数の多くない朝永との時間は沈黙も多いが、表情に硬さがなく、くつろいでいることがわかる。
菜月の生活に不自由がないかを尋ね、なにも困ったことがないと答えると「そうか」と頷いて、こくりと酒を呑む。
月光に染まった朝永は、触れることを躊躇うほど神秘的で神々しく映り、青い瞳に月光の金色が反射しているさまは、水神が戯れに水面につま先を触れさせ、波紋が広がるのを見ているようだった。
けれど、この時間は有限だ。
菜月に子供ができないことはそう遠くない時期に知れる。
朝永は役目を終えても対面を保つと約束してくれたが、この関係を保つことは難しいと思っている。入江がよい顔をしないからだ。朝永のそばに侍ることが許されているのは、子供をもうけるため。
それが叶わないのならば、きっと、新しい女性を朝永のそばに置こうとするだろう。
そう思うと胸がツキンと痛むが、今は許された時間を大切にすることだけを考えていたい。朝永が少しでも心穏やかに過ごせる時間を作ることが、菜月にできることなのだから。
――今夜はきてくださるかしら?
菜月はそっと胸に手を当てた。
一足早く帰ってきた香は、夜の総触れに着る着物の用意をしつつ、「今夜はどのようなお食事でしょうね」と楽しげに言った。
御城にいると毎日お米が食べられるので、香はありがたいことだと一口づつ噛みしめて食す。
薩摩では一汁一菜がほとんどで、菜月も香もいつもお腹をすかせていた。
残すことこそ贅沢の象徴なのだが、当時のことを思うともったいなくて、いつも完食していたのだが、その行為は御膳所で評判がよく、香が膳を取りに行くとにこやかに対応してくれるそうなのだ。
それが嬉しいようで、よく、
「お料理の作り方を聞くと、さすが公方さまにお仕えする料理人だと感心するばかりで、わたくしも
「そうね。薩摩にいたころは、ふたりで工夫したものね」
クスクスとひとしきり笑ったあと、香が「そう言えば結の帰りが遅うございますね」と言った。
「たしかに遅いわね」
出て行ってから半刻近くは経過している。
何度か御台所へのお使いを頼んだことがあるで、西の丸に入ることに問題はないはずなのだが。
「なにか困ったことでも起こったのでしょうか。わたくしが様子を見て参ります」
そう言った香を引き止めた。
「わたしが行くわ。香は上様がお越しになったらお待ちいただくように伝えて」
「しかし……」
「結は部屋方よ。無理難題を言われたら断れない立場だわ。わたしなら多少の無理がきく。大丈夫よ、すぐにもどってくるから」
なんだか胸騒ぎがする。
菜月は急いで西の丸に向かった。
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