第34話 新しき部屋方 参
結が働き始めて一月近くが経過した。
当初は入江の偵察目的ではないかと疑念を抱いていたが、思い違いであったのではと思えるほど結は聡明で働き者だった。
布団の上げ下げ、水仕事など力が必要なことを率先してやり、香の負担を軽減させた。人付き合いも上手く、ふたりが一緒にいると笑う声が聞こえてくることも多い。
なにより嬉しかったのは朝永に怯えることがなかったことだ。
無駄口を叩かず、静かに控え、朝永のことを尋ねてくることもない。
朝永に心地よくすごして欲しい菜月にとって、これが一番ありがたいことだった。
そして、結もまた辛い過去がある女性だった。
どうして大奥に奉公することになったのか尋ねたときのことだ。
「訳あって結婚を諦めたのです。ですから、大奥に骨を埋める覚悟で奉公しようと心を定めました」
――十七歳の娘が結婚を諦めるなんてどんな理由が……。縁談が持ち込まれる年頃のはずなのに。
結はたおやかな顔つきであり、気立てもよく、なにより働き者だ。結婚を諦めなければ理由がない。一体なにが起こったというの?
問うてよいことなのか逡巡したのが伝わったのか、結はもう終わったことだというように淡々と語り始めた。
「――わたくしは十四のときに、六つ年上の方に嫁ぎましたが、とても苦しい思いをさせられました。余りの無体に実家に逃げ帰ったのですが、相手は大店の息子で、あらぬ噂を流されてしまい、新しい嫁ぎ先を見つけることは難しくなりました。身体の弱い母は塞ぎ込んでしまい、家にいても身の置き所がなくて……」
無体。
この言葉の裏を想像して胸が痛んだ。そして噂。
自分のあずかりしらぬうちに、ありもしない、もうひとりの自分が形成される苦しみは菜月も知っている。
その噂が事実であるかどうかは関係なく、人々はその噂を信じ込み、本人を否定するようになる。
「それで、大奥に……」
「はい。父に頼み、あらゆるツテをたどって奉公が叶うことになりました。大奥で働けば女の身でも食べていくことができます。わたくしはもう誰にも嫁ぎたくございませぬ。――働いて生きていきたいのでございます」
そう言った結の顔は凜とした強さをまとっていた。
――心の傷を癒やしてくれる相手を求めるのではなく、自分の足で立とうとして、ここにいるのね。傷を持たない人間などいないのだわ。御台さまも、上様だって辛い思いを抱えている。
辛いのは自分だけではないのだと改めて菜月は思った。
生き返ったとき、苦しみは自分だけのものだと思い込み、他者もそうであることに思い至ることはできなかった。
「結。あなたは強い人ね。わたくしも見習わなければならないわ。――これからも力を貸してくださいね」
それから結と菜月の距離は近しいものとなり、香も結に頼みごとをする機会も増えた。大奥という場所に身を置き、朝永との繋がりがある以上、警戒を解くわけにはいかないが、気持ちよく働いてもらいたいとも思う。
薩摩藩邸へ甘藷を送って欲しい旨の文を書き終えたとき、
「菜月さま。どうぞ」と結がお茶を運んできた。
「ありがとう」
「大変でございますね。あまりご無理をなさらないでくださいませ」
「大丈夫よ。鍛えているもの。それに試してみたいこともあるの」
「試したいこと、にございますか?」
「ええ。お菓子を作ってみようと思っていて」
「まあ。どのようなものをお作りになられるのでしょう」
「甘藷という芋を使ったものよ。結も手伝ってくれる?」
「もちろんにございます」
そこへ、「菜月さま。薩摩藩邸より届けものが」と香が部屋に入ってきた。両手に大きな風呂敷を抱えている。
「なにかしら?」
添えられた文を読んでいく菜月の口元がほころんでいく。
「香。カステラよ! 上様がいらしたらお出ししましょう!」
「まぁ、それはようございますね」
「カステラ?」
結は不思議そうに首をかしげている。
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