第33話 新しき部屋方 弐

 重い雲がひらけた青い空は朝永の瞳のように澄み渡っていた。

 吹上の庭は広大で人目を気にしなくてもすむ。

 菜月は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。白く清楚なクチナシの甘い香りが運ばれ、うっとりとする。

 美しく咲く紫陽花の群生は雨の恵みを受けて色鮮やかに咲き誇り、目を奪われる。


「梅雨は過ごしづらいですが、紫陽花がもっとも美しく見ることができる季節ですね。吹上のお庭には色々な花が咲いて、いつきても飽きることがございませぬ。上様もそうお思いになりませぬか?」

「花など気にかけたこともないが、そなたがそう思うのならば庭師がよい働きをしているということなのだろう」


 菜月は紫陽花に手を添えてみずみしさを楽しむ。


「ところで菜月。あの結という娘だが入江の息がかかった者だと心しておくようにな。決して油断をするな」

「はい。注意いたします。本当のことは、ここで上様とふたりのときにお話いたします」


 朝永はその言葉に妙味を感じて、数秒、菜月を見つめてしまった。


「上様?」

「いや、そうしてくれ」


 菜月はそれに気づくことはなく、はしゃぐように語る。


「早く犬を連れて散歩しとうございます。きっと毎日が楽しいことでしょう。貞宗も江雪も息災ですか?」

「そうだ。そなたに伝えようと思っていたのだ。江雪が子を身ごもったぞ」

「まあ! 本当にございますか!」

「ああ。母犬の乳が必要でなくなるまで待ってもらわねばならならぬが、おそらく十月をすぎたころには、そなたのもとに届けることができよう」

「なんて嬉しいのでしょう。名前を考えておかねば!」

「雄がよいか? それとも雌か?」


 子犬が産まれるのだと嬉しくて考えていなかった。


「どちらでも大切にいたしますが、大奥には他のお犬さまも、お猫さまもいらっしゃいますし、優しい気性の子がよいように思います」

「そうだな。基本的に雄であれば力も強くなる。犬に詳しい者に聞いて、気性の穏やかな雌を選ぼう」

「ありがとうございます」


 菜月の心に温かく優しい風がふわりと好き抜ける。

 子犬のことも嬉しいけれど、一緒に歩き、こうして話すだけで胸をくすぐられるような気持ちになる。

 勘違いをしてはいけないけれど、この時間を大切にしたい。

 朝永がふっとこちらを見つめて言った。


「そういえば、薩摩藩邸よりそなたに届けられたのは芋のようなものだと聞いた。なんと言ったか。江戸では見かけないものだそうだが、薩摩だけでしか作れぬものか」

甘藷かんしょのことでございますね」

「ああ、そうだった。初めて聞く名だ」

「琉球から伝えられたものでございます。長く保存ができ、砂壌土さじょうどでよく育つため薩摩では広く栽培されております。寒さにさらすと甘みが増すのでお菓子にも使われております」

「やせた土地で育つのならば土を作る手間がないということか……。ふむ、使えるかもしれぬな」

「江戸周辺でお作りになるのですか?」

「いや、できれば日の本に広めたい。育てやすく保存がきくのならば飢饉に備えられよう。民が飢えることは米の取れ高に影響する」


 菜月は少し逡巡したのち言葉にしてみる。


「あの……よろしければ召し上がってみますか? 薩摩藩邸にお願いすれば、すぐに届けられると思いますが」

「よいのか?」

「はい。上様のお口に合うかはわかりませぬが、どのような味がするのか知っていた方がよいように思うのです。余ったぶんは貞宗と江雪のおやつにもできますし」

「わかった。ならば頼もう」


 間髪入れずの即答に、「で、では、明日にでも文を送ります」と答えたが、問題があるのだった。


「文の中身を改めていただかなければなりませぬので、少し時間がかかるやもしれませぬ」

「かまわぬ。急ぎではないからな。それから」

「あ、はい」

「結が疑わしい動きをすれば俺に言え。心許せない人間が始終そばにいては気が休まらぬであろうからな」

「ありがとうございます……」


 何気ないひと言だったが気遣ってくれる思いに胸が温かくなる。


 ――甘藷が届いたら、近衛家で供されているお菓子を作ってみよう。練習すればきっと美味しくできるわ。

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