第32話 新しき部屋方 壱
朝永が菜月のもとへ頻繁に足を運ぶようになり一月が経過した。
このことにより、いっときの気まぐれではないと周囲は認識し始めた。
それは入江も例外ではなく、菜月の住まいを二の丸から本丸に移すことを決め、部屋方を付けることを申し出てきた。
香がいるからとやんわり辞退してみたが、「上様のご寵愛をたまわるお方に部屋方がひとりもいないのでは示しがつきませぬ」と押し切られたのだ。
かりそめの関係だが、朝永との約束を果たすためには受け入れるしかない。香も若い娘がいた方が菜月の話し相手になるだろうと言うので入江の提案を飲むことにした。
大奥入りのさいに持ってきた品々が新居に運ばれてから数日後、入江が部屋方を連れて部屋を訪れた。
「菜月さま。こちらの娘は
「
結はキビタキのコロコロという鳴き声のような軽やかな声で言った。
菜月と同い年の十七歳で、目尻の下がった優しい目と厚めのぽってりとした唇が印象的な聡明そうな娘だった。
菜月は言う。
「こちらこそ本丸での暮らしは初めてですので、なにかと力をお借りすることもあると思いまするが、よろしく頼みます」
「はい。菜月さまのお力になるよう精一杯励みまする」
「わたくしのことは、こちらの香がよく知っています。わからないことは香に聞いてくださいね」
結が「はい」と答えると、入江は満足そうに頷いて部屋をあとにした。
足音が去るのを待って菜月は言った。
「結殿。わたくしのもとで働くうえで、これだけは守って欲しいことがひとつあります」
「なんでございましょう」
「上様のことです。結殿もわかっておいででしょうが上様の目は人と違っています。ですが、そのことで決して怯えたりなさらないでください。もし少しでもそのような素振りをなされば、即刻、辞めていただきます」
「承知いたしました。肝に銘じまする」
菜月が話し終えると香が促した。
「では、結殿。あなたのお部屋に案内いたします。それから、ひととおりのことを説明いたしましょう。わたくしも本丸での生活は初めてのことですゆえ、教えていただくことも多いと思いまするがよろしゅうお願いいたしますね」
「はい、香さま」
「“さま”は不要にございますよ。菜月さまをお支えする者同士、気軽にお呼びくだされ」
「では、香殿とお呼びさせていただきます」
ふたりが
――うまくやっていけるといいのだけど。
菜月の出自のことは当然知っているだろうし、黄泉がえりの娘であることも承知しているはずだ。だた、これからは心底くつろぐことはできないだろう。
二の丸だからこそ人目も少なかったし、香とふたりきりだから本音を打ち明けることもできた。しかし、これからは結がいる。
入江と密接に繋がっていることを考慮しなければならないし、朝永が部屋を訪れたときのこと、香との会話は常に入江の耳に入ると思っていた方がいい。
注意しすぎるくらいでいなければ。
香もきっと神経を尖らせている。そう考えていると足音が近づいてきた。耳に覚えのある音に菜月は上座を退いて障子のそばに控えた。
「ようこそお越しくださいました、上様」
「……よく俺だとわかったな」
「上様の足さばきは床を蹴るのではなく、滑るようになめらかでございますので」
「そなたも武芸を嗜んでいたのであったな」
朝永はそう言いながら慣れた様子で腰を下ろした。
「それで本丸での暮らしには慣れたか」
「はい。よきお部屋をいただき、入江さまには感謝いたしておりまする。先ほども新しい部屋方をお連れになり、
菜月の言葉に朝永は察したようで、小さく頷いた。
「ですが、わたくしは香以外をそばに置いたことがございませぬゆえ、なにを頼んだものかと考えあぐねております」
「慣れぬうちは皆そうだ。本丸での案内役と思い、差配は香に委ね、なにごとに置いても必ず香をとおすようにすることだ。困ったことがあれば陽水を呼べ。
「ありがとうございます」
階段を降りる音が聞こえ、すぐに、香と結は平伏した。
朝永は鷹揚に尋ねる。
「そなたが新しい部屋方か」
「はい、結と申します」
「菜月は本丸の暮らしに慣れておらぬ。不自由のないように支えよ」
「は」
菜月は結の様子をつぶさに伺っていたが、怯えることも、不自然に声が震えることもなかった。これなら朝永が不快に思うことはない。
菜月はほっと胸をなで下ろした。朝永も特に気にしたふうもなく言う。
「菜月。梅雨の晴れ間だ。庭を散策いたそう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます