第30話 共謀 伍
朝永の渡りがあると聞かされた香の喜びようはなかった。
普段は厳しく落ち着いているのに、目を潤ませて「ようございました」と手を握ったのだ。
「子は天からの授かりもの。なれど、菜月さまのお子を抱けるかもしれぬと思うと、年甲斐もなく胸が弾みます。薩摩から江戸に参ったことは正しい決断でございました。懐妊の知らせを聞けば太守さまもどれほどお喜びになるでしょうか。外様である薩摩が将軍家と
それを聞いて心がツキンと痛んだ。
子ができることはないのよ。これは上様との取り引きによって行われた、かりそめの関係。
だからこそ、掛け値なしに菜月の幸せを願ってくれる香に知られるわけにはいかないのだ。
わたしは香を幸せにするために、ここにいるのよ。
きゅっと手を握りしめ自分を奮い立たせる。
この嘘は朝永の望むものであり、それを叶えられるのは共犯者である自分だけだ。
部屋に入ってくる気配がして御簾のあいだから朝永を姿を現す。
菜月は平伏した。
「楽にしろ。夜は長いのだから、そのように凝り固まっていては眠れぬぞ。ここへ」
菜月はおずおずと、朝永が示す布団の横に人ひとりぶん距離を取って腰を下ろした。
しばらく沈黙が続く。菜月はモゾと足先を動かした。
やっぱり緊張する……。
ひとつの部屋にふたりきりで、さらに布団のうえにいるのだ。知らず頬は桜を濃くしたように色を深くする。心臓は強く拍動して、音が聞こえてしまわないかしらと心配になるほどだ。
菜月を横目で伺っていた朝永は、改めて不思議な女子だと感じていた。
固まっているのは女性としての恥じらいによるもので、恐怖からのものではない。青ざめ、蒼白になる顔ばかり見てきた朝永にとって、甘やかに染まる頬の色を見るのは初めてのことだった。
体温が高いせいか梅花香の香りがふわりと漂う。
菜月の丸く柔らかい輪郭を見ていると朝永の記憶の蓋がキシリと開いた。
――これ、
――はい、母上!
弟をやさしく胸のなかへ招く母の顔は幸福そうで、花降る世界にいるようだった。
自分も弟のように抱きしめて欲しい。その笑顔を向けて欲しい。甘い声で名前を呼んで欲しい。
だから、朝永は母が喜ぶことを数え切れないほどやってみせた。
――母上。母上の好きなツツジの絵を描いたのです。
――母上。孔子をそらんじることができるようになりました。
――母上、母上、母上――。
けれど、一度たりとも弟に向けるまなざしが返ってくることはなかった。
――おまえの青い目をわたくしに向けないでちょうだい。わたしくしは、やっと黒い目をした普通の子を産むことができるのだと証明できたのです。尊いと騒ぐのは殿と大御所さまだけで十分。わたくしの子は朝照ただひとりのみ。
その顔は険しく、得体の知れない物の怪など受け入れないという完璧な拒絶だった。だが、横に座る菜月は甘やかな香りをまとわせ朝永を受け入れている。
間者だと疑われても、子を成せない汚名まで背負うことになっても真っ直ぐに立ち、この話を受け入れた。
やってくる悲運に打ちのめされてもおかしくないはずなのに、その心は穢れず、世話係を慮り、御台所を救いさえした。
菜月のような心が母に一欠片でもあれば、俺はここまで女を厭うことはなかったかもしれない。
「――俺が子を望まない理由はな」
「え……?」
「この青い目を引き継がせたくないからだ」
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