第27話 共謀 弐
久しぶりに会う貞宗と、その嫁である江雪を目にした菜月は声を弾ませ、頬を高揚させた。
「ああ、なんてかわいらしいのでしょう。綺麗な毛並みに透きとおった瞳。貞宗のお嫁さんにふさわしいお犬さまですね」
菜月に撫でられている江雪は嬉しそうに尻尾を振っている。
隣にいる貞宗にも、「素敵なお嫁さんが参りましたね。よき
左右から犬に頬を舐められている菜月は嬉しそうに笑っている。
健康そうな肌はみずみずしく、髪は烏の濡れ羽色のように艶やかな黒で、高揚している頬は桃のように淡く色づいている。
顔立ちがはっきりしているのは日射しの強い南育ちのせいだろうか。
自分とは違う黒々とした瞳は、鳶色が丸く広がり感情をそのままに伝えている。
心を殺すことを生業とする隠密と目の前の菜月は対極にある。
――どうにも捉えどころがない女子だ。
その顔がこちらを向いた。
「上様。江雪はどこから嫁いできたのでしょう?」
「紀州、伊々田家からだ」
「まぁ、御三家の。由緒正しいお血筋なのですね。きっと賢い子が産まれましょう。本当にわたくしに一頭さずけてくださるのですか?」
「ああ。そういう約束だからな」
菜月は心底嬉しくてたまらないように「大切に飼いますね」と笑顔で言った。「名前も考えておかないと」
そして、ふと思いついたように、
「どうして江雪という名前にしたのですか?」と問うた。
「じさまが十男の
「まぁ、
「ああ」
「ならば、わたくしもよき名をつけねばなりませんね」
菜月はそう言いながら二頭の頭を撫でた。
そこまで言うと、会話が終わった。それ以上、話題が出てこない。
朝永は内心ため息を吐きつつ、高麗川の言葉を借りることにした。
「貞宗と江雪を連れて、庭を歩くか?」
「よろしいのですか!」
「
菜月は江雪の綱を持ち、少し急ぎ足で歩いて行く。
江雪がはしゃいでいるので歩調を速めているのだ。
こんなことなら袴に着替えるべきだったと後悔した。
吹上の庭は新緑がまばゆく、池の周囲に
吹く風は甘く爽やかで、胸いっぱいに空気を吸い込むと、晴れやかな心持ちになった。
「上様。このような時間をつくっていただきありがとうございます。犬と一緒に歩くことがこのように楽しいとは思いませんでした」
「奥で飼われている犬より大きいぶん、扱いは大変になるぞ」
「大丈夫にございます。わたくしは薙刀で鍛えておりますゆえ体力には自信がございます」
「それで御台の犬を救ったのか?」
「ご、ご存知でしたか……」
朝永は呆れたように言う。
「よく生きていたものだ。驕りは冷静な判断を下すことを妨げる危険がある。慢心はするな」
なんでもないことのように言うが、菜月の行いについて認めるべきことは認め、その上で注意すべきことを告げている。他にも問いかければ答えを返してくれる。
菜月に対して、まったく無関心ではないことに、なぜか胸がふわりと浮き立つ感覚を覚えた。
「それと、御台に西の丸での生活を勧めたそうだな。それはなぜだ?」
青い瞳は濁りなく流れる清流のように澄み渡っていて、菜月を見つめている。
その流れに促されるように自然と答えることができた。
「御台さまは、わたくしには想像も付かないほどの責任を背負っておられました。そして、傷ついてもいらっしゃいました。わたくしにはその傷を治すことはできませぬ。ですが、御所風のお暮らしが、御台さまが幸せに暮らしていたころの思い出ならば、その暮らしに近づけることこそ、辛いお心を癒やす時間になると思ったからにございます」
「そのために本丸を出た方がよいと思ったのか」
「はい。大奥そのものである本丸でのお暮らしは、心から寛げる場所ではないと思えましたので」
本丸は朝永の存在が近すぎる。
御台所にとっての傷は、『あの青い目はだ―ぁれも映さへん。凍てついた冬や』と評した温かな繋がりのない暮らしだ。
その渦中から一旦離れることは、落ち着いて物ごとを考えられる時間に繋がる。少しでも傷が癒えれば、御台所も自分の成すべきことを見つけられるかもしれない。
菜月は感じたことを告げただけだが、朝永は目の前の少女が語る言葉に感慨深いものを感じた。
大奥に暮らす者にとって御台所に気に入られることは、己の暮らしを保証される『私欲』に繋がる。そのために人は媚びへつらい、嘘をつき、取り入る。しかし、この娘は、そんな私欲なしに御台所を慮り西の丸での生活を勧めた。
己の利ではなく御台所の心を優先にした。
慈悲の心は誰しもが知ることだが、それを実行できる者は少ない。
だが、菜月という娘はなんでもないことのように、それを成し遂げた――。
その行いになんとも形容しがたい愉悦を覚える。
「ならば、御台の暮らしを支えてみよ。必要なことがあれば叶えよう」
「誠にでございますか……?」
「ああ、幕府としても御台が不足なく暮らせることは利があることだ。好きにやるといい」
「あ、ありがとうございます……!」
まさか、朝永の許可を得ることができるとは思わなかった。
もしかして、上様は御台さまのことをお気になさっておいでだったのでは?
朝永に御台所のことを尋ねてみたかった。
――上様は御台さまがお嫌いなのですか? と。
だが、菜月は問うことを止めた。朝永の傷を開いてしまう気がしたからだ。
そう考えていると、今度は朝永が問うてきた。
「そなたこそ、なぜ大奥に入った」
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