第24話 和解 弐

 大奥内で人目を気にせず気晴らしできること……。御台さまのお心が晴れること。


「あ……」

「どないした?」

「御台さま。西の丸にお出かけなさるのはどうでしょうか」

「西の丸に?」

「はい。西の丸は退位した将軍さまの御殿として築造されたと聞いたことがございます。上様のお父君は、大権現がいごんげんさまのお住まいになれていた駿府へお移りになって以降は使われておりませぬ。掃除をしてお部屋を整えて……そう、能楽師のうがくしをお呼びになるのはどうでしょうか」


 御台所はぱちぱちと瞬きを繰り返したあと、「能楽師を……」と呟いた。


「はい。殿方を招き入れることは叶いませぬが、芸事にすぐれた女子はおりましょう。なにより申楽さるがくの始まりは、天照大神が天の岩戸にお籠もりになったとき、世がいつまでも暗黒であるため、神楽を奏し、その声が聞こえて大神おおみかみは岩戸をお開けになり、国中が再び明るくなったという言い伝えからにございます。御台さまの気鬱が晴れることは、大奥にとってよきものであると考えまするが、いかがでございましょう」


 菜月が言い終えると、御台所は「――っホホホホホッ」と笑い出した。

 心底おかしそうな笑い声はしばし続く。


「御台さま……? あの、わたくしは失礼を申したでしょうか?」

「いや、そうではない……」


 御台所は滲んだ涙を袖で拭いながら可笑し気に言った。


「なるほどと思うての。かの厩戸皇子うまやどのおうじは後の世のため『神楽』の”神”の文字を除いて、”つくり”を残し、申楽さるがくとせられた。これは『楽しみ申す』という義でもある。菜月はんの言いはることは正しい」

「では」

「入江はんに言うてそないにしてもらいまひょ。そのときは、菜月はんもとぉくれやすな。よい酒を用意しておきます」

「わたくしでよければ喜んでお伺いいたします」

重陽ちょうようの節句のときには菊の花びらを浮かべまひょな。京では白菊と黄菊が育てられておってな、平安のころには持ち寄った菊の美しさを左右にわかれて競う菊合きくあわせて呼ばれる遊びが宮中で行われてたんや」


「まぁ、そのような昔から。大奥もそれに習ったのでしょうね」

「そうや。ああ、なんや楽しゅうなってきましたえ」

「それはようございました」と微笑む菜月に、「菜月はんが天鈿女命あめのうずめみことや」と御台所は心のなかでささやいた。




 御台所の元を辞して部屋にもどっていく菜月の心は柔らかかった。

 そもそも御中臈おちゅうろうとは上様と御台所にお仕えする身分だ。

 これからは御台さまに真摯にお仕えしましょう。

 部屋の障子を開けながら「聞いて香。御台さまが――」と言いかけた言葉はストンと断ち切れた。


「う、上様……!?」


 菜月はうわずった声で「お、お待たせしたようで申し訳ございませぬ」と慌てて手を突いた。

 どうして、わたしの部屋に? あの警告以降、高麗川さまにご連絡を取っていないわ。それとも御台さまへの献上品のことで――?

 内心狼狽える菜月とは違い、朝永は落ち着いた声で言った。


「――よい。伝えることがあって参っただけだ」

「わたくしに伝えること……?」


 思わず身構える。

 しかし、朝永の言葉は予想もしないものだった。


「ああ。貞宗さだむねに嫁がきた。そう遠くないうちに子ができよう」

「さ、貞宗さまにお嫁さんが!?」

「――そなた、子犬が欲しかったのであろう」


 お、覚えていてくださったの……?

 てっきり白紙になった話だと思っていただけに、驚きと嬉しさが胸にわき上がった。


「は、はい。どのようなお犬さまなのでしょうか」

「白毛でなかなかに利口な犬だ。貞宗も気に入った様子で一緒にすごしている」

「それはなによりでございます。将軍家に嫁いできたお犬さまならば、さぞや立派なのでしょう」


 朝永がじぃっと見つめている。

 口が過ぎたかと、慌てて「申し訳ございませぬ」と頭を垂れた。


「会いたいのならば連れてこよう」

「え?」

「なんだ。犬に会うてみたいのではないのか」

「は、はい。それはそうですが……。よ、よろしいのですか?」

 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る