第22話 算段 壱
「菜月殿は強運の持ち主のようですな」
夕餉を食べ終え、
「強運?」
「はい。なんでも池に飛び込み御台さまのお犬を助けたそうにございます。”卯月とはいえ冷たいお池に飛び込まれるとは、なんと忠義なことでしょう”と大奥中に噂が広まり、称えられているそうにございます。まこと、面白き女子でございますな」
朝永は額に皺を寄せ渋面を作った。
「ずいぶんと気にするが、まさか惚れたのか?」
「ハハハッ、そのようなことはございませぬ。ただ、上様の情けを請うために着飾り、人を押しのけることがお勤めのような大奥で、嫌がらせに屈するどころか困難な境遇を切り開く力に感心させられるだけにございます」
「――ハッ。単に運がよいだけであろう。どうせ薙刀も止めてしまっているのだろう?」
「いえいえ、続けているそうにございますぞ? 女子の格好で池に飛び込むなど死ぬようなものでございまするが、鍛錬を続けていたからこそ助かったのでしょうな。御台さまもお犬をたいそう可愛がっておいでになりますゆえ、菜月殿に掻取をお贈りになったとか」
「あの御台が褒美を?」
「はい。京からともに
高麗川は謎かけのように意味深な口ぶりで言う。
「陽水。そなた奥に草を放っておるな? 奥のことなど入江に任せておけばよかろう。それに、俺は養子をとると何度も申しておる。それなのに、なぜそうも菜月を気にかけるのだ」
高麗川は空いた
「上様とて菜月殿のお部屋へ参ったではござりませぬか」
「あれは、そんな甘いものではない」
「しかし、上様がものを言わずにいられない“なにか”が菜月殿にはおありになる。某もその“なにか”を知りたいのでございますよ」
「買いかぶりすぎだ」
それでも高麗川は表情を変えず、「鬼が出るか蛇が出るか。それを見届けたいだけにございまする」
「物好きなことだ。おまえは幼きころから些細な部分に興味を抱く。見るべきは大局であり、雑事など他の者に任せればよい」
「そうそう、その雑事なのですが
「……は?」
「紀州から丈夫な
「まてまてまて、待て、陽水」
「いやぁ、某の子もとっくに大人になってしまい、妻が寂しがって犬か猫を飼いたいと申しておりましてな。菜月殿に差し上げるのならば某も一頭いただきたいと思いまして」
「養子ではなく犬をもらい受けたというのか? 一体なにを考えておるのだ」
高麗川はニコリと笑んで言った。
「世継ぎを養子に迎えるとて、上様が行うべきことを行わないうちは奥も表も納得いたしませぬ。半年でよいのです。奥へかよいなさいませ。そのあとならば某が上様のご希望とおりに動きましょう。なにごとも下準備がなければ先へは進みませぬ」
それが目的だったかと朝永は渋面を作り、深く長いため息を吐いた。
これまで関わった女にろくな者はいなかった。
御台所も綾たちも、そして母も――。
女たちを見ていると、自分の異質さを突きつけられるようで、心底うんざりするのだ。他人を信じず、凍らせた心がさらに冷える。
高麗川もそれをよく知っている。
――それでも大奥へ渡りをせよと言うのか。
それが将軍として避けられない勤めであることは理解している。
だからこそ皆、一度は閨をともにした。
しかし、その結果が『誰とも添えない』という事実なのだが――。
「それに」と高麗川が口を開く。
「弟君の
緩やかだった口調が刀の切っ先のような鋭さを向ける。
あの気位の高い弟ならやりかねない。
子をもうけぬことを理由に難癖をつけてくるのが手に取るようにわかる。
あれはそういう男だ。
朝永と朝照は将軍の座を争ったことがある。
結果的に祖父が長幼の序を重んじ、長男を将軍とすることをきつく説いたことにより、朝永が将軍の座に就くこととなったが、幕府側もこれ以上、朝永と朝照の対立を深めないために朝照に広大な所領地五十五万石を与え、贅沢な暮らしを保証した。
しかし、朝照は納得せず、
『百万石とするか、できぬなら大阪城を与え、城主にしろ』と叶えられないような嘆願書を突きつけてきたのだ。
それも母が「駿府に」と声をかけたら、あっさりと所領地を放り出して駿府に移った。父亡きあとの駿府城は、母と息子の麗しき我が家となり果てた。
今でも、母は「この日の本を継ぐのは、あのような化け物ではなく、そなたです」そう弟に言い続けているのだろう。
今後も自分が世継ぎをもうける様子がなければ付け入る隙を与えるのは確かだ。
高麗川の言うとおり奥へかようことは、その牽制になり、朝照に将軍の座を渡さないだけの材料をそろえることが可能となるかもしれない。
自分を恐れる女と睦みあうことはないのだから子ができることもない。そうなれば、いずれ入江も諦める。
新しい女があてがわれたとて、同じように「その気にならぬ」と言い続けていれば、そのあいだに高麗川が幕閣たちに養子の話を切り出すだろう。
養子の目処がつけば奥かよいもお役御免となる。
そのための時間稼ぎか――。
朝永はよんどころないように言った。
「――わかった。そのようにいたそう」
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