第20話 御台所~決意 肆
最長九メートルもある池の水深は太ももまで達するほど深く、足にまとわりつく着物が水を吸って思うように歩けない。
底に沈んだ泥で足が滑り倒れてしまった。
「きゃぁ! 菜月殿っ!」
「だ、誰かっ! 誰かーー!」
ザバザバと波打つ水音と悲鳴が聞こえる。
菜月は必死に手を動かし、泥を蹴って前進した。被毛が長いせいで泳げず、沈みかけていた琴音の背中をつかむと、えいやっと肩口に乗せ、息を吸って顔を水につけた。
とにかく琴音に息をさせなければならない。
菜月は片手と両足をがむしゃらに動かし、半分溺れたような形で池の縁にたどり着いた。
石をつかんで咳き込みながら、「こ、琴音さまをっ……!」と懸命に言う。
着物も髷も濡れて、重さになかなか立ち上がれないでいると、あちこちから手が伸びてきて丘へ引っ張り上げられた。
鼻に入った水のせいで咳が止まらず、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返す。
ようやく焦点が定まってくると、御台所の「琴音、琴音っ」と悲壮な叫びが聞こえた。
間に合わなかった――?
そう思ったとき、
「生きておる! 生きておるぞ! 早う拭くものを!」とせき立てるような声が上がった。
――ああ、よかった――……!
深い安堵の息がもれた。
琴音が運び込まれた部屋は部屋子や女中が出入りして大わらわだ。
菜月はぺたんと腰を突いたまま袖を絞りなんとか立ち上がった。裾も引っ張り上げてぎゅっと絞ると、ぼたぼたと水が滴る。
ようやく動ける程度になったところで庭を歩き、二の丸へもどって行った。
「な、菜月さまっ!?」
濡れ鼠になっている菜月を見て、香は慌てて飛び出してきた。
「な、なぜそのようなお姿に……?!」
「ええと……」
「ああ、お風邪をひいてしまいます! 早う、早うお部屋へ!」
「香。た、畳が汚れて……!」
「そのようなことはどうでもよろしいっ!」
香は一喝して
「急ぎ、湯を持ってこさせます。それまでこれをお身体に」
そう言って羽織ものを肩にかけてくれた。
胸元までぴったり閉じてガチガチと歯を鳴らしながら、なんて危ないことをしたのだろうと思い、香をひとりにすることがなくて本当によかったと思った。着物を汚すことを厭わず、引っ張り上げてくれる手があったからだ。
ひとりであれば溺れていたに違いない。
だけど、ひとつの命を守ることができた。
それだけは間違っていなかったのだと、寒さと恐怖に震える身の内で、菜月は自分に言い聞かせた。
「――それで犬を助けようと池に飛び込んだのですか?」
「……気づいたらそうしていたの」
火鉢の前で白湯を飲みながら、ぽそぽそと話す菜月の言葉に、香はハァーと深いため息を吐いた。
「いくらお庭の池といってもお着物のまま飛び込めれば溺れ死んでしまうことくらいおわかりになりますでしょう」
「――ごめんなさい」
「まして、そのような言いがかりをつけたお方の犬を。いくら菜月さまがお身体を鍛えておいででも、やっていい無茶とそうでないことの区別はおつけくださ……、なにをお笑いになっているのです。香はまじめに怒っているのですよ」
「ふふ。子供のころみたいだと思って」
「菜月さま!」
「――ごめんなさい。なんだか気が抜けてしまって」
自分のために怒る香を見ていると、心底ホッとした気持ちになったのだ。
「……あのね、香。わかってるわ。自分のしたことがどれだけ危険なことなのかって、よくわかってるの。でも、溺れている犬を見過ごすことはね。自分を見放すことに思えたの。助けを求めることもできずに、消えてしまう命を見過ごしてしまえば……きっとわたしは自分を誇ることはできない」
「菜月さま……」
自分はもう四方八方敵ばかりだ。綾たちのいじめも続くだろうし、朝永がかよわない日々が続けば入江も見捨てるだろう。頼みの綱は己の強さだけ。
そして、菜月はその強さを知っている。
生き返ったあと誰もが忌み嫌う自分のために、すべてをかなぐり捨てて働いた香の姿を。
現状が辛くないと言えば嘘になる。
でも、わたしは慣れない環境に打ちひしがれているだけ。本当の敵は悪意に負けそうになる自分の心。
死んで生き返ったときに味わった苦しみと比べれば、耐えきれない痛みではない。一番辛い時間は、香と共に乗り越えてきた。
――誰にも理解されなくても、わたしはここで香と生きていくのよ。顔を上げるの。
「菜月さま」
香が呼びかける。
「なぁに?」
「……よく頑張りましたね。その優しさを、香は誇らしく思います」
その言葉を聞いて、菜月はやっと微笑むことができたのだった。
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ちょうど二十話になり、菜月も頑張っております。
これから、もっと頑張って駆けていきます。
よろしければ☆などいただければ、とても嬉しいです。
レビューなどいただければ、丸二日間は浮かれて暮らしますので、一言いただけるのをお待ちしております。
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