第19話 御台所~駆け出す 参

 瞳孔が細まったさまは蛇の目のようで、菜月は思わずひゅっと息をのんだ。

 御台所の目は冷ややかさをたたえ爛々と光っている。

 蛇の巣穴に入ったのだと菜月の指先は小さく震え始めた。

 御台所はそれにかまわず和歌を詠むように言葉を紡いでいく。


「あんたさんの話はよう耳に入りますのえ。奥入のために養女になりはったんやってなぁ。幕府もお世継ぎのためとはいえ浅ましいことや。そやけど、それに乗りはる薩摩はもっとさもしい性根やおまへんか。外様になったからゆうて見境いなく端女はしためを送り込んでくるとは呆れてものが言へん。琴音ことねさんもそう思わしまへんか?」


 琴音と呼ばれた膝のうえの狆は丸い目を御台所に向ける。

 部屋子である娘たちも「琴音さまもそうや言うてますなぁ」ところころと笑い同調した。

 その優美さがかえって末恐ろしさを感じさせる。

 菜月は頭から冷水をぶっかけられたように体温が消えていくのを感じた。

 そして悟る。

 御台所さえも自分を敵だと認識していることを。

 誰かが故意に讒言をすれば、御殿向ごてんむきから出てこない御台所はそれを信じるだろう。『信じるに足る身分のある者』の言いぶんならば。

 二の丸で小さくなっている菜月の言葉など風に吹かれる枯葉の重みしかない。なにか言わなければならないのに喉が狭まり声が出ない。

 唇がわななく菜月のまえを御台所の膝から降りたちんがトトトっと横切っていった。


「まぁ、琴音ことねさん、どこへ行かはるの?」


 優しい声音で問われた犬は廊下を出て庭に降りた。


「こないな話は聞きとうないみたいや。ほな、早う終わらせまひょか。菜月はん」

「……は、い」

「他の側室の簪を見苦しいと言うて抜いたあげく、ご自分のを渡すやなんて、いかに上さんに気に入られたかて調子に乗りすぎやあらしまへんか」


 頭に浮かぶのは廊下に捨てられた簪。


「それに、御所風の暮らしが不快のようやけど、改めることはあらしまへん。これは上さんも了承済みの話やよってな。ようよう覚えとって」


 あまりの内容に菜月は懸命に言った。


「……そのようなことは! 思ってもおりませぬ!」


 だが、御台所は無言のまま琴音を追うように部屋を出た。

 菜月も立ち上がりたいが打ちひしがれた足は力が入らない。必死で自身を叱咤激励して震えてしまう声を絞り出す。


「御台さま、誤解です。どうかお話を――」

「聞きとうない。早う部屋からんで。その菓子も持って帰って」


 心底穢らわしいといった一声に身が縮こまった。

 胸のなかに声が渦巻いている。

 違います。わたしはそんなことを言っておりませぬ――。

 けれど、菜月の言葉など御台所には届くはずもない。誰にも届くことはないのだ。

 菜月はうつむいたまま立ち上がり、重箱を抱えて部屋を出た。

 泣き出しそうな気持ちに耐えながら御殿向ごてんむきから遠ざかる。と、


「琴音っ!」


 御台所の叫びが耳をつんざいた。

 部屋方たちの甲高い叫び声もあがる。

 思わず振り返ると、池の縁に手をついて身を乗り出そうとしている御台所の姿が目に飛び込んできた。同時に池のなかで溺れている犬の姿も。

 先ほどまで般若のようだった御台所が、半狂乱で池に入ろうとしているのを部屋子たちが懸命に引き留めている。

 犬の名を呼ぶ御台所の声は悲痛に満ちており、今にも池に身を投げそうだ。


 ――着物で池に入れば溺れてしまう……。でも、だけど――……。


「ああっ、琴音っ!」


 打掛を落とした菜月の身体は駆け出していた。

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