第17話 御台所~たくらみ 壱

「御台さま。わたくし悔しくてなりませぬ……」


 さちはそう言ってはらはらと流れる涙を袖で拭った。「そのような簪で総触れに出るなど見苦しいと、ご自分が挿している簪をお渡しになり……」


「なんと! 菜月という新参者はそのような無礼をいたしたのかえ?」


 それきり口をつぐんだ幸の代わりに、年長者である綾が答えた。


「はい。いくら上様の覚えがめでたいとはいえ、目に余る行為でございます。わたくしも聞いておりましたが悔しく、その場で捨てさせたのですが、それだけにとどまらず……」

「他にまだあるというのか?」

「それは……」と綾は口ごもるが、御台所が話せと続きを促した。


「――はい。では申し上げまするが、恐れ多くも御台さまの御所風ごしょふうのお暮らしを『江戸風に改められぬとはなにごとであろう』などと喧伝けんでんいたしているのでございます」

「な……っ」


 御台所の眉が山なりにしなる。


「菜月殿のあまりの言いように、わたくしはなにも言えず……。御台さまのお暮らしは上様もお認めになられ、皆承知していることですのに。二の丸での暮らしも我がもの顔だそうですが、上様のお気に召した娘ゆえ、誰もたしなめることもできないと聞き及んでおります」


 そして、綾は困ったようにため息を吐きつつ、「……御台さまのお耳に入れたくはなかったのですが、あまりにも度が過ぎており、どうしたものかと考えあぐね、お伺いいたした所存にございまする」と頭を垂れた。


 御台所は眉間に皺を寄せ、口角はピクリピクリと痙攣した。


「……薩摩の田舎もんがなんちゅう思いあがりや。すでにお部屋さまにでもなったつもりなんやろか。勘違いも甚だしい……! 綾はん、よう教えてくれはりましたな」

「とんでもございませぬ。わたくしどもでよければなんなりとお申しつけくださりませ」


 御台所の顔は怒りで青ざめ、爪の先まで青白くなった。




 ***




 菜月は今日も薙刀の稽古に励んでいた。

 部屋にいるとあれこれ考えてしまう自分が嫌だったし、なにより香に心配をかけてしまうからだ。

 壊れた簪を見て「菜月さま、もしや……」と言いかけた口を塞ぐように、落とした拍子に踏んでしまったのと答えたが信じてはいないようだった。


 食欲もなく、残してしまうことも増えており、薙刀の稽古まで休んでしまえば本当に負けてしまう気がして必死に鍛錬に励んだ。

 本丸の御中臈たちは茶会や組香くみこうなどを催したり、代参の役目で寺へ詣でるなど暮らしを楽しんでいるようだが、菜月がその席に呼ばれることはなく、同じ二の丸にいる三人の御中臈たちも、三人で集まってなにごとか行っていたが、やはり声がかかることはなかった。

 事態はもう菜月の手に負える大きさを超えてしまっている。

 朝永の行動は気紛れだったと周知されるまで、耐えるしかないのだ。


「菜月さま! そのようにぼんやりしていては怪我をいたしまするぞ!」


 菜月はハッと我に返る。

 別式女が厳しい顔をしてこちらを見ていた。


「申し訳ございませぬ」

「最近、心ここにあらずといったふう。武芸は一瞬の気の迷いが命取りになりまする。お悩みがあるのならば誰かに打ち明け、お心を軽くされることです」

「はい……」


 稽古は早めに切り上げられ、部屋にもどった。と、香が明るい声で話しかけてきた。


「菜月さま。薩摩藩邸より甘藷かんしょが届きましてございます。これ、このように近衛家このえけでの菓子の作り方まで子細に書かれております」

「ありがたいことね」


 そう言ってぎこちなく微笑んだ。

 自分のまいた種が舞い戻ってきた気がしたのだ。

 しかし、香は懐かしそうに微笑んでいる。


「菜月さま。これを御膳所へもってゆき、菓子を作っていただきましょう。それをお食べになれば元気も出ます。それに、これも」

端切はぎれ?」

「はい。呉服ごふくの間からいただいてまいりました。これで袋でも繕えば気も紛れましょう」

「香……」

「わたくしも暇で仕方がないのでございますよ。己でやれることを見つけましょう。今までもそうやってきたのです。場所が変わっても同じでございますよ」


 菜月の身に起こっていることを香は気づいている。

 それでも知らない振りをして、助け船を出してくれているのだ。

 菜月は自分を奮い立たせる。

 しっかりしなければ駄目よ。わたしが負けてしまえば香にも同じことが起きてしまうかもしれない。

 大奥へきたのは香によい暮らしをさせるためだ。

 もう薩摩に帰ることはできない。大奥で暮らしていくしかないのだ。朝永が訪うことがないまま二月もすれば、嫌がらせもきっと終わる。

 そう考えていると、「もし。よろしいどすか」と声がかかった。

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