第16話 朝永と菜月~見抜く青 参

 菜月は言葉もなく、うつむくしかない。

 朝永の視線をうなじに感じる。

 処罰されるのだろうか――。

 体温が消えた身体は冷ややかな言葉を聞くだけの肉塊になったようだ。


陽水ようすいに文を送っているようだが、取り入ろうと考えているなら無駄なことだ」

「そ、のようなことは……考えておりませぬ。過分なお心遣いをいただき、そのお気持ちに感謝し……っ」


 語る言葉を止めるように、朝永はクイと菜月の顎をあげた。

 冥府のような色をした暗い青が菜月を絡めとる。

 冷淡な瞳は菜月の言葉など最初から信じていないと物語っている。

 凍りついた菜月に、朝永はいっそ優しいほどの声でささやいた。


「そのような綺麗ごとが通用すると思うか。褒美ならいくらでもくれてやろう。だが、俺の周囲に関わることは決してするな。ここで生きていきたいのならばな。間違っても隠密のまねごとなどせぬように、今後はそれを踏まえて行動することだ」


 朝永が出て行ってから、菜月は肺から深く息を吐き出した。

 心臓に杭を打ち込まれたような衝撃はまだ続いている。


「菜月さま……。大丈夫にございますか?」


 香が背中をさすってくれるが全身に冷たい汗が浮かび、身体の震えは止まらない。何気ない顔の裏に潜ませていたのは一太刀で命を絶つ辻斬りのような非情さだった。

 上様は薩摩藩邸に送った文のことをご存知なのだわ……。

 甘藷かんしょを送って欲しいという内容だったが、大奥での生活についても書き記していた。当たり障りのなことしか書いていなかったが、朝永は外部との接触に目を光らせている。

 考えれば当然のことなのかもしれない。

 大奥にいる女たちは必ずどこかの藩主と繋がっているからだ。

 菜月のように。


 ――これが……将軍……。


 ようやく菜月は、日の本の統治者である伊々田朝永の姿に触れたのだ。

 常に諸藩に目を光らせ、幕府に弓引く者を見逃さない。

 だからこそ、泰平の世を保つことができている。

 そして、警告は迂闊に薩摩藩邸との連絡が取れなくなることを示していた。

 朝永は生かさず殺さず、菜月を大奥に封印することに成功したのだ。

 まつりごとを正しく治める将軍として相応しいお方という評価はまぎれもない事実だった。

 薩摩藩邸との関わりは絶たなければ……。わたしの軽はずみな行動は、香を、故郷を危険に晒す。

 菜月は高麗川へ最後の文を送り終えると、一介の側室として大奥という池の底に身を沈めた。




 ***




「上様が菜月殿のお部屋を訪ったそうよ」

「ええ、そのようですわね。夜のお渡りでないにせよ、御中臈のもとを訪うなど初めてのことですわ」

「贈りものをされたうえで、となればもしかして――」


 朝永の来訪は大奥にあっという間に広がり、菜月が朝永の寵愛を得たのではという噂がまことしやかに流れた。

 入江など浮き足だったように菜月の扱いを丁重なものへ変えた。

 おそらく本丸に住む御中臈たちと遜色のない扱いだ。女中たちの態度も改まり、大奥は一気にお世継ぎ誕生の期待にわいた。

 だが、それは違うと菜月だけが知っている。

 自分がされたことは警告だ。今後、朝永が菜月のもとへ訪うことはない。

 人から敬う態度を取られるたびに居心地の悪さに身が縮む思いがした。


「あら、菜月殿。今日も麗しいこと。その簪、素敵ですわね」


 入り口で綾が声をかけてきた。


「……ありがとうございまする」


 取り巻きの楓や幸も同じように菜月を褒めそやす。


「ええ、桜色の小袖に桜文の打掛、とても似合っていますわ。まるで菜月殿の未来を表しているようでございますね」

「ふふ、では散るのもあっという間ではなくて?」


 菜月は答えず、会釈してとおりすぎようとした。――と、幸が簪を抜き取った。


「さ、幸さま、なにを――」

「これ、いただけないかしら。わたくし気に入りましたの。菜月殿はたくさんお持ちでしょう?」

「お、お返しください。それは父上からいただいた大切なもので――」

「まぁ、菜月殿がお仕えすべきは父親ではなく上様でございましょう。それに、ねだれば、いくらでも賜ることができるではありませぬか?」


 返して。

 そう言う間もなく中年寄なかとしよりが口を挟む。


「入り口で騒々しい。上様がお越しになりますぞ」


 綾たちはしおらしく「申し訳ございませぬ」と言って広間へ入っていった。

 クスクスと笑い声が聞こえる。菜月は顔を上げられずにいた。

 短い総触れの時間が途方もなく長く感じ、全員が去ったあと、ようやく広間から出ると廊下に装飾部分が破壊された簪が落ちていた。

 なぜ、こんなことをするの?

 知らず涙が溢れそうになるのを堪えて、簪を拾った。

 無性に小さな物置小屋の生活が恋しかった。

 いつもお腹が空いていたし、外へ出てみたい誘惑にもかられ、生き返ったことを悔いる日もあった。だが、外へ出ない限りこんな悪意は向けられることもなかったのだ。

 東斬直孝の言った『大奥は苛烈な場所』とはこういうことを意味していたのだ。

 悪意を向けられることに耐え続けることこそ、大奥で暮らすという現実なのだ。

 部屋にもどらなければ香が心配する。

 そうわかっていても、「落として壊してしまったの」と何気なく言える自分になるまで、菜月はその場から動くことができなかった。

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