第13話 菜月と高麗川~貞宗 参

「い、いえ。滅相もございませぬ。高麗川さまのお犬さまとは知らず勝手なことをいたしました」

「いや、菜月殿が預かってくださらなければ他の女性に怪我をさせていたかもしれませぬ。貞宗はこのとおり体格の良い犬ですから誠に助かり申した。菜月殿にはお礼をせねばなりませぬな」

「と、とんでもないことにございます」

「手負いの犬に触れるのは勇気がいったことでしょう。怪我人が出なかったのは菜月殿の手柄にございます。遠慮なく言ってくだされ。某は若い女子の欲しいものなど思いつかぬのです」


 そう微笑む顔に、「で、ではお願いしてもよろしゅうございますか?」と問うた。


「はい。なんなりと」

「……いつか、貞宗さだむねさまにお子が産まれましたら一頭お譲りいただくことは可能でございましょうか……?」

「子犬、ですか?」


 高麗川が怪訝そうに菜月を見た。

 わたしは、とんでもない我が儘を言ってしまった……?

 よく考えれば子犬や子猫は、相応しい身分の者を持つ者に譲られる大切な生き物だ。何年も順番を待つ人も多く存在する。まして、高麗川の犬とあれば引き取りたい者は数知れないだろう。


「あの……っ、恐れ多いことを申しました。どうぞお忘れくださりませ」


 しかし、高麗川はしごく真面目な顔で「では、貞宗に嫁を娶らせねばなりませぬな」と言った。

 まるで父親のような言い方にくすっと笑ってしまう。

 高麗川もにこやかに答えた。


「時間がかかるやもしれませぬが、お約束いたしましょう」

「あ、ありがとうございます……! とても嬉しゅうございます」

「貞宗は上様の大切なお犬にございまする。菜月殿が助けてくださったこと、しかとお伝えいたしましょう」

「!? さ、貞宗は上様のお犬なのですか?」

「菜月さま! 貞宗“さま”にございますぞ」


 香が慌ててたしなめる。

 慌てる菜月の横に座っていた貞宗が菜月の頬をペロリと頬を舐めた。

 それを見た高麗川は笑った。


「貞宗は菜月殿を好いておられる様子。某などめったに触らせてはもらえませぬ」

「そ、そうなのですか? それよりも上様のお犬さまとは知らず、子犬が欲しいなどとわがままを申してしまって……」

「いえいえ、貞宗も父になっておかしくない年齢です。それに、某の妻も犬を欲しいと申しておりましてな。菜月殿のお話は渡りに船なのです」

「それならばよいのですが……」


 あの閨のあとで子犬を欲しがるなんて図々しいと思われそうな気がして、気が引けてしまう。


「しかし、本当に子犬でよろしいのですか? 打掛や簪であれば最高級の品を贈ることもできますが」

「いいえ! と、とんでもないことにございます。子犬をお譲りいただけるだけで十分にございます」

「しかし、上様のお犬を救ったのですから、もう少し欲張っていただけると某が助かるのですが」

「高麗川さまが……?」


 理由がわからず口ごもっていると、高麗川は言った。


「上様はあのご気性ゆえ、人に恩を作ることを大変お嫌いになられます。菜月殿のようなことをなさると、相手が気後れするほどの褒美を贈り、決して借りを作らぬようになさるのです。ですので、もうひとつかふたつ願いごとを言っていただけると、お返しを考える某が助かるのです」

「そうなの……ですか……」


 とは言え、打掛も簪も紅も、東斬直孝に贈られたものが揃っていて、改めてなにが欲しいうものもない。しかし、高麗川は「さぁ」とばかりに菜月を見つめている。

 困り果てていると、高麗川が腰に差している脇差わきざしが目に入った。

 思いついたことはこれ以外にない。

 菜月は思い切って言った。


「わたくし、別式女べっしきめに薙刀を習おうと考えているのです。その許可を入江さまにお願いいただければ嬉しゅうございます」

「……薙刀……、ですか」

「はい。なにか打ち込めることはないかと考えており、奥女中が習う薙刀ならばと思ったのですが……。御中臈では難しいことでしょうか」


 高麗川は数度まばたきを繰り返すと、くつくつと笑い始めた。


「あの、高麗川さま? やはり無茶な願いでしたでしょうか? 無理なことでしたらどうぞ仰ってくださりませ。わたくしは大奥のことに疎うございますので」

「いや、無理ではございませぬ。ただ想像もしていなかったことでしたゆえ、つい。なるほどわかりました。入江殿には、よき別式女べっしきめをあてがうよう申し伝えておきましょう」

「あ、ありがとうございます」

「では、上様も貞宗を待っておりますので、これにて失礼いたす」

「は、はい。わたくしのような者に、過分なお心遣いをいただき心からお礼申し上げます」


 高麗川は子供をあやすように貞宗を抱いて中奥へともどって行った。

 しかし、促されるまま願いごとを口にしてしまったが、本当によかったのだろうか?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る