第12話 菜月と高麗川~貞宗 弐

 賢そうな犬だ。菜月は引きずっていた右前足を指しながらもう一度言う。


「怪我のようすを見させてくれる? ほおっておけば膿んでしまうかもしれない」


 そう言って、庭石に足を下ろし、犬と視線を合わせた。

 そっと鼻先に手の甲を出すと、クンクンと匂いを嗅ぐ。そのまま口元からゆっくりと撫でた。犬は唸ることもなく菜月の手を受け入れている。しばらく撫でてから右足の関節部分を持ち上げ、足を手のひらに置いた。

 犬は大人しくしている。

 怪我の原因はすぐにわかった。指と指のあいだに細い小枝が刺さっている。肉球のあいだに土が付着しており、おそらく地面を掘っているときに埋まっていた小枝が刺さったのだろうと推測できた。

 菜月はそれをつまんで抜いた。犬はピクリと身を震わせたが吠えない。


「よく我慢したわね。いい子」


 深い傷でなくてよかったとほっと安堵の息を吐いた。

 傷を洗えば壊死することはない


「香。水をくんできてくれる?」


 そう言ったとき、「おーい、貞宗さだむね―! 貞宗―!」と遠くから男性の声が聞こえた。

 犬がピクリと耳を立てる。


「……おまえは貞宗というの?」


 そう問うとワン! と一声鳴いた。

 菜月はすぐさま返答する。


「もし! 貞宗というのは黒い犬にございますか?」

「そうです!」

「それでしたら、お預かりしております!」

「なんと! 奥へ入ってしまったのか!?」


 声が段々近くなってくる。

 慌ててこちらへ走ってきているのだろう。


「誠に申し訳ない! すぐに事情をお伝えいたすので、しばしお預かり願えまいか!」

「わかりました!」

「して、どこのお方でござろうか」

「二の丸の菜月と申します」

「菜月殿ですな! よろしゅう頼み申す!」


 犬は尻尾を振っている。

 菜月は「よかったわね」と頭を撫でた。「貞宗というのね。ふふ立派な名前」


 暴れる恐れがなくなったことで香は幾分安堵し、水桶を用意してくれた。

 貞宗の前足を水に浸してそっと洗う。

 拭き取った布に血はついていない。これなら大丈夫だろう。

 処置が終わると、貞宗は菜月に身体を預けるように、ピッタリとくっついてくる。

 香が苦笑しながら言った。


「なんとまぁ、甘えた犬でしょう」

「きっと中奥なかおくで大切に飼われているのよ。迎えがくるまでになにか食べさせてやりたいけど、ここに犬にあげてよいものは……ないわね」

「わたくしが御膳所へいってもらって参ります。お犬さまならば出してくれるでしょう」

「そうしてくれる? 朝からなにも食べていないかもしれないわ」


 香は頷いて御膳所へ向かった。

 菜月は貞宗の頭をなでながら話しかける。


「大奥と中奥は銅瓦塀どうがわらべいで仕切られているのに、どうやって入ったの? どこか崩れているところでもあったのかしら」


 きっと好奇心に駆り立てられ、崩れた壁の地面を掘り返して入ってきたのだろう。


「貞宗は犬でよかったわね。入ってきたのが殿方であれば首はなくなっていたところよ?」


 貞宗はうっとりと目を閉じて菜月の手を受け入れている。


「ふふ、わたしの犬であればよかったのに。一緒に庭を散歩できれば、きっと毎日が楽しいでしょう」


 大奥ではちんを飼う者が多い。猫も大切に飼われている。

『お犬さま』『お猫さま』と呼ばれ、大切に飼育されるのだ。お目見え以上の身分を持つ女たちは子供を持つことができないので、それこそ我が子のように愛情をそそいでいる。

 貞宗とじゃれあっていると香がもどってきた。

 器には米と焼き魚がまぜてある。


「お腹がすいているでしょう。たくさんお食べ」


 差し出すと起き上がってガツガツと食べ始めた。余程お腹が空いていたのだ。

 食べ終えた貞宗がげっぷするのを聞いて、香と笑った。

 半刻も経過したころ人影がこちらへ向かってくるのが見えた。


「貞宗!」


 呼び声に貞宗が耳をピンと立てる。

 菜月は片手を上げた。男性は早足でたどり着くと、心底ほっとしたように言った。


「貞宗、おまえどこに行ったかと思えば、よりにもよって大奥にいるとは……」

「早く見つかってようございました。足に怪我をして動くのが辛かったようです。小枝が刺さっていましたので勝手ながら手当をさせていただきました」

「誠にかたじけない。菜月殿でございますか」

「はい」

それがし、上様の近習きんじゅうを務めている、高麗川陽水こまがわようすいと申します。貞宗をお預かりいただき誠にかたじけない」


 ――上様の懐刀ふところかたなと呼ばれている高麗川さま!?


 菜月は慌てて膝を突いた。

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