第11話 菜月と高麗川 壱

 それを嘆いてもどうしようもない。

 いつまでも引きずって暮らせば香は気に病むだろう。

 だったら武家女子らしく武芸に励げみ、この二の丸で自分が生きる意味を見つけたい。

 失敗は誰でもする。大事なことは、そのあとどうするかだ。

 それが理不尽なことでも立ち上がらなければならない。

 菜月は香を手助けすることで自分の尊厳を取りもどすことができた。それは大奥でも同じことだ。


「今までと同じよ。わたしはなにも変わらないわ」


 菜月の言葉に、香はまだなにか言いたそうにしていたが、やがて諦めたように答えた。


「菜月さまが、お望みであればそのようにいたしましょう。上様も相当の腕前であると聞き及んでおります」

「そうなの?」

「はい。近習きんじゅう高麗川こまがわさまは、関ヶ原の戦いに出陣された祖父じきじきに剣術の稽古をつけてもらい、戦国の世なれば武功で一国の大名になれたと評判の使い手だそうで、上様も幼きころより高麗川さまと剣の腕を磨かれたそうにございます」

「……よく知っているのね」

御半下おはしたの娘たちは口が軽うございますゆえ」


 菜月は笑った。


「香は間者の才能があると思うわ」

「気取った女中より御半下おはしたの娘たちの方が、わたくしは話しやすうございます。できるなら掃除も料理も自分で行いたいくらいですよ」

「それも入江さまに頼んでみましょうか? わたしも香の料理が恋しいわ」

「おやめください。それに、”わたし”ではなく、”わたくし”ですよ」


 菜月は「はい」と笑顔で返した。

 だけど、香にもやることがあった方が張り合いが出るはずだ。

 なにかないかしらと頭をひねってみる。

 二の丸でも茶を淹れるなど、多少の火を使うことは許されている。煮炊きしたり、油を使うことは御膳所でないと難しいが、簡単に調理できるものなら難しくないかもしれない。薩摩で食べていたものに思いを巡らせていると、ふと、閃くものがあった。


「薩摩藩邸から甘藷かんしょを取り寄せてみましょうか」

甘藷かんしょを?」


 甘藷とはサツマイモのことで、琉球王朝が薩摩藩主に献上し、その甘さに姻戚関係にある摂家近衛家せっかんこのえけにも献上されることとなった薩摩の名産品だ。

 寒中で干し、糖度を高めたサツマイモを小さなサイコロ状に切って、サツマイモのきんとんに入れて丸めたものを御重箱おじゅうばこに入れてきょうされるほど喜ばれる甘味で、江戸には出回っていない。

 炭にくべれば、ふっくらと焼き上がる。


「……確かに懐かしくはございますが」

「なら、文を出してみましょう。太守さまにも元気だとお伝えすることができるわ」


 外へ向けての文は中身を改められる。

 大丈夫。こんなことで間者だと疑われるはずがないわ……。

 自分がしようとすることに罪悪感を抱かないわけではない。

 けれど、香を守るために形だけでも東斬直孝に従順な姿勢を示しておかなければならない。


 ――わたしが得られる情報なんて二の丸だけのことだけ。太守さまも意味のないことだと呆れて終わりになるわ。


 そう考えたとき、カサリと落ち葉を踏む音がした。

 ハッと庭を見ると黒毛の中型犬が茂みから顔を出してこちらを伺っていた。

 距離にして数メートル。飛びかかってくればひとたまりもない。


「菜月さま、お下がりになってくださいませ……!」


 香が菜月の前へ出る。

 恐怖に息を呑むが、よく見ると立派な胸飾りがついている。どこかの部屋で飼われている犬なのだ。

 菜月は刺激しないようにそうっと立ち上がり、縁側に膝を突いた。

 飛びかかってくる様子はない。チッチッチと舌を鳴らしてみる。

 犬はしばらく様子を伺っていたが菜月のもとへ歩いてきた。前足を庇うようにして歩行している。

 怪我をして動けなかったのだわ……。

 そばまできた犬は座り、キュウーンと鳴いた。声はとても痛々しい。


「な、菜月さま。手負いの動物は危険にございます……!」

「見て。胸飾りがついているわ。人に飼われている犬よ。大きな声を出して驚かせないようにしましょう」

「ですが、噛まれでもしたら……」


 菜月は黒曜石のような瞳に語りかけた。


「必ず飼い主のもとへ連れて行くわ。だから、少しだけ信用して……?」


 犬はじっと菜月を見つめている。

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