第10話 菜月と朝永~閨 弐
話しかけられるとは思っていなかったので驚いた。
だが、静かな声音に思考がもどってくると、なぜだろうという疑問がわいた。
菜月はおそるおそる問い返した。
「……なぜにございますか……?」
「そなたも奥へくるまでに俺の噂を聞いただろう? 男色趣味に溺れているだの青鬼だのと。そして俺を目の前にすると、皆、一様に恐怖に引きつった顔をする。――鬼はな。子をもうけることなどできないのだ」
その言葉は菜月の傷を思い起こさせた。
「――同じです」
「なに?」
「同じにございます。わたくしも不吉な娘だと人から遠ざけられておりましたから……。上様のおっしゃることは……わかります」
「ハッ。将軍とそなたが同じだと申すのか?」
嘲笑するように朝永は言う。
「上様のことをわたくしは知りませぬ。知りませぬが、親に疎まれ、人に忌み嫌われることならば、わたくしもわかります」
朝永がこちらを向いた気がしたが、振り返る勇気が出ない。
それに、もう閨は失敗だとはっきりわかる。
「……出すぎたことを申しました。もう休みます」
朝永はしばらくの後、「俺に期待などするな」そう言って口をつぐんだ。
菜月は背中から伝わる体温を感じながら、浅いまどろみのまま一夜を明かした。
***
翌日の総触れは滞りなく終わり、朝永に変化はなかった。
菜月と朝永の閨が不首尾に終わったことは広まっており、クスクスという笑い声が聞こえ、投げかけられる視線はあざ笑うかのようだった。
けれど、その声に、視線に萎縮してしまうことはない。
朝永を排することで団結を保っている彼女たちのありように、同意できない気持ちが勝っていたからだ。
朝永は自分が恐れられていることや噂を知っていた。
そのことで女性が怯えてしまうことも。
『あるはずのないものが存在する』
それに人は恐ろしさを抱かせる。
青い瞳は彼女たちにとって『あるはずがないこと』の象徴なのだろうと思う。
だけど、それを否定し続けることは違うことだわ――。もし、上様が『いつか自分を受け入れてくれる人が現れる』とそう信じていたなら、昨夜のわたしの反応は、きっと見たくも聞きたくもなかったはず……。
菜月も鮮明に覚えている。
生き返った自分を見る父の顔は、化け物を見るかのような目であったことを。
ヒソヒソと聞こえる聞きたくない言葉に耳を塞いだことを。
人は一度抱いた感情を容易に変えたりはしない。
異質なものを受け入れはしない。
だからこそ、朝永を排することで均衡を保っている彼女たちのありようが許しがたいものに思えてならなかった。
――けれど、それはわたしも同じね……。
朝永に衆道の趣味があることや、青鬼と呼ばれていることに尻込みをし、きっと冷酷な将軍に違いないと思い込んでいた。
今は己を恥じる気持ちでいっぱいだ。
朝永は鬼でもなんでもない、美しい青の瞳を持ったひとりの男性だった。
少なくとも菜月は、あの瞳を美しいと思い、鬼に子供は成せないと言った言葉に朝永の過去を垣間見た気がした。
今ならば、昨夜を繰り返すことはないと誓えるけれど、その機会がくることはない。
ただ、朝永に申し訳なかったと思うばかりだ。
香にも申し訳ないことをしたと思う。
部屋にもどったとき、ソワソワとした様子で「どうでございましたか?」という質問に首を振り、なにごともなく終わったのだと伝えたら、「なにごともなく……ただ眠った、と……」そう言ったきり、ひどく落胆してしまったのだ。
きっと上手くいくように祈ってくれていたのだと思う。
けれど、閨のいきさつを明かすことはできなかった。朝永の言葉を聞かせることは、香であってもしたくなかった。
――あれは、上様の傷だから……。
菜月はつとめて明るく言った。
「仕方ないわ。美しく高貴なお方であっても、上様はなにもなさらないのだもの。身分が低いわたしなんて、ただの田舎娘でしかないのよ」
「そのようなことはございませぬ! 菜月さまはご立派な姫君でございます。苦しいことにも挫けず、強く生きてこられた香の自慢の姫君でございます!」
「香がそう思ってくれるだけで十分嬉しいわ。でも、わたしは失敗したのよ。なにも起こらなかったのだから」
「菜月さま……」
痛ましい顔をする香に菜月は笑みを浮かべた。
「それより
「ですが、御中臈の身分で武芸など……。怪我をなされば」
菜月は首を振る。
「わたしは上様のお気に召さなかった女子よ。香以外、気にする人はいないわ」
それは純然たる事実だ。大奥はそういう場所なのだ。
朝永が気に入るか、そうでないかの二択しか存在しない。そうして、菜月は零れ落ちた側の女だ。
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