第9話 菜月と朝永~閨 壱

「か、香っ。どっ、どうしましょう」

「落ち着きなさりませ」

「無理よ。だって上様にはそんなそぶりは微塵もなかったのよ? なのにどうして……」


 鶴丸城で肌や髪など手入れはされたが、野良仕事で皮が固くなった手のひらは乙女のように柔らかいものではない。

 細かい傷痕も残っていて一目で良家の娘ではないと露見してしまう。

 わたしなど不興を買うだけにきまっているわ。

 そう萎縮していると香が強く言った。


「菜月さま。腹を括るのです。閨での作法は薩摩藩邸でお習いになられたでござりましょう。数多あまたの女子がとおってきた道を経験するだけのことです。そのように怯えては上様がどのように思われるとお思いですか。『だからこそ』菜月さまはここにおられるのですよ」

「あっ……」

「従順に。しかし、心に刃を持つのです。菜月さまは大権現だいごんげんさまでさえ取り潰すことができなかった強き薩摩の女子。覚悟を決めるのです」


 自分は、東斬直孝とうざんなおたかの密命を受けて大奥へ入ったのだ。

 それは、香を幸せにするため――。

 怖がってどうするの。殺されるわけじゃない。ただ、肌を見せるだけよ。

 初めて男性と肌を合わせることを思うと、恥ずかしさと怖さがない交ぜになるが、ここへきた目的を思い出し、怯みそうになる心を必死でつなぎ止めた。

 大丈夫。絶対に怖がったりしないわ。



 湯殿で身を清められたあと、武器を所持していないか身体を改められ、白絹の肌襦袢はだじゅばんをまとって、御小座敷おこざしきに正座した菜月は朝永の到着を待った。

 覚悟はしたものの胸の動機が激しく、口から心臓が飛び出そうだ。

 しばらくすると人が入ってくる気配がして、勢いよく御簾みすと御簾のあいだから朝永が姿を現した。平伏する間もなく、青い瞳が菜月の目を捉える


「――そなたが菜月か」

「は、はい」


 慌てて平服したが、「そのようなことはせずともよい。一晩同じ布団で

眠るだけだ」と素っ気なく言い、早々に布団に横になった。

 予想とは違う展開に戸惑っていると、


「そうして座られておると気が散る。さっさと布団に入れ」と語気を強める。


 習った作法とまるで違うが、それが望みならばと恐る恐る横になった。

 男性とひとつの布団で寝るのは初めての経験だ。

 心臓は痛いほど鼓動を早め、身体は固めた糊のように強ばったままだ。

 いつ手を出されるのだろうと息を潜めていると、足裏に朝永のふくらはぎが当たった。瞬間身をすくめる。

 朝永はうるさそうに「冷たい足になるほど怯える女に手は出す趣味はない」と短く切り捨てた。

「お……、怯えているのではございませぬ……!」

「ほう。これでもか」


 見えていた広い背中が回転したかと思うと菜月に覆い被さった。

 驚きのあまり声も出ない。吐息さえ届いてしまいそうな距離に怯んでいいはずなのに、自分を見下ろしている冴え冴えとした青い双眸に魅入られてしまった。

 青い瞳の眼孔は黒く、光彩の淡い白が青い瞳に波を描いているように光を与え、海の一部を閉じ込めたような色をしている。


 ――なんてきれいな瞳なんだろう。


 不躾なほど見つめる菜月に、朝永は額に皺を寄せて言う。


「恐ろしくて目もそらせぬか」


 そう言われて、やっと状況を理解した頭は思考する機能を失わせるには十分だった。低く囁いた声は吐息を含ませたような色気があり、青い瞳と整った彫刻のような顔が至近距離にあるのだ。

 男性の色香というものを初めて経験する菜月には、どれも刺激が強すぎるものばかりだ。


 ――ど、ど、どうしよう。なんて言うのだっけ? お、おさなけを? お慕い申しあげ……それを言うの!?


 お情けをだという間違いにも気づかず、閨の作法も吹き飛んでしまった唇は、「美しい、と……」そう思ったままの言葉を述べてしまった。


「美しい?」


 朝永は眉根を寄せて不快そうにオウム返しした。

 しまった。殿方に使う言葉ではなかった。

 菜月はかすれた声で必死に言葉をかき集める。


「も……申し訳ございませぬ。そ、その、瞳が海のように綺麗で……」


 朝永の皺が深くなる。

 もう取り繕うことは不可能だった。顔が熱く、このまま消えてなくなりたい気持ちで一杯だ。狼狽する姿に朝永は小さく嘆息し、再び背を向けて横になった。

 取り繕えない時間がすぎていく。

 居心地の悪さに身をすくめていると、朝永がぽつりと呟いた。


「俺は子などもうけたいと思っておらぬ」

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