第4話 黄泉がえりの娘~薩摩藩主の命 肆

「え……?」

「大奥へ入ったとて幸せになれるとは限りません。それでも、香とふたり食うに困らない場所へ行くことができます。――育ての母と大奥へゆくのです」

「母上……」

「――わたくしは、あの人に逆らえず、世間の目に屈してあなたを庇うことができなかった。母親であることを捨てたのです。この家に未練など持つ必要はありません。香には、わたくしから申しておきます」


 母が菜月を見捨てたことに変わりはない。

 それでも、あるはずもないと思っていた母の愛情が残っていたことは、深く傷ついた心を塞ぐ、ひとつのことがらだった。



 ***



「よう参ったの。鶴丸城での一日はどうであった」


 ほがらかな笑みを浮かべながら薩摩藩主さつまはんしゅ東斬直孝とうざんなおたかは問うた。

 菜月は平伏したまま答える。


「はい。お心遣い誠にありがとうございまする。あのような贅を尽くしたもてなしは初めてでございましたが、お陰でよく眠れましてございます」

「それはなによりじゃ。面を上げよ」


 スッと頭をあげて東斬直孝と相まみえた。


「……ほう。評判とおりの美しさじゃの。三月みつきも手をかければ御中臈として相応しい女人にょにんになろうて。学ぶことは多いが励むようにな」

「――は。しかしながら、ひとつ伺ってもよろしゅうございますでしょうか」

「申してみよ」


「わたくしが一度死に、そして生き返ったことを太守さまはご存じなのでしょうか。わたくしのような曰く付きの女を大奥へ向かわせることは、太守さまに傷をつけることになるのではないかと心配いたしている所存にございまする」


「なるほどの。なかなかに聡い娘であるな」


 ふくよかな身体に、好々爺のような笑みを浮かべて、東斬直孝は下顎をなでた。


「もちろん知っておる。そのうえでそなたを推挙したのは、生き返ったのちの不遇に耐え、生き抜いてきたところにある。わかっておろうが大奥とは苛烈な場所よ。ねじ伏せられようと屈服せぬ強さがなければ潰されるのみ。いわば女たちの戦場と言えような」


「――はい」


「我が薩摩は関ヶ原の戦いで外様とざまに追いやられた国じゃ。しかしな、時はまだ戦国の世を抜け出ておらぬ――と、わしは踏んでおる。伊々田幕府いいだばくふはまだ安泰とは呼べぬ。大奥に入り、城内の情報をつまびらかに報告する。これが、そなたの役目よ」


「わ、わたくしに隠密をせよ、と?」

「そうじゃ」

「し、しかしながら、伊々田朝永公いいだあさながこうは大奥に渡りをせぬと聞いたことがございまする。わたくしに有益な情報が得られるとは――……」


「はっはっは! なにも朝永公に取り入れと申しているわけではない。朝永公は『嘉祥かしょうまなこ』を持つ男ゆえ、女子おなごは怯えて世継よつぎぎをもうけることもできないとの話は有名じゃ。

 それゆえ、幕府は旗本以下の女子でも側室として迎え入れると諸藩に書状を送ったのじゃ。男子を産んでくれるのならば身分は問わぬということよ。

 いかに幕府が世継ぎをもうけることに焦っておるかわかるであろう? それほどに幕府は脆い砂上にあるということだ。大奥に入れば、そのような話はずっと詳細に入ろう」


 政治の世界に触れたことのない菜月にとって、東斬直孝とうざんなおたかの言わんとすることは理解できても遂行できる自信はまるでない。


「それためには潰れる女子であってはならぬのよ。才長け、肝が据わり、辛抱強い女子でなければならぬ。これがそなたを大奥に入れる理由よ。安心せい。大奥の女たちに侮られぬよう、そなたを最高の女性にょしょうとして仕立ててみせるゆえな」


 にんまりと笑む東斬直孝の企みに菜月ができることはない。

 

「……承りました。一命にかえましても太守さまのご下命を果たすよう励みまする――」


 鶴丸城に入ってから菜月の生活は一変した。

 生き返ったときも一変したが、大名家の姫として大奥入りするという責任とでは話の大きさがまるで違う。

 菜月の日々は教養を身につけることで目が回るほど忙しく、あっというまにすぎていった。

 香が厳しく躾けてくれなければ、もっと時間がかかっただろう。

 江戸行きは十月中旬と決まり、まずは江戸にある薩摩藩邸に入り、そこで二ヶ月、薩摩訛りを完璧に矯正し、現在の政治や大奥の人間関係、伊々田朝永について学んだあと一月七日に大奥へ入ることが決まった。

 菜月は濁流に呑まれたように、ただ目の前にやってくる日々をこなし続け、秋の気配に満ちたころ、故郷に見送られ世話係の香とともに江戸へ出立した。

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