第19話 神さまを探しに


 翌日、早朝からイルシカはヒラクを猟に連れ出した。


 ヒラクは赤くはれぼったい目をしていて元気がない。


「寝てないのか?」


 川に沿って歩きながらイルシカはヒラクに尋ねた。


「ユピが、昨日の話を聞いていて、打ち合いをしてもいいって言いだしたんだ。自分のせいだからって」


「そうか……」


「やめさせてよ、父さん。ユピが……、ユピが死んじゃうよ……!」


 ヒラクの目に涙があふれた。イルシカは足を止め、ヒラクの肩に手を置いて、顔をのぞき込むようにして言った。


「そんなにユピが好きか?」


 ヒラクは涙をこぼしてうなずいた。


「そうか」


 イルシカはどこか吹っ切れたような顔でヒラクに笑いかけた。


「ヒラク、ついてこい」


 久しぶりに見る父の晴れやかな顔をヒラクは不思議な気持ちで見た。


 イルシカは川の上流に向かって歩いた。

 途中、何度か川が分岐するところがあったが、それでもイルシカは迷いのない足取りで本流を遡るように歩き続けた。


「父さん、どこに行くの?」


 ヒラクの息が上がっていた。


「少し休むか」


 イルシカは足を止め、川沿いに生える木の根をまたぎ、幹によしかかるようにして座った。ヒラクも隣に腰を下ろした。


 目の前の川をじっとみつめながら、イルシカは、ヒラクに言った。


「ヒラク、何が見える?」


「……川だよ」


「その川が、おまえにはどう見えるんだ?」


「……」


「怒ったりしねえから言ってみな」


 イルシカは声を和らげた。ヒラクはためらいがちに言う。


「……ここには、誰もいない。ただ、ヘビのような胴体がうねるようにして上流へと向かっていくのが見える」


「おまえが見ているのは川そのものだ。川は生き物だ。海から入り込み、山に向かう」


 ヒラクが見ているものは、まさにアノイの人々が考える川そのものだった。

 アノイでは古くから、川は海から入り込み山の向こうの神の国へと向かう生き物であるとされている。だが、その生き物は神の国へ入り込むことは許されず、海へと引き返していく。その引き返していく生き物が川の流れを生んでいるのだとされていた。


「じゃあ、いつも見る女の人は?」


「それは川の神だろう」


「なんでここにはいないの?」


「さあな。それは俺にもわからねえ」


 こんな話を父と普通に話せるとは、ヒラクは夢にも思わなかった。


「父さん。おれの話を信じるの? おれのこと気味が悪いって思わないの?」


 そしてヒラクはずっと口にできなかったことを尋ねた。


「おれがおかしくなったから、父さんと母さんは仲が悪くなって、それで、母さんはいなくなったんだろう?」


「ちがう! おまえは何も悪くない!」


 イルシカの表情は、みるみると悲しげなものになり、その目はヒラクを哀れむように潤んだ。


「ずっと、そんなふうに思っていたのか? おまえがそんなふうに自分を責めるぐらいなら……、俺を恨んでほしかった……」


「父さん……」


 ヒラクは父の目に光るものに胸を痛めた。生まれて初めて見る父の涙だった。


「俺はおまえから母親を奪ってしまった。おまえを手放したくないという俺のわがままが、おまえから大事なものを奪い、おまえの人生を狂わせてしまった……」


 イルシカは苦しげに言葉を吐いた。

 それでも、これまで誰にも言えなかった思いを吐露することは、胃に沈み込む鉛を溶かして吐き出すようでもあり、気持ちが楽になっていくのを同時に感じていた。


「父さんと母さんは、おまえが生まれてくる前から仲が悪かったんだ。母さんは自分の故郷に帰りたがっていた。もしも生まれてくる子が女の子なら、母さんは子どもを連れていくと言った。もともとアノイは男の子は父の系統、女の子は母の系統を継いで育つ。異民族を母に持つ女の子がアノイ族として生きていくことは難しいんだ」


「ふうん。おれ、男の子でよかったなぁ」


 ヒラクは何の気なしに言った。

 それと同時に疑問も湧いた。


「母さんは、おれが男だったから故郷に帰るのをやめたの?」


「……いや、母さんが故郷に帰りたいと思う気持ちは強まるばかりだった。それでも俺は帰そうとしなかった。おまえのために。自分のために……」


「自分のため? 父さんも、母さんとはなれたくなかったの? 父さんは、母さんが好きだったの?」


「……」


「父さん?」


「ヒラク、おまえにはまだわからねえかもしれないが、愛する者に執着するあまり、他の者はどうでもいいとさえ思ってしまうことがあるんだ。使える道具なら、ぼろぼろになっても、利用できるまでは利用しようとした。俺は身勝手で残酷な人間だ……」


「ちがう!父さんはそんな人間じゃない! 強くて、優しくて……、おれは父さんが大好きだ」


「ヒラク……」


 イルシカは目を細め、ヒラクの頭を優しくなでた。


「おまえが男でも女でも、手放す気などまったくなかった。離れて暮らすなんて耐えられなかった。でも今は……」


 イルシカはつらそうに唇をかみながら、空を見上げた。

 木々の葉が風でざわめく。

 イルシカは、形を変えていく雲を遠くに眺めているうちに、自分を迷わせる執着をちっぽけなものに感じた。


「ヒラク」


 イルシカは、なつかしむような、いとおしむような目でヒラクを見た。目の前の十二歳のヒラクの顔に、幼い頃からの表情の一つ一つが重なって見えた。


「おまえはいつも『神さまって何?』って聞いていたな。アノイの人間が普段疑問にも思わないことも、おまえはとことん知りたがる。そんな子どもだった。それは今も変わらねえ。そうだろう?」


 ヒラクは何と答えていいのかわからなかった。


「儀式のクマを逃がそうとしたことも、死者の国の穴に入ろうとしたことも、おまえなりに理由があったはずだ。ちがうか?」


 ヒラクは困ったようにうつむいた。


「……おまえらしいな」


「えっ?」


 責められるような思いでいたヒラクは驚いて顔をあげた。目の前には満足そうなイルシカの笑顔があった。


「俺はずっと、おまえが母親の信じるものをただ盲目的に信じるようになるんじゃねえかと心配だった。もしも母親と暮らしていたら、おまえは決して『神さまって何?』などと疑問にも思わなかっただろう……」


「どういうこと?」


「おまえの母親は、ただ一つの神を信じていた。それがプレーナだ」


「プレーナ……」


 つぶやいてみると、まるでもう何度も口にしてきた名前のようにヒラクには思えた。ヒラクの心の奥底で澱をかぶって沈んでいた記憶がゆっくりと浮上してくるようだった。


「母親のもとで育てば、おまえもまた何の疑いもなくプレーナを神としてあがめただろう。おまえの母親はそれを望んでいた。だが、そこにあるのは『支配』だ。『自由』じゃねえ。俺にはそう思えた。俺はおまえに自由であってほしかった。自分で選択し、自分の意志で行動する。それが『自由』だ。だが結果的に俺はおまえが本来の人生を生きる自由を奪ったのかもしれねえな……」


 イルシカは表情を曇らせた。後に続く言葉がどうしても言えなかった。目の前のヒラクが急に別人になってしまうようで怖かったのだ。


「父さん?」


 ヒラクは心配そうに父の顔をのぞき込んだ。


「そろそろ行くか」


 何かを悟られまいとするかのように、突然イルシカは立ち上がり、再び上流に向かって歩きだそうとした。


「行くって、どこへ?」


 ヒラクは尋ねるが、イルシカはさっさと歩いていく。その背中は何も語ることはない。

 ヒラクは黙ってイルシカの後についていくしかなかった。


 木々の隙間を縫うように歩き、次第に川音は遠ざかっていった。

 下草とつるを踏みしめた細いけものみちが延々と続く。


 ヒラクに疲れが見えた頃、イルシカは足を止め、前方を指差した。


「ここからさらにしばらく行けば、やがて山の反対側に出る。体の向きを常に一定にして、こちら側に戻ってこないよう歩き続けるんだ。これから家まで引き返す道をよく覚えておけ。確認しろ」


「何のために?」


「ユピと二人で山を越えるんだ」


「えっ、どういうこと?」ヒラクは困惑した。


「砂の地の果てにユピの国がある。一緒に山を越えておまえは……」


 イルシカはヒラクをじっと見て、強く、はっきりと言った。


「おまえは母親のもとに行くんだ」


「母さんのところに?」


 ヒラクは目を見開いた。

 イルシカは黙ってうなずく。


「『神さまって何?』というおまえの疑問に俺は答えてやることができない。もしもプレーナがおまえに納得する答えを与えるのなら、それはそれでかまわない。確かめてみろ」


「……確かめたら、戻ってきてもいいの?」


 不安げにヒラクは尋ねた。父が自分から遠ざかろうとしているように思えた。

 そんなヒラクを安心させるように、イルシカは深くうなずいた。


「おまえが決めることだ。そうしたければそうしろ」


 だがイルシカは、ヒラクは二度と戻ってはこないだろうと思っていた。その上で言葉を付け加えた。


「プレーナにとどまろうと、ユピの国でユピと一緒に暮らそうと、自分で決めたのならそれでいい」


 それが、イルシカがヒラクのために一番いいと考えたことだった。


「ヒラク、自分の人生を、自分の意志でしっかり生きろ」


「おれの人生?」


「ああ。神さまが知りたいというなら、とことん探してみればいい。おまえが納得するまでな」


「神さまを探す……」


 その言葉は、ヒラクの行く手を照らす灯りのように思えた。その灯りは、あるものを照らし出そうとしている。


「プレーナ……」


 すでにもう、ヒラクの心は山を越え、プレーナに向かい、砂漠の上をさまよっていた。

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