第18話 イルシカの決意

 家に戻り、床に下ろされると、すぐにユピは気を取り戻した。

 自分がどこにいるのかよくわからないまま、ユピはぼんやりと家の中を眺めていた。


「ユピ、だいじょうぶ?」


 心配そうに顔をのぞきこむヒラクを見て、ユピはほっとした表情を見せた。


「もうだいじょうだよ。父さんがおれたちを迎えにきてくれたんだ」


「父さんが?」


 ユピはイルシカを見て、やっと状況を把握した。それと同時に急に気を失う前のことが思い出された。


「僕は何てことを……」


 ユピは自分の両手をみつめながら、がたがたと震えだした。


「気がついたらこの手で石をもちあげていた。彼が君にひどいことを……」


「だいじょうぶだよ。イメルなら自分の足で帰ったし、おれもこのとおり何ともないよ」


 ヒラクはユピを安心させるように明るく笑った。


「飯にするぞ」


 先ほどから、の上から吊り下げた鍋で山菜汁を作っていたイルシカが二人に声を掛けた。ヒラクはユピの手をひいて、炉縁に腰を下ろした。


 ヒラクは父をじっと見た。

 湯気の向こうのイルシカが温かくやさしげに感じられた。

 ヒラクは、イルシカが自分を心配して探しにきてくれたことがうれしかった。

 いつでも父は、自分に何かあれば一番に飛んで来てくれる。嫌われてなどいない。何も心配することはないと思った。

 ヒラクは、ずっとこうして大好きな父とユピと三人で暮らしていくのだと思った。

 この時すでにイルシカがあることを決意していたことなど、ヒラクは知る由もなかった。



 翌日、ルイカが血相を変えてイルシカのもとを訪れた。


「どういうことなの!」


「何だよ、いきなり」


 炉のそばで横になっていたイルシカが、めんどくさそうに体を起こした。


「イメルが……」


「イメルに何かあったの?」


 ヒラクはイメルのケガのことだと思って言った。


「おばさん、イメルはだいじょうぶなの?」


「ヒラク……」


 ルイカは、すがるようにヒラクの両腕をつかんだ。


「教えてちょうだい。一体何があったというの? ユピがなぜイメルを? あの子を殺そうとしたって本当なの? 一体どういうことなの?」


 言っているうちに興奮してきたルイカは、両手でヒラクの体を揺さぶった。


「姉さん、落ち着けよ」


 イルシカはルイカの手をつかみ、ヒラクから引き離した。


「ユピはただ、おれを助けようとしただけだ」


 ヒラクはルイカをまっすぐ見て言った。


「どういうことなの?」


「イメルが、なんだか様子が変で、いきなりおれに襲いかかってきて……」


「イメルが?」


 ルイカは当惑した様子でイルシカを見た。

 イルシカは厳しい顔つきで唇を引き結んだ。


「あいつがユピのことをどう言ったかは知らないけど、おかしいのはイメルの方だ。あのときのあいつは普通じゃなかった」


 ヒラクは困惑した表情で言った。

 ルイカは言葉を失い、横にいるイルシカの顔を不安げに見た。


「それで? イメルは何て言ってるんだ?」


 イルシカはルイカに尋ねた。


「……ユピに正式にを申し込むと言っているわ」


「何だって?」


 イルシカとヒラクの声は同時だった。


 「打ち合い」とは、アノイ族が紛争解決の手段のために行うもので、第三者の立会いの下、古くから定められた方式で、互いにこん棒で打ち合うことを言う。

 打ち方の方式は、まず打たれる者が背を向けて立ち、打つ者がおどり上がって近づき肩を打つ。次に打たれた者が同様のやり方で打った者を打つ。これを交互に繰り返すのだ。

 これは、罪人を裁くときにも行われ、罪を犯させたき神を追い払うという意味もある。


「ユピには悪い憑き神がついているってイメルが言うのよ。ヒラクはたぶらかされているって。目を覚まさせてやるんだって」


 ルイカは小部屋にいるユピを気にして、声を落として言った。


「そんなことあるわけないよ!」


 ヒラクは声を荒げた。


「大体、そんなことしたらユピが死んじゃうよ。あいつ、ユピを殺す気なんだ」


 ヒラクは怒りで声を震わせた。


 「打ち合い」は、相手を殺すことが目的ではないが、こん棒を素肌で受けるため、時には大怪我をしたり、昏倒こんとうすることもあった。

 ましてやユピはイメルとはちがう。幼い頃からこん棒を軽く受けるために立ち木で体を支えたり、シカ皮を肩にあてて、大人たちに打たれながら耐性をつける訓練をしてきたわけではない。風にも耐えないようなユピが、こん棒で打たれて無事でいられるはずなどなかった。

 ヒラクは初めてイメルのことを卑劣な人間だと思った。


「ヒラク、イメルにはイメルの考えがあるのよ。あの子はあんたのことを思って……」


「おばさんも、ユピには悪い憑き神がついていて、おれがたぶらかされているとでも言うの?」


「やめろ、ヒラク」


 怒りを抑えきれないヒラクを制するようにイルシカが言った。


「とにかく、大体の事情はわかった。今日はもう帰ってくれ」


「……わかったわ。イルシカ、ちょっといい?」


 ルイカはイルシカを外に連れ出した。

             

 

 木立の中、川音で声がかき消されるところまで歩くと、ルイカはイルシカに言った。


「あなたはどう思っているの?」


「どうって?」


「イメルがヒラクを襲ったっていう話よ」


「……」


 新緑の薫りを運ぶさわやかな五月の風が二人の間を吹き抜ける。午後の日差しに輝く木々の葉は、イルシカの顔に暗い影を落とした。

 ルイカは言うか言うまいか躊躇したが、やがて心を決めたように言った。


「イメルは感づいているわ」


「……」


「だからこそユピをヒラクから引き離そうとしているんじゃないかしら」


 イルシカは、怖れていたことが来たというように、固く目を閉じ、下唇をかんだ。


「もうこれ以上は無理よ。隠し通せないわ」


 ルイカはきっぱりとそう言って、以前から考えていたことを口にした。


「ヒラクは、うちで暮らした方がいいと思うの」


 イルシカは衝撃を受けたようにカッと目を見開いた。


「このことはいいきっかけになるわ。イメルが打ち合いでユピを負かしたことでヒラクがうちに来るのなら、誰もが納得する形になるわ」


「ユピに何かあればヒラクが傷つく」


「イメルがいるわ。イメルだけじゃない。私も、うちの家族もいる。ヒラクは一人じゃない。このままあなたたちと暮らして、あの子に何の未来があるというの? 村から孤立した父親と異民族の人間が、あの子に何をしてやれるというの?」


 イルシカは、ルイカの言葉を聞きながら、じっと川面をにらみつけていた。


「アノイの人間として生きていくためにはそうするしかない。今こそ真実を告げるときよ。とにかく、私は帰って家族にすべてを話すわ」


「待ってくれ」


 帰りを急ごうとするルイカをイルシカはあわてて引き止めた。


「頼む。時間をくれ。ヒラクが混乱する」


 イルシカの言葉に、ルイカはあきれたようにため息をついた。


「時間ってどれぐらい? そうやって先延ばしにしても何にもならないのよ」


「……三日だ。三日だけ待ってくれ」


「……わかったわ。三日経ったらすべてをうちの家族に話して、イメルに迎えに行かせるわ。それまでにヒラクに本当のことを言っておくようにね」


「ああ」


「ユピも納得させるのよ。打ち合いをさせたくないのは私だって同じよ」


「ああ」


「つらいでしょうけど、これが自然なことなのよ」


 打ちひしがれた表情のイルシカを見て、ルイカはいたわるように言った。


「あなたがヒラクを手放したくない気持ちはよくわかるわ。だからこそ今まで真実を偽ってきた。でもね、よく考えて。あの子にとって何が一番いいことなのかを」


 そう言って、ルイカはその場に立ち尽くしたままのイルシカを残して帰っていった。


 イルシカは天を仰いだ。

 強い風が吹き、木漏れ日がチカチカと明滅した。


「あいつにとって、何が一番いいことなのか……」


 イルシカはルイカの言葉を繰り返した。


 心はすでに決まっていた。

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