第20話 父の願い

 翌朝、ヒラクが目を覚ますと、ユピはいつもと同じように柔らかな笑みを浮かべて言った。


「おはよう、ずいぶんよく寝たね」


 前の晩、山越えの道のりを引き返してきたヒラクは疲れきり、帰ってきた早々寝てしまった。

 その夜、イルシカがユピと何を話したのかヒラクは知らない。それでもユピがすでにもう旅立つ覚悟でいることは、その目を見ればすぐわかった。


「明日、早朝にここを出るよ」


「えっ? そんなに早く?」


 ユピは静かにうなずくが、ヒラクは動揺を隠せない。


「そんな……、だって、まだ……」


 心の準備ができていなかった。イルシカの言った言葉の意味もまだ消化しきれていない。帰り道では、山の向こう側の道筋と、砂漠に出るにはどうすればいいかをイルシカから聞かされたが、ヒラクは旅立つ実感がまだ得られていなかった。


「時間がないんだ」


 ユピの顔にあせりの色が見える。


「明日、イメルがここに来る」


「イメルが? まさか……打ち合いをするために?」


「……もし、そうだとしたら?」


 ユピはヒラクを試すように言った。


「君が僕と一緒にここを出ないというのなら、僕もここにとどまる。打ち合いで殺されたってかまわない」


「そんなのだめだ!」


「二つに一つだよ。ここにとどまりイメルが来るのを待つか、僕とここを出て行くか」


 追いつめるようなユピの言葉だった。ヒラクは困ったようにうつむいた。


「……ごめん。そうだよね、こんなこと言われても困るよね。すぐにはここを離れがたいって君の気持ちはわかるよ。君には僕以外にも大事な人が多いから……」


 ユピは目を伏せ、寂しそうに笑った。

 その顔を見て、ヒラクの胸が痛んだ。


「ユピ、おれ、一緒に行くよ」


「本当に?」


「うん」


 ヒラクが笑顔でうなずくと、ユピはほっとしたように微笑んだ。


 ヒラクの中に、父と離れる寂しさより、ユピと共に生きる喜びより、強く自分をひきつけてやまないものがある。


 大いなるものへと向かわせるもの、神への探究心こそが、ヒラクを突き動かす原動力だった。

             


 その夜、イルシカとヒラクとユピは炉を囲み、三人で共にする最後の食事をとった。誰も何も話そうとしない。ただ一言、二人に対してイルシカが言った。


「明日は早い。食ったらすぐ寝ろ」


 そして確認するようにヒラクに言う。


「昨日も言ったが、砂の地に出る前に、山を下りたところで狩り小屋を作り、そこで満月を待て。黒装束くろしょうぞくの女が現れるはずだ。その女がプレーナへと導き、母親に会わせてくれるだろう。その女が来るまでそこから動くな」


 その女が何者なのか、ヒラクが尋ねてもイルシカは決して答えようとはしなかった。

 ただ、砂漠には「黒装束くろしょうぞくたみ」と呼ばれる者たちがいて、プレーナに通じているのだと、それだけは教えてくれた。


 床についてもなかなか眠れないでいたヒラクは、小部屋から顔を出し、そっと父の様子をうかがった。イルシカは、静かに一人で酒を呑んでいた。


「眠れないのか?」


 イルシカは酒をぐいっとあおった。


「こっちに来い」


 ヒラクはうなずくと、父の横に来て座った。


「おまえといつか一緒に酒を呑むのが夢だったなぁ」


 イルシカは少し笑って、ヒラクの頭に手を置いた。

 ヒラクは込み上げる涙をごまかすように、イルシカに酒を注ぎ足した。


「ヒラク、熊には気をつけろよ」


「クマ?」


 ヒラクはイルシカの言うことが唐突に感じられた。


「若い頃、俺は山に入ったまま、そのまま次の年の春まで村に戻ってこなかった。この話はおまえもよく知っているな?」


 もちろんヒラクはよく知っている。

 山で行方知れずとなったイルシカは、山に住む神である熊のしもべとなり、神の国へ行ったのだとされ、村人たちは誰一人戻ることを期待してはいなかった。


「戻りたくても戻れなかった。熊の縄張りに入って襲われたんだ。傷を負いながらも熊に反撃し、俺は必死に逃げた。逃げて、逃げて、そして、道を見失った。血の臭いに獣たちはすぐ群がってきやがる。足を止めるわけにはいかねえ。だが、痛みと焦りが方向を狂わせた。俺は何日も山の中をさまよった。自分を襲おうとする気配に神経をとがらせながら、自分もまた獣を襲い、食いつないでいた」


 その時のことを思い出してか、イルシカはつらそうに顔を歪めた。


「山の反対側に出たときには、俺はもう極限の状態だった。草木も枯れ果てた山の向こうに、どこまでも広がる砂の地を見下ろしたときは、自分は幻覚を見ているのだと思った。俺はその幻覚に引き込まれるように、反対側の山を下っていった。そして、そこで力尽きた……」


 そしてイルシカは少し黙った。

 ヒラクにどう言えばいいのか、言葉を選んで考えているようだった。

 そしておもむろに口を開いた。


「俺を助けたのが黒装束の女だ。きっと、おまえの力にもなってくれる」


 それだけ言うと、イルシカは注がれた酒を一気にぐいっと飲み干した。


「とにかく熊には気をつけろ。神だ何だってのは、人間の勝手な都合を押しつけているだけにすぎねえんだ。熊だけじゃねえ。狼だってそうだ。奴らは神じゃねえし、俺たちもしもべでも何でもねえ。やるかやられるか、食うか食われるかの関係だ。そのことを忘れるな」


「狼……」


 ヒラクは、以前、自分が山を越えたときに出会った狼のことを思い出した。あれは一体何だったのか、結局わからないままだ。


「まあ、あまり心配するな。とにかく山の反対側にたどりつくことだけを考えろ。あちら側には熊も狼も現れないからな」


 黙りこむヒラクを見て、少し怖がらせすぎたと思ったイルシカは、安心させるように言った。


「もう寝ろ」


 イルシカは、ヒラクの額にかかる前髪を優しくかきあげた。

 ヒラクの顔に母親の面影が重なる。

 イルシカはそこにまたちがうものを見た。

 緑の髪の感触に、封じ込めた思い出が、甘く切ない感情と共によみがえる。

 イルシカはヒラクを抱きしめた。


「痛いよ、父さん」


 こんなにも父にきつく抱きしめられたことはなく、ヒラクは戸惑った。

 イルシカはハッとしてヒラクの体を引き離した。そしてヒラクの緑の髪を両手でぐしゃぐしゃと乱した。


「うわっ、何すんだよ」


 ヒラクはイルシカの手をつかみ押しのけようとする。

 その手を逆にイルシカがつかんだ。


「おっ、反撃するか?」


 そう言ってイルシカはにやりと笑う。いつもと変わらない様子だ。

 ヒラクは、この何気ない親子のじゃれあいがつらかった。

 父に飛びかかりながら、ヒラクは必死に涙をこらえていた。

 いつもなら言える「明日は負けないからな!」の言葉が今はもう言えない。


 ヒラクは頭から思い切り父の胸に飛び込んでいった。

 イルシカはヒラクを押さえつけるように受け止めながら、そのまま後ろに倒れた。

 

 ヒラクは泣いていた。父の胸に顔を埋めながら、声をあげず、ただ肩だけを震わせて。

 イルシカはヒラクの頭を優しくなでながら、じっと天井を見上げた。


 いつのまにかヒラクは父の胸に抱かれたまま眠りについていた。

 イルシカは体を起こすと、ヒラクを抱きかかえて立ち上がった。


「重くなりやがって……」


 イルシカはさびしそうに笑う。


 小部屋に入り、ユピの横にヒラクを寝かせると、イルシカはぐるっと部屋を見渡した。ヒラクの母親が燃やしていた香のにおいがしみついている気がした。

 この場所で一心不乱に祈っていた妻のことが思い出された。祈りの言葉が壁にこびりついているような気がして、イルシカは不快そうに顔をしかめた。


 思えば生まれてからずっとヒラクはこの部屋で暮らしてきた。

 母親が呼び寄せたプレーナは、この部屋に隠れ住み、ヒラクにずっと寄り添って、ここから連れ去ろうとしていたのだろうか? 

 そんな不吉な考えがイルシカの頭をよぎる。


 イルシカは眠る我が子をじっと見た。


「ヒラク、おまえは俺の子だ。支配を打ち破り、自由を勝ち取れ」


 そのイルシカの言葉を、ヒラクの隣で背中を向けて眠るユピは聞いていた。瞳を閉じたまま、嘲るように、口元に酷薄な笑みを浮かべて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る