第15話 死者の国と奇妙な光景
その夜、ヒラクは行動に出た。
アスルから聞いた話によると、死者の国はこちらの世界と昼夜が逆転するらしい。こちらが夜でもあちらが昼なら、暗い穴の中も先は明るいはずだ。明るい方を目指して進めばいい。ヒラクはそう考えた。
「ヒラク、どこに行くの?」
寝床を抜け出すヒラクにユピが尋ねた。
「おしっこ」
「寒いから上着をはおっていきなよ」
「もちろん」
ヒラクはそう答えると、脚絆をしっかり巻きつけて、上着をはおって外に出た。厚手の鹿皮の手袋をはめた手には縄を持っている。
アスルはどうやって崖にある穴に入るのかと言ったが、何てことはない。男が穴に入った同じことをやればいいだけだ。ヒラクにはそれがわかっていた。
月は冷ややかに明るく、一面の雪は青白く、空気は凍てつき澄んでいた。
かんじきで雪をふみしめる音が耳に響く。
雪の上の迷いのない足跡は、まっすぐに村近くの枝川を目指していた。
ヒラクは、昼間目印をつけた木までやってきた。
枝に
ヒラクは手袋を脱ぎ、持ってきた縄を木の幹に頑丈にしばりつけると、何度も強く引っ張って強度を確かめた。
そしてかんじきをその場で脱ぐと、鹿の皮靴をはいた足に、別に持ってきた縄をぐるぐると巻きつけて、足の裏と甲をきつくしめつけた。
ヒラクは再び手袋をはめると、川の方に背を向けるようにして崖の端に立った。
そして、縄を肩から背に回すと、足に巻きつけた縄をすべり止めにして、岩壁を両足でけりながら、はねるようにして下へと降りていった。
川音が迫ってくるようだった。
川に飛び込む男の姿がヒラクの脳裏をよぎる。
ヒラクは縄をつかむ手に力をこめた。
やがて岩壁をけり上げた両足は闇を突き破り、暗い穴の空間へ吸い込まれた。
ヒラクは男と同じように、勢いよく自らの体を放り込むようにして穴の中に飛び込んだ。
岩穴の中は暗く、深く濃い闇がヒラクを呑みこもうとしているかのようだ。
「だいじょうぶ。この先を進んでいけば明るくなってくるはず」
そう自分に言い聞かせて、ヒラクは先に進んだ。
ところが、どこまでも続くかに思われた岩穴は、すぐに行き止まりとなった。
どこにも抜け道などない。手探りで探しても、岩以外触れるものはなかった。
ヒラクはがっかりした。
そして、ゆっくりと後ろを振り返ったそのとき……
(誰かいる!)
振り返ったヒラクの目の中に、月明かりに浮ぶ影絵のような男の輪郭が飛び込んできた。男はこちらに背を向けて、穴の入り口をふさぐようにして立っている。
「ああ、なんてことだ! ここまで来たっていうのに。死者の国なんてどこにもないじゃないか」
それは昼間見た男だった。死んだ妻に会うために穴に入ったあの男だ。
「どうしたらあいつに会える? 生きているから会えないのか? 死者の国に行くためには、おれも死ねばいいのか? 死ねばあいつに会えるのか?」
男は涙を流し、両手で顔をおおった。そしてふらふらと穴の外に向かって前のめりに体をかたむけた。
「よせ! やめろ!」
ヒラクは男につかみかかろうとした。
しかし間に合わず、男は川に向かって落ちていった。
ヒラクはその場にひざをつき、穴の下を見下ろした。
男の姿はない。
代わりに、妖艶な川の神の姿が見えた。
対岸には若い男がいる。
ペケルだ。
その隣にいるのはルイカだった。ピリカによく似ている。
二人とも今よりもずいぶん若い。ペケルは川に向かって何事か叫んでいた。
言葉は途切れ途切れにしか聞こえないが、どうやら昼間アスルから聞いた言葉と同じようだ。
「……妻にしたい女はもっと美しい……」
その光景は妙だった。
ペケルは川の神に向かって叫んでいるはずなのに、その視線の先に川の神はいない。
川の神はペケルがいる場所とは離れた場所で妖艶な笑みを浮かべながらヒラクを見上げている。
「どういうこと?」
「ヒラク! そこにいるのか!」
上の方からペケルが叫んでいる。
ヒラクは一瞬混乱した。
今下にいるペケルが上に来たかのように思えた。
けれども下にいるペケルは今もまだ川に向かって叫んでいる。
さっきとまったく同じことをくり返しているのだ。
「ヒラク!」
上にいるペケルは、さらに大声でどなった。
「ヒラク! だいじょうぶか!」
「ヒラク!」
イメルとアスルの声もする。
「ここにいるよ!」
ヒラクも上に向かって叫んだ。
「今上がるよ」
ヒラクは縄をつかもうとした。すると、ペケルがあわててヒラクを止めた。
「ヒラク、その縄は使うな! もう一本の縄を下ろすから、しっかり体に巻きつけるんだ!」
ペケルに言われて、ヒラクは縄から手を離した。
上から別の縄が穴の入り口まで降りてくると、ヒラクはペケルの言うとおりに体にぐるぐると巻きつけた。
「いいか? 今ひっぱるから、しっかりつかまれよ!」
「つかまったよ!」
ペケルの声にヒラクは答え、川の方に背を向けるようにして、穴の入り口のぎりぎりの場所に立った。
縄がぴんと張り、巻きつけた腰のあたりまで力が伝わると、ヒラクの体は宙に浮き、そのままゆっくりと上まで引き上げられた。
ヒラクの姿が見えてくると、ペケルは後方の木の幹に回した縄をたぐりよせながら近づいて、ヒラクの体に手をのばした。
イメルとアスルは足を雪に埋もれさせながら、太い木の幹に体の重みをかけるようにして縄をしっかりとつかんでいる。
ペケルにつかみあげられたヒラクがはいあがってくると、イメルとアスルは縄から手を離し、雪の上に転がった。
「まったく……。まさかとは思ったが、無茶なことを」
ペケルはあきれたようにヒラクを見た。
「アスル! 言いつけたな!」
ヒラクがにらみつけると、アスルはびくっと身をすくめた。
「アスルじゃない。俺が父さんに言った」
イメルが割って入った。
「アスルからも話は聞いたけどな。それでも今回ばかりはアスルのおしゃべりに感謝するんだな、ヒラク。見てみろ」
ヒラクは、イメルがあご先を向けた木の幹を見た。
ヒラクが巻きつけた縄は今にもちぎれそうだった。
ヒラクはぞっとした。
そして決まり悪そうにアスルを見た。
「もういい。行くぞ。ここからならうちの方が近い。一度うちに来て体を温めるんだ」
そう言って、ペケルは汗のひいた体をぶるっと震わせた。
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