第14話 黄泉の横穴
アスルが死者の国への通路と呼んだのは、村の近くを流れる曲がりくねった枝川の崖にできた洞穴のことだった。
そこはイメルとアスルがよく泳ぎに来る川で、冬は凍りついている。
大人たちは冬になると山から運んできた枝葉のついた倒木を川に渡して橋を作った。水のしぶきで凍った橋は頑丈で、氷橋と呼ばれている。子どもたちにとって氷橋は、あの世とこの世を結ぶ死者の国への架け橋といえるようなものだった。
「あれが死者の国の入り口だ」
アスルは向こう岸の崖にある穴を指差した。
「
ヒラクの隣でイメルが言った。
「ヒラクは泳ぎにこないから知らなかっただろうけど、ここはけっこう有名なんだぜ」
アスルはヒラクが知らないということで優越感をもった。
ヒラクはアスルを無視してじっと穴を見上げていた。
するとまた、いつものように、ぼんやりとした人影が徐々に鮮明に見えてきた。
「ヒラク、何で有名なのか聞かないのかよ」
アスルがじれたように言う。
もちろんアスルにもイメルにも、ヒラクが見えているものは見えない。
「人が……。男の人が穴に入っていこうとしている」
ヒラクには、若い男が崖上の木の幹に縛りつけた縄を使って岩穴に降りていこうとしているのが見えた。
「何だ、知ってたのか」
アスルがつまらなさそうに言った。
男は飛び込むようにして岩穴に入ると、奥へと姿を消した。
ヒラクは最後までその様子を黙って見ていた。
「ヒラク? どうかしたのか?」
イメルが怪訝顔で声をかけた。
「……なんでもない。それより、その男がどうなったのか教えて。そもそも何で穴に入ったの?」
ヒラクはイメルに尋ねたのだが、アスルがしゃしゃり出て答えた。
「昔、この村に若い夫婦がいたんだ。二人はとても仲がよかったんだけど、結婚してすぐ奥さんが病気で死んじゃったんだ。男はそれはそれは悲しんで、奥さんにどうしても会いたくて、死者の国を訪ねていったんだって」
「それで? その後は?」
「男はそのまま戻ってこなかったんだって。死者の国でまだ奥さんを探しているって言う人もいるし、仲良く二人で暮らしているって言う人もいるよ」
「ふうん」
ヒラクは再び岩穴を見た。
先ほどの男が姿を現した。絶望しきった表情で、何か大声で叫んでいる。
そして両手で顔をおおうと、男は泣き叫びながら川に落ちていった。
「ヒラク? どうした? 顔が真っ青だぞ」
息を呑み、その場に凍りついたヒラクの顔を見てイメルが言った。
「……どういうこと? 男は奥さんに会えたんじゃないの?」
ヒラクは、今見た光景が何であるかさっぱり理解できなかった。
「何だよ、ヒラク。おれの話が間違っているっていうのか? だったら川の神にでも聞いて確かめてみたらいいだろう!」
アスルは気分を害した様子で言った。
「川の神……」
ヒラクは川をじっと見た。
視界にぼんやりと、やがてはっきりと、その川の神らしい女が姿を見せた。
先ほど川に飛び込んだ男を見たときの感じとはちがう。
男と自分の間には、まるで薄い膜のようなものをすかして見るような感じがあったが、今目の前にいる川の神は、ヒラクが話しかければすぐにも返事をしそうなほど近い距離を感じさせた。かといって、川に落ちた男ほどの生々しさがない。
それは、生身の人間と神との差なのだろうか。
ヒラクにはそのちがいが何なのか説明することはできなかった。
「……川の神ってどんな姿をしていると思う?」
ヒラクはアスルとイメルに尋ねてみた。
二人とも不思議そうな顔でヒラクを見る。
「さあ? 見たことないしな」
「おれも……」
「想像でいいんだ」
ヒラクの顔が真剣なので、二人は思うままを口にしてみた。
「そうだな、そりゃやっぱり神さまなんだから、立派な服を着ているだろうな」
「首飾りもいっぱいつけて、耳輪とか腕輪もな」
「でもこの川の神さまなら、本流の神さまよりちょっと飾りもひかえめだろうな」
「でもすごい美人だぜ」
「なんでそう思うの?」
ヒラクはアスルに聞き返した。
「父さんが言っていたんだ。奥さんを探すために男が穴に入ろうとするのを、この川の神さまが引きとめようとしたんだって。男が若くていい男だったから、自分のものにしたくなったんだってさ。でも男が答えたんだ。『あんたも美人だが、妻はもっと美しかった』って。美人の神さまはカンカンに怒ったんだって」
「だから男の子は大人になったらこの川で遊べなくなるんだ。美人の神さまにおぼれさせられるってさ。おれもそろそろこの川に入れなくなる」
イメルはさびしそうに言った。
「でも父さんは母さんと結婚したいと思ったとき、母さんを連れてここに来たって言ってたぜ」
「なんで?」
ヒラクが聞き返すと、アスルは自慢するように答えた。
「母さんの気を引くためさ。父さんは美人の神さまに一緒になるように言われたけれど、妻にしたい女はもっと美しいと言ってやったって。母さんはそれを聞いて結婚する気になったんだって」
イメルとアスルは笑ったが、ヒラクはにこりともしなかった。
ヒラクがみつめる川の神は妖艶に微笑みかけてくる。確かに美しい。アノイの女の誰よりも秀でた容貌だった。二人の言うとおりだ。
着ているものも立派だが、首飾りや腕輪はひかえめで、以前に見た本流の神よりは着飾ってはいない。それも二人の言うとおりだ。
なぜ見えないはずの二人がこうも的確に川の神の容姿を言い当てることができるのか。
ヒラクにはほかにも気になることがある。
「穴に入った男はそんなにいい男だったの?」
「ああ、父さんがそう言っていた」
アスルの言葉を口に出して否定はしなかったが、それははっきりとちがうとヒラクは思った。
「今までほかに穴に入った男はいたの?」
「そんなことをする人間がほかにいるわけないだろう」
イメルは断言する。
それではやはり先ほど見た男が川の神に見初められた男でまちがいない。けれども、その男は決して「いい男」とは言えなかった。イルシカのような精悍さはなく、顔は陰気で、小柄でがりがりにやせていた。
そして男は川へ飛び込んだのだ。
つまり穴から出てきた。穴の向こうにまだいるなんてことはない。
男はおそらく死んだのだ。
ヒラクは混乱していた。
「ヒラク? また何かやろうとしてるのか?」
ヒラクが黙りこんだので、心配そうにイメルが尋ねた。
クマ送りのこともある。
アノイの常識を身につけ、分別ある青年に成長したイメルには、最近のヒラクの言動はまったく理解できなかった。
幼い頃から自由奔放なヒラクをあきれながらも見守ってきたイメルだったが、最近は、何かとんでもないことをしでかすのではないかと危惧する気持ちが強い。ルイカが弟のイルシカに対して感じてきた想いとよく似ている。
「ヒラク? まさか穴に入ろうとしているんじゃ……」
イメルが不安げに言った。
「穴に入ったら死者の国に行けるのか……」
ヒラクがぽつりとつぶやいた。
そんな考えはなかったが、男が何に絶望したのかが気になった。
男は何を見たのか? 妻には会えたのか、会えなかったのか。
そもそも死んだらどうなるのか……。
好奇心いっぱいの目で、ヒラクは穴をじっと見る。
「無理だよ、ヒラク。あんな崖の高いところにある穴にどうやって入るんだよ」
そう言うアスルにヒラクはにやっと笑って言った。
「無理かどうか確かめてこよう。あっち側に行ってみる。イメル、ここで見てて」
イメルは黙ってうなずいて、アスルを連れて対岸に向かうヒラクを見送った。近くまで行って穴を見ればあきらめるだろうと思ったからだ。
ヒラクとアスルは氷橋を渡り、緩やかな斜面を上がって、対岸の崖の上に立った。
「イメル! 穴はどこにある?」
ヒラクは大声で叫んだ。
イメルは身振り手振りをまじえながら、穴の正確な位置を指示した。
その穴のあるところを見下ろしながら、アスルは身震いした。こちら側から見ると川がずいぶん下にある。上からでは穴など見えない。
「一体、こんなところ、どうやって入ったんだ?」
アスルが四つんばいになって下を見下ろしながらつぶやいている間、ヒラクはまったく逆方向を見ていた。
「アスル! そこから動くなよ」
「え? なんで?」
「いいから黙ってそこで穴を見てて!」
振り返ったアスルをヒラクは怒鳴りつけた。
ヒラクはアスルのいる場所からまっすぐ後方にある木に目をつけた。幹も太くしっかりしている。
「……これだ」
ヒラクは防寒用の
「アスル、行こう」
穴を見下ろすアスルに声を掛けると、ヒラクは斜面を駆け下りた。
「待てよ、ヒラク!」
アスルはあわててヒラクの後を追った。
二人が戻ると、イメルはヒラクに言った。
「ヒラク、頭巾は?」
「落とした」
「どこに?」
「知らない。それより、あの穴すごいところにあるね。あれじゃ絶対無理だ」
「だから無理だって言ったじゃないか」
アスルはどこか得意げだ。
「おなかへった。帰る」
ヒラクは二人に背を向けた。その後ろ姿をイメルは不安げにじっと見た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます