第11話 クマ送り前夜Ⅱ

 その夜、村は早々に寝静まっていた。翌日の儀式は早朝から行われる。

 唯一灯りがついているのはおさの家だった。


 長の家では、イルシカが、明日の儀式で使う酒を手酌てじゃくで呑んでいた。それをとがめるでもなく、片口の器がからになると、長は黙って注ぎ足した。

 イルシカも黙ってうなずいた。

 それをうれしそうに見守るのはイルシカの老いた母だった。  


 しめやかな雰囲気の中、突然ルイカがやってきた。


「アスルとピリカが来ていないかしら?」


 ルイカの後ろにはイメルもいた。


「来ていないぞ。何かあったのか?」


 長は立ち上がり、ルイカを中へ迎え入れた。


「ヒラクは? ヒラクは知らないかしら?」


 アスルとピリカが長の家にもいないと知り、ルイカは動揺した。


「ヒラクなら小便に行くと言って出て行ったぞ」


 イルシカはルイカに酔った眼を向けた。


「一緒にいるんじゃないかしら? どこかでまだ遊んでいるのかしら?」


 ルイカはあわてて外に飛び出そうとした。

 長はそんなルイカを引き止める。


「まあ待て。大事な儀式の前だ。騒ぎにするわけにはいかん」


「でも何かあってからじゃ遅いのよ」


 言い合う二人の間で、長の妻はおろおろとするばかりだった。


 そんな中、先ほどから物言いたげだったイメルがイルシカにそっと近づいた。


「おじさん、実は……」


 イメルの言葉でイルシカはさっと表情を変えた。

 イルシカはすぐさま厳しい顔つきで立ち上がると、弓を背負い、槍を手にして外に飛び出していった。

          


 その時ヒラクは、クマの檻によじのぼり、天井部分の丸太の上の重石を下に落とそうとしていた。


「ヒラク、やめようよ」


 アスルはおろおろとした様子でヒラクを見上げた。


「ふん、怖気づいたか。弱虫は家に帰れ」


「何だと? 俺は弱虫じゃないぞ!」


 アスルは、組み立てられた丸太の上部にひっかけた縄をつかんで上までよじのぼった。


「お兄ちゃん、やめなよ。お母さんにしかられるよ」


 ピリカは今にも泣きそうだ。


「うるさい、どいてろ! 危ないぞ」


 アスルはピリカを怒鳴りつけ、ヒラクと一緒に重石を下に落とした。

 ヌマウシは檻の中でうなり声をあげながら外の様子をうかがっている。

 すべての重石を落とすと、ヒラクは下に飛び降りた。


「アスル、次はこっちだ」


 アスルは再び縄を使って、おっかなびっくり下に降りた。

 ヒラクは、なたをアスルに手渡した。


「おれはこっちの支えを折る。おまえはそっちをやれ」


 二人は、四本の支柱のうち手前の二本を折ろうと、右と左に分かれてなたを振るった。


「よし、離れろ」


 ヒラクの声でアスルはその場から飛びのいた。


 傾き始めていた丸太の檻が、地に深く沈みこむような鈍い音を立てて前方に倒れた。


 やがて、重石を取り払われた天井部分をつきやぶり、中から大きなクマがはい出てきた。


「ヌマウシ」


 ヒラクが駆け寄ろうとしたときだった。


「ヒラク! 離れろ!」


 イルシカが弓をかまえながら走ってきた。


「父さん、やめて! ヌマウシを自由にしてやって!」


 ヒラクは自分を盾にして、両手を広げてヌマウシをかばった。


「ヒラク、危ない!」


 アスルの叫ぶ声に振り返ったヒラクが見たのは、自分に向かって鋭い爪を振り下ろそうとするヌマウシの姿だった。


「ヌマウシ、おれがわからないの!」


 ヒラクが叫ぶのと、イルシカの放った矢がヌマウシののどを射抜くのは同時だった。


「イメル! ヒラクをクマから離せ!」


 イルシカは、後についてきていたイメルに向かって叫ぶと、弓を投げ捨て、槍をかまえて、暴れ狂うクマに向かって突進していった。


 クマはイルシカに向かって立ち上がり、おおいかぶさろうとするように上体をかたむけた。


 イルシカはクマの真正面で腰を沈めると、長い槍の柄を地面で支えて、穂先をクマの胸に向けて斜めに立てた。


 倒れこんだクマは自分の重さで穂先を胸に沈めた。


 イルシカはすばやく横に転がり、槍から手を放した。

 穂先には毒が充填してあり、体に入ると横木で止まる仕組みになっている。

 クマは地面を揺るがすようにのたうちまわり身悶えた。


 やがて苦しげな息は絶え、クマはその場に倒れたまま動かなくなった。


 ヒラクはイメルに押さえつけられたまま、その様子を呆然と見ていた。

 ピリカとアスルは恐怖で硬直している。


「イメル、みんなを連れてこの場から離れろ」


 イルシカは額の汗をぬぐって叫んだ。

 イメルはすぐには動けなかった。


「聞こえねえのか! 早くしろ!」


 イメルはくちびるを引き結んでうなずくと、ヒラクの腕をしっかりつかみ、あいた手でピリカとアスルを抱き込むようにして、その場を離れた。


 すぐに村人たちが集まってきた。


 明日には盛大な儀式のもと神の国へ送られるはずだった熊が槍で胸を一突きにされて死んでいる。

 そこに一人いたイルシカは、ぎらつく目で周囲を見回すと、狂ったように笑いだした。その狂気のさまを見て、人々はぞっとした。


「イルシカ、これは一体……」


 その場に駆けつけたおさは震え声で尋ねた。


「俺には悪神がいているんだ。神々をあざ笑っているのさ。何がクマ送りだ。ばかばかしい。そんなもん俺がぶち壊してやる」


 そう言って、イルシカは高らかに笑った。


「おまえというやつは……」


 長はその場にひざを落として手をつくと、うなだれ、声をつまらせた。地面をえぐりとるようにして握りしめたこぶしは、わなわなと震えていた。

             

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ヒラク…主人公

イルシカ…ヒラクの父

サマイクル…アノイの長。イルシカの父、ヒラクの祖父

ルイカ…イルシカの姉。ヒラクの伯母。

イメル、アスル、ピリカ…ルイカの子どもたち。ヒラクのいとこ。

ヌマウシ…ヒラクが可愛がっていた熊の名前


★近況ノートに人物相関図あります

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