第10話 クマ送り前夜Ⅰ
季節は冬を迎えていた。
一年の締めくくりに、アノイの村ではその年最大の儀式が執り行われようとしていた。神から預かった子熊を神の国へと送り出す「クマ送り」だ。
アノイの村では熊を送るための準備で村人は忙しく働いていた。
クマ送り当日の四日前には、ひえかあわを醗酵させて酒を作る。そして前日には神々への捧げものを作る。樹皮の削り掛けをふさふさと上部につけた木の棒だ。
神々の中でも最高位にある火の神に始まり、水の神、木の神など、アノイには多くの神々がいる。儀式の成功のためにそれらの神々に祈るための捧げものが必要となってくる。
そして儀式の後、祭壇の熊に捧げるものも作らなければならない。
この役目は男が引き受ける。女は直接神を祀る儀式に関わることはできない。そのかわり女たちは熊の神々へのみやげものとして、でんぷんを材料としたもち団子などを作る。
さらに儀式に必要とされるのは花矢と呼ばれる矢だ。これは赤い絹布をつけたり矢じりに彫刻を施したりした飾り矢で、あくまでも儀式用の矢であり、熊に刺さってもひどい傷にならないようになっている。花矢の数は決まっていて、送る熊がメスのときは六十本、オスの場合は五十本だった。
クマ送りの前日、イルシカが
「何本あろうが意味のない矢だ。送り出すには俺の矢一本で十分だ」
背後からなつかしい息子の声がして、長は驚いて振り返った。
お互いに言葉もなかった。
イルシカは、振り返った顔を見るまで、それが父であることが信じられなかった。その背中はあまりにも小さく感じられた。
(老いたな……)
イルシカは、くやしく、やるせない気持ちになった。敵視していた父親は、怒りのはけ口とするにはもう、あまりにも弱々しい老人なのだ。
「……ヒラクは、どうした?」
二人の間の壁は、打ち壊すまでもなく、時の侵食で朽ちていた。もはや闘いにもならず、戸惑うばかりの互いの姿をむなしくさらすだけだった。
その時ヒラクはクマの
「ヌマウシ……」
かつての子グマは成長し、大きな体で窮屈そうに檻に収まっていた。
誰もが明日このクマが送り出されることを喜んでいる。それが何を意味するのかを知ってから、ヒラクはこの日が来ないことを願っていた。
ヒラクは、イルシカに狩りに連れ出された日のことを思い出していた。
普段は罠を張り獲物を捕らえるが、この時は弓の練習がてら獲物を矢で射ることにした。
狙ったのは野ウサギだった。
「標的が小さいほど腕が試される」
そう言いながら矢を放ち、イルシカはウサギを見事にしとめた。
「すごいや、父さん」
ヒラクはウサギに駆け寄ってつかみあげた。
「俺の腕をしてみれば、これぐらい大したことじゃねえ。クマ送りの当日は一発でクマの心臓を打ち抜いてやる」
イルシカは得意げに言った。
ヒラクはぎょっとした顔で父を見た。
「そんなことしたら死んじゃうよ」
「死なないでどうする。クマ送りってのは、熊を殺してあの世に送ってやることを言うんだ」
「うそだ! だってみんな言っていたよ。ヌマウシは神の国に帰って親熊に会えるんだって。神さまたちに見守られて、みんなに見送られて幸せだって。おみやげもたくさんもたせてもらえるって」
「くだらねえ。死んだあとのことを好き勝手に言っているだけさ。魂がどうなるかなんて、そんなの知ったこっちゃねえんだよ」
イルシカは吐き捨てるように言った。
「いいか、ヒラク。死んだあとのことなんて、本当のところは誰もわかっちゃいねえんだ。確かに言えるのは、死んだらそこで終わりってことよ。肉は朽ち果て骨になる。クマも、俺たちも、そのウサギも同じだ」
ヒラクはつかみあげたウサギを見た。それはもはや生き物ではなく、ただの物体でしかなかった。その肉の塊はヒラクたちの食料となる。そのまま放置すればやがて腐敗していく。命を失うとはそういうことだ。
それから毎晩ヒラクは、心臓に矢が突き刺さり苦しみもだえるヌマウシの姿を夢に見た。
ヒラクには耐えられなかった。ヒラクにとってヌマウシは、名もない野ウサギとはちがう。自分にとって特別で、他の動物たちとも区別されるものだ。それが「名づける」ということだった。
そんな特別な思いが、ヒラクにあることを決意させた。
それが大きな混乱を引き起こすことになろうとは知らずに。
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ヒラク…主人公
イルシカ…ヒラクの父
サマイクル…アノイの長。イルシカの父、ヒラクの祖父
★近況ノートに人物相関図あります
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