第9話 ヒラクと子熊


 翌年の春、アノイの村は活気づいていた。

 ルイカの夫ペケルの猟団がクマ狩りに行った際、親熊と一緒にいた子熊を生かしたまま捕らえて村に持ち帰ってきたのだ。


 生きている子熊は山に住む神から里子として預けられたものであり、アノイの人々は神の信頼の厚いことを喜ぶ。子熊は神の賜物であり、村で子熊を預かると、悪疫の流行はなく天災も免れて生活も豊かになると信じられていた。


 ピリカとアスルは、自分の父親が山から子グマを預かってきたことを誇らしく思い、興奮した様子でヒラクの家にやってきた。


「すごいよね。うちのお父さん」


「父さんが『クマが山から降りてきた』って大声で叫んで山から降りてきたら、みんないっせいに家から出てきたんだ」


 イルシカはその話を聞きながら、ふんっと鼻を鳴らして笑う。

 ユピは小部屋から出てこない。

 ヒラクは、なぜ子熊を捕らえることがそれほど名誉なことなのか理解できず、興奮気味にまくしたてるピリカとアスルの様子を呆気にとられながら眺めていた。


「それでね、その子グマ、今はおじいちゃんの家にいるの。もうちょっと大きくなったら檻に入れるんだって。今作ってるのよ」


「ヒラクも見に行こうぜ」


 ピリカとアスルは今にも連れ出そうとヒラクの腕をつかんだ。


「やめとけ、ヒラク。おさは孫のおまえより、子グマが大事だろうからな。追い払われるのがおちだぜ」


 イルシカは吐き捨てるように言った。


「それがそうでもなさそうよ」


 そう言って入ってきたのは、ピリカたちの母ルイカだった。後ろにはイメルもいる。


「まったく、あんたたち、母さんを置いていかないでちょうだい。話があるのは母さんなんだから」


 ルイカはピリカとアスルをとがめるように見ると、を挟んでイルシカの前に座った。


「話ってなんだよ」


 イルシカはルイカを見てめんどくさそうに言った。


「クマ送りでクマを送り出す役目をあんたに頼みたいと長が言っているのよ」


 「クマ送り」とは、熊の霊をその親元の国である神の国に送り届ける祭儀のことだ。アノイが古来から行ってきた祭儀の中でもとりわけ盛大に行われるものだった。

 山から預かった子熊は、成長すると村の祭場で弓にかけられ、首の骨を折られて殺される。魂を神の国に送るのだ。この時、とどめの矢を射ち込む者が、神の国へ送り出す役目を果たす。


「うちの人もあんたしかいないと言っているわ。何よりおさの強い願いなのよ」


「おやじが?」


「父さんももうずいぶん年をとってしまったわ。村では次の長が誰かという話ばかり。父さんはあんたに跡を継いでほしいと思っているのよ」


「俺が?」


 イルシカは腹を抱えて笑いだした。


「悪神のいた俺がおさ? 俺は村に災いをもたらす者なんだろう? 村をぶっつぶしてもいいっていうなら話は別だがな」


 笑い続けるイルシカを見て、ルイカは眉をひそめる。


「父さんはただ、あんたと仲直りしたいだけなのよ。クマ送りの役目を無事に果たして神の国と村をつなぐ者になれば、村の人たちにも示しがつくと考えているわ。これをきっかけに今までのことを水に流して、わだかまりをなくしたいのよ」


 ルイカの必死の説得もむなしく、イルシカはまるで耳を貸さない。


「あいかわらず独りよがりだな。全部そっちの都合じゃねえか。俺はおやじの道具じゃねえよ」


「それならヒラクはどうなるの? ヒラクもあんたの道具じゃないわ。あんたが村やおさを拒んでも、ヒラクは自由にさせるべきなんじゃないの?」


 ルイカの言葉に言い返すこともできず、イルシカは黙り込む。そしてヒラクに目をやった。


「ヒラク、おまえ、長のところに行きたいか?」


「うん。おれ、子グマが見たい」


 ヒラクは目をらんらんと輝かせている。

 イルシカはため息をついた。


「……好きにしろ。だが、日暮れまでには戻ってこい。いいな」


「やったぁ!」


「よかったね、ヒラク」


 ヒラクはピリカたちと一緒に飛び上がって喜んだ。


「ユピは? ユピも一緒に行っていい?」


 ヒラクが聞くと、ルイカは困った顔をした。


「ユピはどうせ来ないよ。俺たちと一緒になんかさ」 


 アスルがふてくされ顔で言う。

 イメルは黙ったままだが同じことを思っていた。


「ヒラクは私と一緒に行くんだもん」


 ピリカはヒラクの手をつかんで外に引っぱり出そうとする。

 ヒラクは小部屋の向こうのユピを気にするが、ユピは顔を出す気配もない。


 ときどきヒラクはいとこたちとユピとの板挟みで困ることがある。

 ヒラクが外に遊びに行って帰ってくると、ユピは、自分がどれだけ心細かったか、寂しくて仕方なかったかをそれとなくほのめかす。そのたびにヒラクはユピに申し訳ないことをしたと思い、ユピを一人にしたことに罪悪感を抱いてしまう。

 それでもヒラクの外への関心や好奇心はとどまるところを知らず、今ももう、気持ちは子熊に向いている。


「すぐ戻るから!」


 ヒラクは、イルシカと、そして小部屋のユピにも聞こえるように叫ぶと、元気よく外に飛び出していった。子熊への好奇心でいっぱいだった。

 ピリカとアスルがヒラクの後を追う。その後にイメルも続いた。


「ありがとう、イルシカ」


 ルイカの言葉にイルシカはそっぽを向いたままだった。


「ヒラクに何かあったら俺がだまっちゃいないからな。おさにそう伝えておけ」


「わかっているわ。あんたもちゃんとクマ送りの件、考えておくのよ」


「ふん、お断りだぜ」


 イルシカは姉に背を向けて、ごろんと床に寝転がった。


            


 ヒラクは、ピリカたちに案内されておさの家に向かった。

 ルイカの家の近くまでは何度も来ていたが、村に入るのはこれが初めてだ。


 村人たちが好奇の目でヒラクを見る。わざわざ人を集めて見に来る者もあり、長の家に着く頃には、ヒラクの後方には、ばらばらと人だかりができていた。


 何といっても目を引くのはヒラクの髪の色だ。母親と同じ、鮮やかな緑色をしている。肌の色もちがった。象牙色の肌は、アノイの人々の中ではずいぶん色白に見える。


 長が自分の家を訪れたヒラクと初めて対面したときも、その風貌には驚きを隠せなかった。


「ホルカ……」


 おさは一瞬おちくぼんだ目を見開いた。


 「ホルカ」というのはヒラクの母の呼び名だった。アノイの言葉で「後戻り」という意味だ。神の国へ戻っていったとき以来、人々にそう呼ばれるようになっていた。それまでは「イルシカの妻」と呼ばれていたが、もともと長は決してそうは呼ばなかった。


(忌まわしい緑の女め……)


 長はヒラクを憎々しげに見た。

 けれども、顔を上げて自分を見たヒラクの目に、長は確かにイルシカを見た。強い光を宿す意志の強そうな目は、まちがいなくイルシカの子であることを示している。

 長の目に涙があふれた。


「よく来たな……」


 目の前の老人は、枯れ枝のような手足をしていて、風にも耐えないように見える。そのことがヒラクを驚かせた。これが自分の父が敵視する人間なのかと目を疑った。だが、その関心もすぐに子熊へと移った。


 子熊は家の中で放し飼いにされていた。大きな犬ぐらいの大きさで、動作は愛らしく、ヒラクはすぐに夢中になった。長の妻は、孫のヒラクを喜ばせるために、|ルビを入力…《かゆ》の椀を手渡して、子熊に与えることを勧めた。ヒラクが粥を指ですくって子グマの口元に近づけると、子熊は乳房を吸うように喜んでそれをなめた。


 それ以来、ヒラクは毎日のように長のもとに通った。


 ヒラクは子熊にひそかに「ヌマウシ」という名前をつけて、ピリカたちと一緒にかわいがった。


 ヌマウシはヒラクによくなついた。ヒラクが外を駆ければ、どこまでもその後を追ってくる。横になればすりよってくる。そしてヒラクとヌマウシは、そのまま体を寄せ合って、一緒に眠ることもあった。



 子熊はすくすくと成長し、やがて檻に移された。檻は丸太を四角に組んだもので、高さ一メートルほどの四本の支柱の上に乗せられ、同じ丸太でできた天井には石で重石がされた。ヒラクは丸太の隙間からヌマウシをのぞきこみ、餌をやるために村に足しげく通った。


 村人たちは、長がかわいがっている孫で、大巫女である老婆にも気にいられているということで、ヒラクに対する警戒心を次第に解いていった。ヒラクは物怖じしない子どもで、村人に話しかけられればすぐに打ち解けたので、以前ほどヒラクを悪く言う者もいなくなっていた。


 自由に村を行き来するヒラクを見て、イルシカの心にも変化が訪れた。このまま村を拒んで暮らし続けることが不自然なように思われたのだ。


 そしてイルシカは決意した。


「クマ送りの役目、引き受けてもいいぜ」


 それを聞いたルイカは喜んですぐに長に伝えた。


 何もかもすべてうまくいくかに思われた。

 クマ送りの日が来るまでは……。

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