第6話 砂漠の少年

 早朝、ヒラクは寒さに身を震わせて目を覚ました。炉の火はすでに消えていた。

 ヒラクは昨夜と同じく狩り小屋に一人きりだった。


 ヒラクは外に飛び出した。

 そして母を追うために駆け出そうとしたが、ヒラクは目の前の光景に息を呑み、その場に呆然と立ち尽くした。


 昨夜は気づかなかった見たこともない光景がヒラクの視界いっぱいに広がっていた。砂と空の二層の色合いが空間を広げていくようにどこまでも遠くのびていく。


 ヒラクは後ろを振り返った。背後には山がある。だがアノイが暮らす山とはまるでちがっていた。木々はなく、橙色だいだいいろの山肌がむきだしになっている。昨夜、狼の背に乗って超えた山の向こう側の姿だ。


 ヒラクは再び砂漠を見た。

 ところどころにうっすらと人が歩いた痕跡がある。


(母さん……?)


 ヒラクは足跡をみつけた。

 吹きすさぶ風は砂を巻き上げ、気まぐれに紋様を書きかえる。

 ヒラクはあわてて足跡をたどった。


「ヒラク!」


 イルシカは山の中腹から叫んだ。ヒラクの食料を調達しに行った山の奥からちょうど戻ってきたところで、砂漠に向かって飛び出していく小さな影をみつけたのだ。

 ヒラクに声は届いていない。イルシカはあわてて山を駆け下りた。


 ヒラクは砂に足をとられながらも懸命に走った。


「母さぁん!」


 ヒラクの声は風の音にかき消された。たどってきた足跡もすでに消えている。

 ヒラクは涙で顔をぬらし、口の中の砂をかみしめた。砂漠にぽつんと一人きり、取り残された気分だった。

 ヒラクは母に捨てられたことを思い知らされた。


「ヒラク!」


 イルシカがヒラクに追いついた。


 イルシカは全身に汗をかき、息をはずませ、安堵の表情を見せた。


「父さん……」


 ヒラクはイルシカの胸に飛び込むと、声をはりあげて泣いた。


「すまないヒラク……」


 イルシカの大きな手がヒラクを優しく包み込む。

 砂混じりの乾いた風が吹きつける中、ヒラクは激しく泣き続けた。

 イルシカはヒラクを抱き上げて、なだめるように背中をたたく。


「帰ろう、ヒラク」


 ヒラクは泣きぬれた顔をぬぐってうなずいた。

 イルシカはヒラクを抱きかかえて、山に向かって引き返した。

 ヒラクはまだ名残惜しそうに砂漠を振り返る。


「待って、父さん」


 ヒラクの目に何かが飛び込んできた。

 イルシカは足を止めた。


「どうした、ヒラク」


「あそこ……あそこに誰かいる」


 ヒラクが指差す方を見て、イルシカはじっと目を凝らした。

 遠く、砂の中にある影が、確かに動いたように見えた。


「母さん? 母さんなの?」


「いや……そんなはずは……」


「母さんかもしれない!」


 ヒラクはイルシカの腕の中から飛び降りて走りだした。

 イルシカもヒラクの後を追った。


 ヒラクの目の中で人影がはっきりとした姿になってくる。

 そしてヒラクはがっかりして足を止めた。


「母さんじゃない……」


「行ってみよう」


 落胆するヒラクを抱き上げて、イルシカはさらに歩を進めた。人影の主はヒラクたちを見ているようにみえる。しかし、見知らぬ人間が近づこうとしているのを見ても、ただじっとその場に立ち尽くしたままだ。


「妙だな」


 そうつぶやき、イルシカはさらに近づいていった。


「……子ども?」


 それは一人の少年だった。


 少年は、ヒラクよりも背は高く、年の頃も上に見える。アノイ族でもなく、ヒラクの母親ともちがう異民族のようだ。絹のシャツの胸ははだけ、砂にまみれた白い肌がのぞき、たっぷりとした袖が風にはためいている。砂の黄金色よりも明るい前髪の隙間からのぞく青い瞳はかげりを帯び、その表情からはまったく何も読み取れない。大きな人形がそこに立っているかのようだった。


 少年がこちらを警戒する様子もないことを怪しみ、足が止まりかけたイルシカだったが、少年の足元にあるものに気づくと、血相を変えて駆け寄った。


「おい!」


 イルシカは、少年の足元に倒れている女の上体を抱え起こし、かぶっていた砂をほろった。


 女はすでに死んでいた。

 絹糸のような白金の長い髪は、そばにいる少年の母親であることを示している。女の着ている赤いドレスが上等なものだということは、イルシカの目から見ても明らかだ。

 イルシカは、砂漠の向こうにあるものを見ようとするかのように、遠くを眺めた。


「……この砂の地の果てに、新しい国ができたと聞いたことがある。おまえはそこから来たのか?」


 イルシカは少年に尋ねるが、少年は無表情のまま、何も答えようとしない。


「言葉が通じないか……」


 イルシカは、抱え起こした少年の母親を再び砂の上に横たえさせて立ち上がった。


「来い」


 イルシカは少年の腕をつかんだ。

 少年はゆらりと体を動かすが、表情を変えることはない。


「どうするの? 家を探してあげるの?」


 ヒラクが尋ねると、イルシカは首を横に振る。


「いや、村へ連れ帰る」


「どうして?」


「俺もくわしくは知らねえが、新しい国では、この砂の地を罪人の処刑場にしているという話だ。おそらくこの親子は、そこから逃げてきたんだろう」


 イルシカは山を背にして、遠く砂と空の境目をじっと見た。そして不安げに自分を見上げるヒラクの頭に手を置いて、安心させるように少し笑ってみせた。


「とにかく、ここにずっといるわけには行かねえ。砂の地の果ての連中につかまるかもしれねえし、それに何よりここにずっといたら、『あれ』にみつかってしまう」


「あれって?」


「……プレーナだ」


 イルシカの声は風の音にかき消され、ヒラクにはよく聞こえなかったが、そばにいた少年は、その言葉に微かに反応した。


「あれって何?あれって」


 ヒラクは、父の腕にぶらさがって、しつこく聞いた。


「いいから行くぞ」


 イルシカはヒラクを右手にぶらさげたまま、左手で少年の背を押した。

 少年は息絶えた母親を振り返った。


「父さん! あれって何……」


 ヒラクは父の顔をのぞきこもうと前に身を乗り出したが、父越しに見た少年の横顔を見てハッとして黙り込んだ。

 砂にまみれた少年の頬には涙の線がついていた。

 ヒラクは父の腕につかまりながら、後方をじっと見た。

 父がなぜあわててこの場を去ろうとしているのかは、ヒラクにはわからなかったが、死んだ母親をこんなところに置いていかねばならない少年の気持ちは察することができた。


 風で砂が巻き上がり、異国の赤いドレスがかすんでいく。

 白金の髪も青ざめた肌も一瞬で砂と化し、風に吹き飛ばされていく……。

 ヒラクの目にはそう映り、その少年の悲しみを美しいとさえ思った。


             


「明日早く出るぞ。向こうの天候が気になるがな」


 狩り小屋に戻ると、イルシカはヒラクに言った。


「こんなに天気がいいのに?」


 ヒラクは不思議そうな顔をした。空には雲一つなく、太陽が乱暴に照りつけている。


「こっちは決して雨が降らないんだ。水を奪われた呪われた地だ」


 イルシカは吐き捨てるように言った。


「ところで、おまえはどうやって山を越えてきたんだ?」


 イルシカに尋ねられ、ヒラクは答えにとまどった。あの狼が何であったのかはヒラクにもわからない。ただ、それを父に聞いて確かめることはためらわれた。川の神を目にしたことを告げたときのイルシカの恐ろしさが忘れられない。


「朝、起きて、母さんがいなくて、追いかけて、ずっと走って、ただ、会いたくて、それで……」


 それ以上ヒラクが言葉を続けられなくなるのを、イルシカはちがう意味で解釈し、言葉をさえぎった。


「もういい、それ以上言うな。つらい思いをさせたな」


 ヒラクは砂漠をじっと見た。


(この地のどこかに母さんはいる。そして……)


 ヒラクは少年に目をやった。少年はヒラクと同じように砂の果てをみつめている。同じ思いでいるのかもしれないと思うと、ヒラクは少年と心がつながったような気がした。


 夜中にヒラクが目を覚ますと、傍らに少年の姿はなかった。イルシカは大いびきで寝ている。


 ヒラクは小屋の外に出た。


 月が明るい。

 少年は昼間と同じように砂の果てをじっとみつめていた。


「寒くない?」


 ヒラクは少年の横に立って話しかけた。

 少年は何も答えない。


 しばらく黙り込んでいると、ヒラクは少年が横にいることも気にならなくなってきて、砂漠に向かって母親に語りかけるように独り言を言った。


「母さん、どこにいるの? どうしておれを置いていったの?」


「……その言葉」


 隣にいた少年が初めて声を発した。


「……なぜ、その言葉、使う?」


 少年は、たどたどしくではあるが、ヒラクと同じ言葉で話した。それは、ヒラクの母親が使っていた言語だ。


「おまえこそ、どうして? 自分の国の言葉なの?」


「……ちがう。その言葉、禁じられた言葉」


「禁じられた言葉?」


 ヒラクが聞き返すと、少年は顔をしかめ、額を手で押さえた。


「頭痛いの?」


 ヒラクが聞くと、少年はうなずいた。


「小屋に戻ろう。寝たほうがいいよ」


 ヒラクは少年を支えるようにして小屋に戻った。


 その夜、うとうとと眠りにつきながら、ヒラクは、隣で眠る少年の寝言をぼんやりと聞いた。


「……おまえのすべては私のもの……私のための道具……時が満ちるの待つとしよう……永遠なる者よ」


 その言葉にたどたどしさはなく、先ほど外で話したときとはまるでちがっていた。不思議に思いながらも、ヒラクはそのまま眠りにつき、そして朝になると、そのことはすっかり忘れていた。

 

 少年は何者か?

 母の使う言語が「禁じられた言葉」と呼ばれるのはなぜか?

 

 その謎が解けるのは、さらにまだ先のことだった。

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