第5話 山越え
母と別れた夜のことを、ヒラクはこの先もずっと忘れることはなかった。
その日も満月だった。
月が満ちる時が山を越える時、それは母と子の別れの時だった。父イルシカも、この時ばかりは、月が満ちるのを待ちわびることはなかった。母親と引き離すことが果たしてヒラクのためになるのだろうか……自分はもっとも残酷なことをしようとしているのではないか……それに……
「……もう、二度と会えなくなるのか?」
イルシカは切なげに、満ちていく月を見上げてつぶやいた。
満月の数日前、ヒラクはいつものように握りしめた母の手を頬にあてながら眠りにつこうとしていた。
母はヒラクに添い寝しながら子守唄でも歌うようにささやいた。
「ヒラク、あなたはプレーナの子。いつか必ず私の元に戻ってくる。プレーナと一つになるために。今のあなたは仮の姿。いつか本当の姿に戻る時、あなたは自分が何者であるかを知るわ」
ヒラクはうとうとしながら、握りしめた母の手を離すまいとしていた。
「母さん、どこにも行かないよね?」
プレーナを捨てられないと言った母が、自分を抱きしめる手をゆるめたことが、ヒラクを不安にさせていた。それでもヒラクは母を信じていた。自分を置いて一人でどこかに行ってしまうことなどあるわけがないと思っていた。
「母さん、朝までずっと手を離しちゃだめだからね」
「……離さないわ。だからゆっくりお休みなさい」
母の言葉に安心してヒラクは深い眠りについた。
だが、翌朝ヒラクが目を覚ますと、母の姿はどこにもなかった。
ヒラクは小部屋を飛び出した。
「おばさん……」
父の姿もない。
「ヒラク、起きたの? 迎えにきたのよ。今日はうちでごはんを食べなさい」
「おばさん、父さんは? 母さんはどこ?」
「……おなかすいたでしょう? うちに来たらすぐ食べられるわ」
「おばさん、母さんは?」
父がいないことよりも、小部屋を決して出ようとしない母の姿がないことが、ヒラクを不安でいっぱいにした。
「母さんはどこ!」
「ヒラク……」
ルイカは思わずヒラクを抱きしめた。目には涙が浮かんでいる。
「お母さんはもういないの。遠くへ行ってしまったの。かわいそうに……こんな小さな子が……」
ルイカはこらえきれずに嗚咽する。
ヒラクはルイカの腕をすりぬけて外に飛び出した。
「待ちなさい、ヒラク、どこに行くの!」
ルイカの声を背に受けて、ヒラクは山の奥に向かって駆けだした。
母が自分を置いていったことがヒラクには信じられなかった。いや、信じたくなかった。つないだ手を離して、自分との絆を断ち切って、一人でいなくなるなんて、そんなことを母がするわけがないと思った。
(きっと何かあったにちがいない……!)
ヒラクは必死に走った。
いつかの川の女たちがまた自分を助けてくれるかもしれない、そう思いながら、ヒラクは家のそばの川沿いを走った。
家の前の川の女は現れない。いつも自分の体を洗ってくれたあの女……。
ヒラクは気づいていた。いつも母に会う前、ヒラクの体を洗い流してくれる川、それがあの女の正体だった。それはアノイの川の神の姿なのだろう。枝川の男が威厳ある女にひざまずいたのは、支流の神が本流の川の神に従属するからだ。沢の神、沼の神などそれぞれの神に上下関係があることは、ヒラクも聞いたことがある。
やがて川岸のやぶを抜けたが、枝川の男は現れない。
さらに本流にまで行き着いたが、そこにいるはずの女の姿はどこにもない。
それでもヒラクは川沿いを山の奥に向かって走り続けた。
そして、初めて本流の川の女と出会った場所まで行き着いた。右手のやぶを抜ければ沼の女がいた場所にたどりつく。
ヒラクはじっと川の真ん中を見て、女が現れるのを待った。
水音がして、女の気配が漂った。
まばたきの一瞬で、以前見たときと同じ姿で、女は超然と川の中央に立っていた。
「教えてよ、母さんはどこ? どこに行ったか教えてよ」
川の神である女は、ヒラクを目でとらえるが、何かを伝えようとするそぶりはない。
「教えてよ、母さんはどこに行ったの? 教えてよ!」
女は興味をなくしたかのように、川が流れる方向に目を移したかと思うと、口を開け、天に向かって両腕を伸ばした。
何かが勢いよく女の口の中に飛び込んでくるのと、それを飲み込もうとした女の姿が消えるのは同時だった。
すでにヒラクの目の前には長い胴体のようなものがあり、川下から川上に向かい、延々と続いていた。
ヒラクは後ずさりし、川の女をあきらめ、身をひるがえして、やぶの中に飛び込んでいった。最後の望みを沼の女に託して。
やぶを抜けると沼があった。
沼の女はいた。
以前見たときと同じ光景がヒラクの目の中に飛び込んできた。
アノイの若い女が沼に向かって泣いている。
「この沼の水は泥だらけで飲めない。ああ、のどが渇いた。のどが渇いた」
女は以前とまったく同じように嘆いていた。
「もう家には帰れない。誰も私をみつけない」
ヒラクはただ黙ってその様子を眺めていた。
すると今度は女は何かにおびえたようにふりかえった。その目はヒラクではない何かをとらえている。
「ああ、もうだめだわ。囲まれてしまった。誰か、助けて……」
女は恐怖に凍りついた顔で沼の方に後ずさりする。
ヒラクは辺りを見回すが、どこにも誰も、何もいない。
ところが次の瞬間、どこから現れたのか、一匹の狼が女に襲いかかった。女が叫び声をあげたと同時にそこに現れたようだった。
そして女も狼も同時に姿を消した。
かわって現れたのはアノイの老夫婦だった。
それもまたどこから現れたのかさっぱりわからない。二人が手にしている衣服は、先ほどの女が着ていたものだ。泥と血にまみれて引き裂かれている。
「おまえ、もう泣くんじゃない。あの子は器量のいい子だったから、きっと神の国に連れて行かれてしまったんだ」
「そうね、あなた。私たちはむしろ喜ばなければいけないわ。きっと、この沼の神があの子を妻にと望んだのでしょう。今頃は夫婦になって幸せに暮らしているわ」
そう言って老夫婦はなぐさめあった。
その直後、老夫婦の姿が消えたかと思うと、以前と同じように沼がぬくぬくと盛り上がり、そこに人が現れた。今度は二人だ。狼に襲われた若い女は精悍な若者に寄り添っている。
ヒラクは二人のそばに駆け寄った。
「おまえたち、神さまなのか? だったら教えてよ! 母さんはどこ?」
沼の二人は困ったように顔を見合わせた。そして女の方は以前と同じように背後のやぶを指差した。
「いやだ、帰るもんか。母さんをみつけるまでは帰らない!」
沼の女は首を振る。
そしてそのまま沼の中に若者とともに沈んでいった。
二人が完全に沈んでしまった後、沼には先ほど老夫婦が手にしながら嘆いた、ぼろぼろになった女の衣服が浮かんだ。
ヒラクの耳に、狼に襲われた女の悲鳴が再びよみがえる気がした。
ヒラクはぶるっと体を震わせたが、それでも引き返そうとはせず、沼につながる細い川筋をたどって、さらに山の奥の方に向かった。
沼に浮かんだ女の衣服はすでに消えていた。
むきだしの岩や倒木にはばまれながら、ヒラクは懸命に先を急いだ。
険しい山道は、人の侵入を拒む罠であるかのように、幼い体力を奪っていく。
やがて足が前に出なくなった。
のどが渇き、口の中がからからになった。
母を追う気持ちだけが先へ先へと進んでいき、ヒラクの体を置き去りにして、山道をはいあがっていくようだった。
日も高くなる頃には、すっかり疲れきっていたため、ヒラクは少し休もうと川をそれた。そしてすぐそばの古木の根にはさまるようにして、柔らかなコケの上に身を横たえ、ヒラクはそのまま眠ってしまった。
ヒラクが目を覚ますと、辺りはすっかり暗くなっていた。
ヒラクは一瞬自分がどこにいるかわからなかった。
どこからか狼たちの遠吠えが聞こえる。
恐怖がヒラクを襲った。
沼の女が狼に襲われた場面が脳裏に鮮明に浮かんだ。
ヒラクは、はうようにして木の根の間から抜け出た。
そして、全身で闇の気配をうかがいながら、立ち上がって歩きだした。
ざわざわと木々の葉がこすれあう音がヒラクの不安をかき立てる。
ヒラクはとにかくこの暗闇から逃れたいと思った。
やがて、ヒラクが木立を抜けると、細い川が明るく見えた。
月の光を受けて水面がきらきらと輝いている。
その水面をじっと見ていると、先ほどからずっといたように、ヒラクの視界の中に人影が浮かんだ。
姿を見せたこの川の女は、川の本流の女よりは身なりが粗末だった。
女はヒラクを見て微笑みかけた。
「ここの神さま?」
ヒラクが尋ねても、女はくすくすと笑うだけだった。
「母さんを探しているんだ。お願いだ。どこに行ったのか教えてよ」
女は首をかしげると、水が跳ねる音とともに消えた。
どちらに一歩を踏み出せばいいのか、ヒラクにはもうわからなかった。進むか戻るか、どちらにしても、どこをどう歩いていいのか……すでに戻る方向を見失っていた。
ヒラクは川の縁にひざを落としてうなだれた。
そして、そのまま顔をあげられなくなった。
……何かがいる。
川の女などではない。その種類の者たちは、浮かび上がるようにしてぼうっと、そして次第にはっきりと、それまでもそこにいたかのように姿を見せるのだ。そのことをすでにヒラクは知っている。
今、ヒラクのすぐ前にいるのは、確かな存在感と気配を漂わせるものだ。
けれど人間ではない。
ヒラクはおそるおそる顔をあげた。
そして一瞬呼吸を止めた。
細い川をはさんで向こう側にいたのは、月明かりに青白く浮かび上がる大きな狼だった。その鋭く光る目は、しっかりとヒラクをとらえている。
ヒラクは震えながら、ガチガチと歯を鳴らした。
狼はヒラクをまっすぐみつめ、一歩一歩近づいてくる。
ヒラクは腰が抜けてその場から動けなかった。
狼はヒラクの横にくると、ゆっくりとした動作で伏せた。それは、危害を加える気がないという意思表示のようでもあった。
ヒラクはそっと手をのばしてみた。硬い毛の感触があった。その狼は確かにそこにいる。
―乗りなさい
狼の背に触れたとき、ヒラクは手のひらで狼の意思を感じた。
ヒラクはおそるおそる狼の背にまたがった。
先ほどの川の女が再び現れて指でどこかを示した。それと同時に、狼はヒラクを背に乗せて、女が指差す方に駆けだした。
狼は木々の間を縫うように疾走した。
月に青白く浮かぶ草木が、ヒラクの目に飛び込んでくる。だがそれも一瞬のこと。ヒラクは狼の毛に顔をうずめてしがみついているのが精一杯だった。
(母さん……)
今度はヒラクの意思が狼の背に伝わったようだった。
狼は一瞬足を止め、背中の方をちらりと見た。
―しっかりつかまりなさい
そんな言葉を聞いた気がして、ヒラクはしがみつく腕とひざに力を入れなおした。
やがてヒラクは狼と一体化しているような気分になった。
時間の感覚もなく、ただ疾走する瞬間だけが延々とつながるようだった。
そして瞬間が途絶えると、そこはもうアノイがいう神の国、山の向こうの世界だった。
ヒラクは人声で目を覚ました。
一瞬、自分は夢を見ていたのかと思った。
そこはアノイの人々が猟のときに簡易的に作る狩り小屋だった。三本の長い木の棒を上端で束ねて三脚とし、そこに草や葉、木の皮などを葺いて作った小屋だ。
人声は小屋の外から聞こえた。誰かがすぐそばで話している。
ヒラクは、隙間のあいた入り口から顔を出してみた。声は裏側だ。
ヒラクは小屋からはい出て裏の方に回った。そこにいたのは父イルシカだった。
ヒラクに背を向けて立っている人物は、頭からすっぽりと黒い布をかぶり、全身をおおい隠していて、誰なのかはわからない。
ヒラクは小屋の影からじっと二人の様子を見ていた。
すると突然、イルシカが黒い布をかぶった人物を力強く抱きしめた。
「最後にもう一度、おまえの顔を見せてくれ」
イルシカは、抱きしめた人物がまとう
ヒラクははっきりと見た。
月明かりに浮かぶ黒装束の人物の髪の色は、ヒラクの髪の色と同じ緑色だった。
「母さん!」
ヒラクは我慢できずに後ろからその人物に飛びついた。
驚いて振り返った顔は、まさしく母の顔だった。
「母さん、どこにも行かないで! ずっと、ずっとそばにいてよ! いやだよ……おれを置いていかないで……」
ヒラクは女にしがみついて泣きじゃくる。イルシカはつらそうに目をそむけた。
「ごめんね、ヒラク」
女はしゃがみこみ、手をのばしてヒラクを抱きしめた。
「すべて私が悪いの。私が……。もしもあの時に戻れたら……、出会ったところからやりなおせたら……」
「出会ったのはまちがいじゃねえ」
イルシカは叫び、二人はそのまま黙り込んだ。
どれぐらいの時間が経ったのか、母のぬくもりに安心したヒラクは、黒装束にしがみついたまま、いつのまにか寝入っていた。
「そろそろ行かないと……」
その言葉にイルシカはうなずき、ヒラクを抱き上げた。女は立ち上がると、その目にしっかり焼きつけようとするように、じっとイルシカをみつめた。
「……それじゃ、行くわね」
立ち去ろうとする後ろ姿を、イルシカは、自分の胸の中に引き戻したかった。だが今は、腕の中にはヒラクがいて、手をのばすこともできない。それがイルシカが下した選択の結果なのだ。
それでもイルシカは最後に思いをぶつけるように言った。
「俺は後悔なんてしねえ。何度出会っても、やりなおしても、俺はおまえしか愛さない」
「……残酷な人」
そう言って、振り返った人影は、闇に遠ざかり姿を消した。
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