第7話 ユピ

 朝早く、イルシカとヒラクと少年は、山の向こうのアノイの地をめざした。

 橙色だいだいいろの山肌を踏みしめながら、三人はそれぞれの思いで砂漠を振り返った。


 やがて山の北側に入ると、イルシカは山道を歩き慣れない様子の少年を背負い、黙々と先へ進んだ。

 途中、狩り小屋を作りながら、さらに先へと進んでいく。

 イルシカは夜は裸で眠り、火の勢いが衰えるとすぐ肌で感じて目を覚まし、燃えくさの枝をくべると再び眠りについた。ほとんど睡眠をとっていないイルシカだったが、ヒラクたちに体力の消耗を感じさせることはなかった。


 ヒラクは家まで続く川の流れに誰かの姿を見ることはなかった。

 けれどもまた沼に行けば同じように沼の神の夫婦が見え、川には本流、支流の神がいて、同じように見えるのだろうとヒラクは思った。

 しかし銀色の狼がどこから来たのかはわからない。川や沼の神々とはちがうものだとヒラクは感じた。それでいてまるでちがうというわけでもない。


(目で見える何かと目に見えない何か……)


 そして目で捉えることも感じることもないが、自分の中で大きな存在となっていく。

 プレーナとは一体何か? 

 これまでも自分の中にあった想いが明確な言葉となってヒラクの心に現れた。


(神さまって何?)


 この疑問は、やがてヒラクを運命の奔流へと押し出すことになる。



 アノイの山にやってきた少年は、イルシカとヒラクが住む家に入ると、異臭に思わず顔をしかめた。獣の油の臭いと魚の生臭さが合わさったような臭いだ。

 川魚の皮や二枚に裂いた身、それにゆでたシカの肉が梁から下げられている。

 まったく異なる生活環境で育った少年は、慣れない臭いに気分を悪くしてその場で吐いてしまった。イルシカは少年を小部屋に寝かせた。


 その晩、ヒラクは生まれて初めて小部屋ではなく、隣の部屋で父に寄り添って眠った。



 寝つけない夜だった。


 夜中、ヒラクは家のすぐ前の川に出た。

 しばらくぼんやり川面を眺めていると、いつも体を洗ってくれる女がそこに現れた。川の女は手招きでヒラクを呼ぶ。


「もういいんだ。母さんはもういない。もう洗ってくれなくていい」


 ヒラクがそう言うと、女は首をかしげた。そしてまた手招きでヒラクを呼んだ。

 ヒラクはあきらめたようにため息をつき、ざぶざぶと川の中に入っていった。

 女はいつもと同じように優しくヒラクの体をぬらした。

 ヒラクは泣いていた。泣きながら、女の胸を両こぶしで叩いた。


「なんでだよ! なんで……」


 水面を打ちつけるこぶしで、バシャバシャと水がはねる。それでも川の流れは優しくヒラクの体を包んだ。


 ヒラクが家に戻るとイルシカは大いびきで寝ていた。疲れた様子だった。


 ヒラクは母がまだ小部屋にいるような気がして、入り口をふさぐござをもちあげて中に入った。


 ヒラクは寝ている少年に近づくと、枕元に立ち、じっと顔を見下ろした。

 暗闇の中で見ていると、少年の白い顔が母の顔に見えてくる。

 そしてすべてが悪い夢のように思えた。

 ヒラクは、いつものように母の腕の中にすべりこんで、そのまま眠ってしまいたかった。


 ヒラクはその場に立ち尽くしたままだった。


 やがてヒラクのぬれた前髪をつたって、しずくがぽとりと少年の顔に落ちた。

 驚いて飛び起きた少年は、おびえた声をもらしたが、ずぶぬれで泣いているのがヒラクだとわかると、困ったような顔をして、おずおずと尋ねた。


「なぜ、泣く?」


 それは、ヒラクの母親が用いた言語で、『禁じられた言葉』と呼んでいたものだった。


「……泣いてない」


 ヒラクは同じ言語で答え、少年をにらみつけると、手の甲で涙をぬぐった。

 少年は目をそらして、さらに尋ねた。


「なぜ、ここ、いる?」


「ここは、母さんの部屋だったんだ。母さんと一緒にここで毎日寝ていたんだ」


 そう言いながら、感極まって、ヒラクはわっと泣きだした。少年はおろおろとしながらさらにヒラクに言う。


「お母さん、どこ?」


「いない。もういなくなった。砂の地でいなくなった。おれを置いていった」


「……同じ」


「え?」


「ぼくも、いない、お母さん。砂の地、いなくなった、置いていった」


 その言葉で、ヒラクは砂の地にかすんで消えた赤いドレスを思い出した。

 イルシカに連れられた少年の横顔に、砂をぬぐう涙の線を見たことも。


「泣かないの?」とヒラクが聞くと、


「……泣く、できない」と少年は悲しそうに微笑んだ。


「……じゃ、おれがかわりに泣いてやる。おまえの分まで一緒に泣いてやる」


 そう言って、ヒラクは肩を震わせ嗚咽した。

 少年は心に甘い痛みのようなものを感じた。悲しみの殻を打ち破ってうれしさがこみあげてくる。


 少年はヒラクを抱きしめて、びしょぬれの頭をなでた。自分自身が癒されていくようだった。そして少年は自分に言い聞かせるように、ヒラクの耳元でささやいた。


「これから、ぼくが一緒。ずっと、一緒。さびしくない」


 ヒラクは少年の胸をぬらしながらうなずいた。


 朝になり、ヒラクの姿がないことにあわてたイルシカは、小部屋をのぞいて安堵した。そこには寄り添って眠る二人の子どもの姿があった。


 イルシカは、目を覚ました二人を炉の前に座らせると、少年に向かって言った。言葉は妻の言語なら少しわかることはヒラクからすでに聞いている。


「今日からおまえは俺の息子だ。ヒラクとは兄弟だ。わかったな」


 少年は黙ってうなずいた。

 横でヒラクはにこにこと笑っている。


「それで? おまえ、名前はなんていうんだ?」


「……」


 少年はうつむいた。


「わからないのか?」


「……」


 少年は目を伏せたまま、あいまいにうなずいた。


「名前がないのは厄介だな」


 イルシカはぼりぼりと頭をかいた。


「ユピ」


 ヒラクはそう呼んで少年の腕にしがみついた。

 少年はヒラクに微笑みかけると、顔を上げてイルシカに言った。


「……ぼくの名前、『ユピ』、だめ?」


「ユピ? ふん、まあいいだろう。おまえは今日からユピと名乗れ」


 「ユピ」とはアノイの言葉で「兄」という意味だった。それをそのまま名前にするのはおかしなことだが、イルシカはそんなことにはこだわらない。


 こうしてヒラクとユピとイルシカの三人の生活が始まった。


 ユピ……その名は、この日から、ヒラクにとって何よりも、特別な響きとなった。

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