第2話 運命の子ども

 イルシカは、満月が近づくと、水をくむために山を越える。妻が子を宿してからは、水と一緒に水草のような植物も持ち帰るようになった。

 村人たちは、イルシカは自由に神の国を出入りしているのだとうわさした。相変わらずイルシカは孤立していたが、人々の恐れは畏敬いふの念に近いものに変わっていった。

 ルイカは妊婦の体を気づかい、何とか食事を取らせようとするが、イルシカの妻は夫が山の向こうから運んでくるもの以外は一切口にしようとしなかった。それでも髪の色は以前の美しい緑に戻っていたし、嘔吐おうともすでにおさまっていた。腹も張り出し、子どもは順調に育っている様子だ。


 冬の間も、イルシカは、かんじきを履いて毎日雪を踏み固めて道を作り、満月のたびに山を越えて水を運んだ。

 冬道は大変だろうから手伝おうというペケルの申し出もイルシカは断った。水をくむこと以外の目的で山を越えているようでもあった。その証拠に、イルシカは月が満ちるのをいつも待ちわびていた。妻の部屋にある水がめに、水があろうとなかろうと。           


 やがて春が来て、いよいよ出産の時が来た。


 出産は、本来一間であるアノイの家の真ん中にあるの脇、入り口から見て左側に産床うぶどこを設けて行われる。常にいている火のほかに、産火さんびと呼ばれるものを焚き、お産の床上げをするまで、産婦の食事の煮炊きに利用する。これは、火の祖母神そぼしんにはばかってのことで、お産はけがれたものとされていた。

 イルシカの妻は小部屋から出ようとしないため、そのまま寝床に古いござを敷いて産床にし、はりから負い縄を吊るして産綱とした。     

 この部屋にも小さな炉があり、常に火が焚かれているが、それは寒さに弱い妻がだんをとるためのものであり、火の神などは関係ない。そもそも火の神の助けなど、今まさに子を産もうとしているこの産婦には必要のないものだった。


 アノイの人々は、助産は産婦の守り神である憑き神の力を借りておこなわれるものと信じている。この役目は大巫女である老婆が引き受けた。ルイカの二人の息子もこの老婆が取り上げた。その時と同様に、老婆は嬰児えいじを迎えるための巫歌ふかを歌いながら助産した。


 しかし、イルシカの妻は、巫歌をわずらわしがった。出産の痛みに苦しみながらも、足をばたつかせて、老婆にけりかかろうとする。そしてその歌に負けじと呪文のような不思議な言葉を、もだえつ、あえぎつ、繰り返す。

 ルイカは汗だくになって、暴れ狂う産婦を後ろから必死に押さえつけた。


 すさまじい出産だった。


 その時、イルシカは外にいた。

 お産の最中はたとえ夫であっても、家の外に出されてしまうのだ。


 折りしもその夜は満月だった。


 イルシカは、妻が激痛に苦しむ声をどこか遠くに聞きながら、月をじっと見上げていた。不思議な呪文も今はもう、獣のうめきと変わらない。それでもイルシカの妻は最後の力をふりしぼって目を見開き、天に向かって悲痛な声で叫んだ。


……!」


 その叫び声と同時に赤ん坊の産声が満月を撃ちぬいた。


 イルシカは家の中にかけこんだ。


 イルシカの妻は血まみれの我が子を老婆の手から奪うと、水がめの水に赤ん坊を浸し、弱りきった声で不思議な言葉をくり返した。


 そこに飛び込んできたイルシカが、水の中から赤ん坊を引き上げた。

 そして一瞬、我が目を疑い、言葉を失った。


 イルシカの妻は立ち上がれないまま、必死に手をのばして高みの我が子を取り返そうとしたが、イルシカは赤ん坊を抱きかかえたまま、妻を見下ろしてきっぱりと言った。


「この子は俺の息子だ」


 イルシカの妻は狂ったようにわめいたが、もはや精根尽き果てて、その場に伏したまま気を失った。

 ルイカはイルシカの妻を介抱しながら不安げにイルシカを見上げた。

 老婆はイルシカの決然とした様子に何も言えずに黙したままだ。


 イルシカは赤ん坊を両手で高く持ち上げて叫んだ。


「おまえは俺の息子だ! 誰が何と言おうとな」


 母親と同じ緑の髪をした赤ん坊は「ヒラク」と名づけられた。


 運命の子どもの誕生だった。

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