神ひらく物語ーアノイ編ー

銀波蒼

第1話 神の国から戻った男

 誰もが、自分が今いる場所を、世界の中心と思っている。

 北方の少数民族、アノイ族もまたそうだった。


 北の大陸のさらに北には高い山が連なっている。大小さまざまの川は山間を縫うように流れ、山の向こうの海に通じていた。

 そのうちの一つの川沿いにアノイ族の集落がある。

 彼らは遠い北の海までクジラを捕りに出ることはあっても、すぐ近くにある南の山脈を越えて猟をするようなことはない。今いる住みかが世界のすべてとアノイ族は思っている。自然の恵みは神々の恩恵であり、その中で自分たちは生かされているというのがアノイの考え方だった。


 アノイの人々は山の向こうは神の国であると信じていた。そこは人間が決して足を踏み入れてはならない場所である。それがなぜかと問われれば、老人たちは決まって同じことを言う。


「今ここにあるすべてのものに満足して感謝しなさい。神々の怒り一つですべては一瞬でなくなってしまうのだから」


 そうして小さな子どもたちに畏怖いふの念を植えつける。山を越えるなどと考えることもはばかられるように。


 アノイにとって生活に関わるあらゆるものが神だった。火の神、水の神、家の神、村の神、森の木々の神に狩猟の神……。数え上げればきりがない。動物も神の化身とされていた。


 たとえばクマは山に住む神と呼ばれている。

 そのため、おさの息子イルシカが山に狩りに行ったまま戻ってこなかったときには、血気盛んな若者は勇猛な神のしもべとなって神の国へ行ったのだろう、と信じられた。生身の人間であるイルシカが、まもなく訪れた厳しい冬を山の奥で乗り切れるはずがない。雪深い山中にあっては、山の神であるクマでさえ、冬の眠りに入るのだ。だからこそ、再び春がきてイルシカが戻ってきたときの村人の驚きは、恐怖に近いものだった。神の国から戻ってきた者など誰一人としていないのだ。


 しかもイルシカは一人ではなかった。

 アノイの世界にはいない、見たこともない容貌の女を背負っていた。


 女は、ひんやりとなめらかな雪のように白いはだだった。アノイは女や子どもでさえも、寒さに耐えられる強靭きょうじん皮膚ひふをもち、肌の色は褐色かっしょくに近かった。体毛も多くまゆも濃い。鼻のつけ根が出ているため、目の位置が沈んで見える。眉と目の間も狭いので、目のあたりは影のようになっている。それらの影のような目が、女をじろじろと眺めた。


 女が着ているすその長い白い衣服も彼らには奇妙に見えた。アノイの女たちも似たような一つなぎの服を着ていたが、木の皮の繊維で織られているため、その女が着ているもののようなしなやかさはない。女の肩にかけられた一重ひとえごろもはイルシカのもので、背中にあるフクロウの目のような文様もんようが周囲をにらみつけていた。


 それより何より彼らの目を引いたのは、女の髪の色だった。沢の岩場に生えるコケのように、みずみずしく鮮やかな緑色だ。


「おまえはだれだ! 何者だ!」


 遠巻きに見る人々をかきわけて前に進み出たのは、イルシカの父であり、村のおさでもあるサマイクルだった。

 サマイクルはイルシカの前に立ちはだかると、威嚇いかくするようにこんぼうを振り上げた。


 イルシカは足を止め、鋭(するど)くサマイクルをにらみつけた。


「ずいぶんな出迎えじゃねえか。何者だと? 自分の息子も忘れたか? 少しの間にずいぶんもうろくしたもんだな」


 その声はイルシカそのものであり、人々はどよめいた。性悪キツネかカワウソが人を化かしているわけでもないらしい。サマイクルはこん棒をおろしたが、それでも仁王立におうだちのまま、イルシカの歩みをさまたげた。


「その女は何だ? 神の国から連れてきたのか?」


 父の言葉をイルシカは鼻で笑う。


「神の国だと? そんなもんありゃしねえ。この女は山の向こうから連れてきたのさ」


 サマイクルは怪訝けげんな顔をする。


「山の向こうだと?」


「山の向こうは神の国だと思うか?」


「当然だ」


「そうじゃねえ」


 イルシカの言葉に周囲の者たちは驚き、ざわめいた。


「山の向こうには、こことはまったくちがう土地が広がっている。草木も何もねえ、砂の大地が果てしなく広がっているんだ」


 イルシカは得意げにそう言って、村人たちの顔をぐるりと見た。誰もが困惑顔だった。だが、サマイクルはまるで相手にしない。


「草木も何もない土地で人が生きられるものか。その女は人間か? おまえは一体どこにいた? 神の国を追われたか」


「けっ! おやじはいつもそうだ。俺の話などまともに取り合おうとしねえ。あんたはいつでも自分が一番で正しいんだよな」


 イルシカはサマイクルとぎろりとにらみつけると、たたみかけるように言葉を続けた。


「とにかく、俺は嫁をもらったんだ。今日から独立だ。家には戻らねえからな」


「……嫁? 嫁だと? そんな得体の知れない女と? そんなことが許されると思うか」


 サマイクルはイルシカをにらみ返すと、まるでけがらわしいものでも見るかのような目で、イルシカが背負う女を見た。


「もしどうしてもその女と一緒になるというのなら、家はおろかこの村からも出ていくがいい。同じ川筋かわすじに住むことも、この山の狩場かりばりょうをすることも許さん」


 サマイクルが言うと、イルシカは挑戦的に笑った。


「上等だ。俺を追い出すいい口実ができてよかったじゃねえか」


 こうしてイルシカは、アノイの集落のある川筋とは別の川のそばで暮らすことになった。


 もともと集団の生活にはなじまず、勝手気ままに過ごしてきたイルシカだ。共同の場から追放されることなど、どうということもない。むしろ解放感すら覚えていた。

 痛手を感じたのは村人たちの方だ。イルシカは狩猟の名人で、仕掛けた罠には必ず獲物がかかる。そのため、いつもイルシカを中心に猟の集団ができた。


 イルシカは、人に従うことはできなくても、人を従わせることはできる。獣性じゅうせいびた瞳は強い光を宿し、人のみならず、野生の動物さえ、一にらみで威圧した。その荒ぶる魂を怖れながらも、村の誰もがイルシカが偉大な長《おさ)になることを期待した。


 しかし、それは、イルシカが行方知れずになる前のことだ。

 いまやイルシカは、妻とした女と同じく得体えたいの知れない存在で、悪神にかれているのだとうわさする者さえいた。


 それでも、禁忌(きんき)とされるイルシカの元を訪れる者もいた。

 イルシカの姉ルイカだ。


 ルイカは、山菜や木の実をりに出かけると、イルシカに分けにやってくる。

 ルイカの夫であるペケルは、イルシカの猟団に加わっていたこともあり、イルシカの猟の腕を誰よりも買っていた。今でもペケルは、次の長はイルシカしかいないと思っている。


 ある冬、村の子どもが川で溺れかけたとき、すぐさま冷たい水に飛び込んで助けたのは、当時まだ幼かったイルシカだった。その時すでに青年だったペケルは、その場に一緒にいたにも関わらず、何もできなかった。ペケルには、イルシカの無謀さは、勇敢さと思えた。イルシカに対する羨望せんぼうにも似た敬意は今も変わらない。


 ペケルの母である老婆は、アノイの大巫女おおみことして知られ、その巫術ふじゅつには現長サマイクルも一目置いていた。

 本来女子はけがれた者であるとされ、神を祭ることが許されないが、巫女として神と人との媒介ばいかいとなり託宣たくせんすることはある。これまで二度、老婆の神がかり状態のときの予言どおりに天災と疫病えきびょうが起こったことがあった。そして三度目の予言は、行方知れずのイルシカを案じるルイカの前でなされた。


「……神の国より戻りし男により……破滅と創造……災いと希望がもたらされる……」


 もちろんこの意味は老婆にもわからない。神がかりの状態で述べた言葉を本人はまるで記憶しない。けれども、これを聞いたルイカは、弟が無事に戻ることを確信した。「災い」の意味など、どうでもよかった。果たしてその言葉通りにイルシカは戻ってきたのだ。


 ルイカとイルシカは幼い頃から仲のよい姉弟だった。村の秩序を守ろうとする父とそれを乱す弟との間でもめごとは絶えず、母は父をなだめ、姉は弟をかばう役割だった。母親はただおとなしく父親の言うことに従うばかりだったので、イルシカには味方となる自分の存在が必要だ、とルイカは思っていた。ほうっておくと何をしでかすかわからない弟のことをルイカは常に心配していた。 


 イルシカが山から戻ってきたことをルイカは心から喜んだ。ただし、イルシカが迎えた妻のことは、あまりよくは思っていない。イルシカが村を追放された直接の原因はこの妻の存在にある。それに加えて、あいさつはおろか、姿さえ見せようとしないこの妻を、ルイカは奇妙に感じていたし、異民族ということもあり、薄気味悪いとすら思っていた。


「あいかわらずせっているの?」


 イルシカを訪ねたルイカは、家の中心にあるをはさんで弟の前に座りながら、ござで入り口をふさいだ小部屋をちらりと見た。

 姿を見せないイルシカの妻は、すぐとなりの部屋で休んでいる。

 本来、アノイの家は、山から切り出した木を組み立て、草木のつるで縛って骨組みを作り、かやあしささなどで壁と屋根をふきあげていく一部屋だけの造りだが、イルシカの家は二部屋ある。この家ができるまで、細木を支えに草や葉でおおっただけの小屋に仮住まいしていたが、一部屋で共に暮らすことはむずかしいと感じたイルシカは、もう一つの部屋を作った。


 イルシカが戻ってから二ヶ月は経つ。それでもまだルイカは、弟の妻と言葉をかわしたことはない。もっとも、たとえ何か言葉をかわしたとしても、互いの言語が理解できるわけもない。イルシカも妻の言葉がすべてわかるわけではなく、かんたんな会話しかできない。それでも、自分をののしる言葉は、意味がわからなくても伝わるものだ。

 仮小屋かりごやの生活で、妻は毎晩、夫をなじった。


「けだもの! それ以上近よらないで。汚らわしい。おまえのような野蛮な者に指一本触れられたくない」


 イルシカはカッとなり、思わず殴ったこともある。そして失神した妻を、哀れみ、いとおしみ、抱きしめる。殴られなくても、抱きしめられることで、妻は屈辱を味わった。それが相手を苦しめるもっとも効果的な方法と知っていたから、なじられるたびにイルシカは、妻を強く抱きしめた。やがて二人は疲れきり、言葉もかわさなくなった。

 そして家ができあがった今は、妻は小部屋にせったまま、夫の侵入におびえて暮らすばかりだ。


「最近はメシも食わねえ。無理やり口に入れたら吐きやがる」


 そう言いながらもイルシカは、姉の持ってきた木いちごを妻のために残した。

 ルイカもとなりの部屋が気になった。いつもは気配すら感じさせないイルシカの妻の嘔吐おうとする様子がうかがえる。


「ちょっと様子がへんね」


 ルイカはそっとござを持ち上げて中をのぞいた。部屋にいたイルシカの妻は口元を押さえたまま顔を上げ、おびえた目でルイカを見た。ガラスのように透き通る琥珀こはく色の瞳は作り物のようだ。

 それより何よりルイカが気になったのは、その髪の色の変化だった。二ヶ月前、たしかにつややかだった緑の髪は、ところどころ赤茶けて、枯れ草のようになっている。


「髪が……。これは一体どういうことなの?」


「水が足りなくなったんだ」


 ルイカの背後にイルシカが立った。


「最近は、いつも以上に水を飲むからよ、あっというまに減っちまった」


 ルイカは部屋の中にある水がめがひっくりかえっていることに気がついた。


「心配いらねえよ。もうすぐ満月だろう? 水をくみにいくさ」


 ルイカにはイルシカの言うことがさっぱりわからない。


「水ならここにもあるじゃない」


「ここの水なんて飲まねえよ。こいつが飲む水は、山の向こうにあるんだ」


「山の向こう? 神の国に足を踏み入れるというの?」


「何度言えばわかるんだよ。山の向こうは砂ばかりさ」


「砂ばかり? そんなところに水をくみに?」


 ルイカは混乱した。

 そんな姉の様子をおもしろがるようにイルシカはにやりと笑う。


「満月には手に入るのさ」


 ルイカはまったく会話にもならないことにくたびれて、そのまま少しだまりこんだ。そして帰り際にそっけなく、言いそびれたことを口にした。


「あの人、身ごもっているわよ」


 それを聞いたイルシカは、ぽかんと口を開けたまま、姉の背中を見送った。

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