第3話 父の世界と母の世界

 ヒラクの緑の髪は明らかに母の特徴を受け継いだものだったが、肌の色は父の褐色かっしょくも混じったような色で、母のように抜けるほど白いというわけではなかった。瞳の色も母の薄い琥珀こはく色よりも濃く、赤茶色に近かった。母親似ではあったが、端整たんせいな顔立ちでどこかさびしげな印象の母とはちがい、ヒラクは荒々しくも力強い生命力に満ちた野生的な顔つきをしている。あごの線は細く、顔の骨格は母親と同じだったが、引きしまった唇や力強さを感じさせる眉はイルシカ似だ。


 ヒラクは母の乳を飲み、呪文のような子守唄で眠りながら、順調に育った。

 ヒラクの母は片時も我が子を離そうとせず、父親であるイルシカに抱かせようともしなかった。


 しかし、母親の乳房だけを見ていた赤ん坊の視野も徐々に開けていく。はいまわるようにもなれば、小部屋の外の世界を知る。


 そしてヒラクは父親をみつけた。


 母以外の初めての他者だった。


 ヒラクは父を恐れはしなかった。本能的に知っていたのだ。誰より自分を慈しむ、大きな手を、そのぬくもりを。


 立って歩けるようになり、外の世界に飛び出すと、ヒラクは父の後を追い、どこまでもついていこうとした。怖いもの知らずのところは、父イルシカの気質を受けついだのだろう。ヒラクは、ヘビ穴をみつければ手をつっこみ、高い場所では必ず下を見たがるといった子どもで、目を離すと何をしでかすかわからないようなところがあった。好奇心旺盛なヒラクに、自然は毎日惜しみなく、冒険と発見を与えた。


 それでもヒラクの眠りは母の腕の中にあった。そのぬくもりを感じながら、ヒラクは夜の闇の中で安心して目を閉じた。


 こうしてヒラクは、父と母、二つの世界で育った。


 ヒラクは、父と母の住む世界はまるでちがうものだということを肌で感じて知っていた。それは言葉のちがい以上にへだたりを感じさせるものだった。


 まず、体を清めることを教えたのは母だった。ヒラクは母の小部屋に入るため、川の水で体を洗う。そうして小部屋に入っても、水がめの水を体にかけるまでは抱きしめてもらえない。

 寝る前には必ず黄褐色おうかっしょくの粉を練って固めたようなものに火がつけられ、部屋の中は、木の青臭さと甘い柑橘かんきつの香りが混ざったような不思議なにおいの煙が充満する。もやのような煙の中で、ヒラクは、水がめの水と同じものが入った銀の器の前で手を合わせる。母はひざをつき、足を折って正座して、両こぶしで太ももの上を叩いてリズムをとりながら同じ言葉を繰り返す。


「偉大なるプレーナよ

 万物を満たす大いなるものよ

 命の源、還元の主

 永久に一なるものよ

 すべてを捧げん

 偉大なるプレーナ

 我が命は共にあり

 大いなる一つのものとなり……」


 ももを打つこぶしは次第に力強さを増し、リズムは加速し、上体を激しく前後に揺さぶって母は声を張り上げる。

 ヒラクは横目で母を見る。

 母の乱れた髪が汗で顔にはりついて、その表情は見えないが、鬼気迫るものがある。いつもおとなしい母はそこにいない。何か見えない力に動かされ、あやつられているようにも見える。

 ヒラクは横で手を合わせ、心の中で願った。


(もとのお母さんに戻して)


 誰に祈っていいかはわからない。そもそも祈りというものが何であるかがわからない。ヒラクにとって毎日くり返されるこの行為は、寝る前の習慣にすぎず、体を洗うことも含めて単なる就寝儀礼でしかなかった。求めていたのは、やさしく自分を抱きしめる母のぬくもりと安らかな眠りだけだった。


 母が我が子を受け入れるために水の清めを必要とするならば、父は太陽と風で我が子を清めた。


 朝、目を覚ましたヒラクが小部屋を出ると、まずイルシカは顔をしかめる。


「妙なにおいがしやがる」


 母が焚き上げる香のにおいだった。

 外に出て存分に遊んだヒラクを抱きしめてイルシカは初めて笑う。


「おまえには太陽と土のにおいがよく似合う。おまえの髪は風に揺れる緑の草だ」


 イルシカはそう言ってヒラクの頭をなでた。


 ある雨の日、太陽の光を浴びることができないヒラクは、の火をじっとみつめながらイルシカに尋ねた。


「火の神は太陽と仲いいの? 太陽のにおいはするの?」


 ヒラクはもう四歳で、この頃になると父の言語と母の言語を区別して話せるようになっていた。


「さあな。別に太陽のにおいはしねえがな」


 イルシカは笑って答えた。


「じゃあ火の神とプレーナは仲いいの?」


 ヒラクは無邪気に尋ねるが、イルシカはさっと表情をこわばらせた。


「プレーナだと?」


「うん。母さんがいつも言ってるよ。プレーナはえらい神さまなんだって。おれを幸せにしてくれるんだって」


「ヒラク!」


 イルシカは声を荒げて、ヒラクの頭の上に手をのばした。

 ヒラクは身を固くして、思わず首をすくめたが、その手はヒラクの頭の上にそっとやさしく置かれた。


「いいか、幸せにしてくれる神さまなんていやしねえ。雨は恵みだが川をあふれさす。川があふれりゃおぼれもする。獣も食うか食われるかだ。神々は俺たちを生かしもするが殺しもする」


 ヒラクはきょとんとした顔で父を見た。


 眠る前、ヒラクは同じようなことを母にも尋ねたことがある。


「ねえ母さん、プレーナは水なの?」


「ただの水じゃないわ。あらゆるものに行き渡り、すべてを満たすものなのよ」


「水の神さま?」


「そうね、偉大な神さまよ」


「川の神と同じようなもの?」


「同じじゃないわ。プレーナはプレーナ。唯一無二の偉大なるお方よ。いい? ヒラク。ここに神はいないの。全部にせものなの。大いなる神は一つでしかないの。それがプレーナよ。ここの人たちには理解できないわ。選ばれた者にしかプレーナのことはわからない」


 母はヒラクを哀れむようにじっと見て、ほほに優しく手をあてた。


「……かわいそうな子。あなたはこんなところにいるような子ではないのに。あなたは選ばれた者なのよ」


「選ばれた者?」


「そう、生まれながらプレーナに祝福された子よ。還元の主プレーナと一つになることが許された子なの。私と同じくね」


 ヒラクにはさっぱり意味がわからない。


「さあ、もう眠りなさい。あなたにもいつかわかるときが来るわ。偉大なるプレーナよ。目覚めの時には祝福を」


 母は器の水に手を合わせた。ヒラクも横で同じように手を合わせる。そうすると母が喜ぶからだ。ヒラクには祈りも神もわからない。ただ、父が気に入ることと母が喜ぶこととの区別をつけることを覚えていった。


 それでも父と母、二つの世界の溝はどんどん広がって、二つをつなぐ綱渡りの綱は、ヒラクを真ん中にとうとうちぎれようとしていた。


 決定的な出来事は、山で父とはぐれたヒラクが無事に戻ってきた日に起きた。


             


 

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