第3話 ♪山里のキーノート-ミヤマオダマキと瑠璃イワナ

――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ――



 留守番

 ここは相南桜台のギャラリーカフェ「さきわひ」である。時神の命を受けて、時間を旅する暦人は、その託宣によって目的の時代にタイムスリップをする。この物語のメインキャラクターのひとりである大学生の不二夏夫ふじなつおも、何度もその託宣を受けて、過去へとタイムスリップをした身である。


 彼は、このカフェギャラリーの店主にして、暦人御師こよみびとおんしである山崎凪彦やまさきなぎひこに店の留守番を頼まれたため、厨房内で椅子に座り、雑誌を読んでいた。


 ちなみに暦人御師は過去に伊勢神宮の御厨みくりや地域だった場所に鎮座するタイムゲートを持つ神社の案内役にして、暦人の統括役でもある。


 同じく暦人でこの店を手伝っている山崎の婚約者、明治美瑠めいじみるも今日は一緒に出かけている。


 留守番の身の夏夫がさっきから気になっているのは、入口付近で口を真一文字に結んで、一点を凝視している女性のことである。朱色のキュロットと左前の白いカットソーで身を包んだ見た目四十歳手前の女性。髪は長く、少々きつい白粉おしろいとビビッドなべにをさし、足下に置いたトートバッグからはさかきの葉が出ている。


 ただ無言で、席に座ったままでいっこうに注文もしない。山崎が水を出した気配もない。どうしたら良いものか、対処に困っていた。


『あの服の色合い。遠目に見たら巫女さんにも見えるなあ……』

 彼は心中呟いた。


 その瞬間、紅白に身をつつんだその女性は、直線を描くように、夏夫の方に向きを変えると、

「おまえ、私が見えるのか」と訊ねてきた。


 思いもよらぬ相手から不意に話しかけられて、夏夫は、「あわわ」とバランスを崩して、のけぞるように椅子から落ちた。


『ドン』と鈍い音が店中に響き渡る。


「ぃてー」

 夏夫は、おしりをなでるように立ち上がると、

「随分そこで、じっとしていますよね」と仕方なく、話しかけてきた相手に言葉をかける。

 女性は、「質問に答えろ」と横柄な口調で夏夫をまくし立てた。

「見えているから、こうして話しているんでしょう」と頭をかく夏夫。彼は内心『やっかいなのと関わっちゃったな』と感じていた。


「おまえ何者だ」と会話にならない質問がまた女性から来る。

 その横柄さから、『感じの悪いおばさんだ』と不快な気分になる。


「何者だって、見ての通り留守番ですよ」


 更に言葉を交わすごとに、夏夫は、『妙にからんでくるおばさんだ』と怪訝な顔をする。

「留守番が……。なぜ私のことが見えるのだ」

 話が少々入り組んでいる。いや、話が噛み合っていない。質問に答えていない夏夫と、返答を理解する気のないこの女性の変な押し問答になっているのだ。二人の言葉の端々に微妙な温度差があるのも分かる。


「見ていたのは謝りますよ。でもさ、ただ何の注文もしないで、ずっと座っていたら気になるでしょう」と当たり前の返答をする。


 すると女性は、

「そうではない。人間のおまえになぜ私が見えるか? と訊いているんだ」と言う。

 互いに対峙しながら、不思議な時間が店内には流れている。夏夫にも初めての感覚だ。どこかタイムスリップしたときと同じ香り、いや微妙な時間の揺れを感じている。


 後方の柱時計は不思議なことに振り子が動いているのに、針は動いていない。やはりなにか時神の力を感じる気配である。

 静寂を裂くように、店のドアが開き、いつものように鳴子が「カラン」と鳴る。


 何も知らない晴海が、

「おじゃま-」と入って来た。

 晴海は女子大生。夏夫の恋人である。カレンダーガールと言われる教会のタイムゲートを使う暦人だ。世襲制で、彼女は母親の葉織からその役目を受け継いでいる。


 蛇と蛙のようににらみ合う夏夫と女性を見て、まん丸に開いた瞳で、晴海は人差し指を向けながら、夏夫に、

「誰、このおばさん?」と問う。

 人を指さして、彼女はよく上司にあたるシスターから怒られている。


 指を指された女性は、怒り心頭で、

「無礼者! ゆびを指すな」と言って、晴海をキッと睨んだ。


 その台詞に心当たりがあるようで、晴海は、

「なに? このおばさん、シスター摩理朱まりあと同じこと言っているよ」と言って、カラカラと笑った。


「おまえ、シスター摩理朱を知っているのか?」と女性。そう言いながらも、考えを構築し直して、「それ以前に、おまえも私が見えているのだな」と言い直した。

 晴海は、夏夫の方をじっと睨むと、

「また変な人を過去から呼び寄せた?」と晴海は眉をしかめて、怪訝な表情を浮かべている。


 夏夫は身に覚えのない濡れ衣を否定すべく横に首を振った後、大きくバツの字を手で作り頭上に置く。

 そして「冗談。僕は何も知らないよ」と肩をすくめた。


 二人が、顔を見合わせて、ため息をつくと、オーディオラックに積んであった雑誌の束がバラバラと床に落ちる。それと同時に柱時計が「ボーン」と鐘を鳴らした。


 晴海は落ちた本を拾いに向かうと、その女性は、

「触るな!」と彼女の足を止める。

「なによ。おばさん! 横柄にも程がある」と湯気が出るほどの怒りの晴海だ。

 その女性は冷静に雑誌を目視しながら、

「メッセージだ」とだけ呟いた。


 観光雑誌。

 落ちてきた雑誌は、アウトドア系のものだった。

 その女性は雑誌を拾い上げると、開いている頁は「扇沢おうぎさわ水系の瑠璃るりイワナを懐かしむ」とある。


「おまえはこの記事を知っているか?」と女性が訊ねてきた。

 夏夫は、「その記事内容は知らないけど、三重県宮川支流の扇沢水系は知っています。合流手前の下流で扇川になる扇沢と弁天沢、神明沢、雪の沢とその小さな支流で構成されたハイキングコースと林道の奥にある水源林になっている沢です。母の実家の方ですね」と答えた。


「読め!」

 相変わらずぞんざいな口調で命令をする女性。

 差し出されたその記事に、夏夫は黙読を始めた。


『筆者が訪れた三叉路谷戸さんさろやとは、その名の通りかつて弁天沢、神明沢、雪の沢が合流する小さな平地、谷戸だった。現在、雪の沢は枯れた沢となり、雨の降ったときだけ用水路のように水が流れ込む。三叉路谷戸に残る廃墟と化した入漁料受付小屋とイワナ釣り場の看板。それはかつて、この沢がイワナの沢山生息する沢だったことを物語る。この沢のイワナは、通称「瑠璃るりイワナ」と言われた特別な固有種だった。自然の障壁の中で独自に進化の形態を辿った魚たちだった。その美しい体色の青は、瑠璃色に近いものだ。人工護岸が流行りだした一九七〇年代後半から一九八〇年代に、この水系も多分に漏れず、その対象となった。ハイキングコースで足場が良くなったことから、更なる観光収入を考えた地元の業者の開発が認められたからである。現在では、かつての入漁受付小屋の後に、大型バスやマイカーのための駐車場が整備された。以前湿地だったその場所は、大きなアスファルトの広場と化した。水生植物や水生昆虫も住処を失われていった。かつて見られた山葵田わさびだ、養魚場の姿はない。秋には下湖からの遡上マスで水面が埋め尽くされていた。今はイワナはおろか、ヤマメ、アマゴ、ヒメマス、いやドジョウやメダカすら住まない無機質な水辺になっている。この沢にマスたちが戻る日は来るのだろうか』


 読み終えると、夏夫はふっと記者名を見た。「夏見粟斗なつみあわと」とクレジットされた名前。「船橋御厨の夏見さんだ」と呟く。


 すると今まで険しい顔をしていたその女性は、優しい笑顔を夏夫に向けると、「正解じゃ。行って参れ。私は時巫女、どの時代にいても私の目が光っていることを忘れるでないぞ」と言って、お榊の枝と大幣おおぬさを二つ一緒に夏夫に向けて振った。


 瞬時にして、時巫女と夏夫は、晴海の視界から消えた。晴海はこちらの世界でおおよそ一分間のお留守番を引き受けるハメになった。


 三叉路谷戸

「やあ、いらっしゃい」

 すとんと落ちた夏夫の前にはサングラス、いや正確には偏光グラスを掛けた四十代の男性が立っていた。


「夏見さん?」と夏夫。

 彼は笑顔で、「覚えていてくれて光栄だね」と笑う。そして「多霧たぎり時巫女ときみこ。あのおばさんに、一杯食わされたね」と言った。


「あのおばさんが時巫女なんですか?」

 夏夫は驚いた。

「もっと普遍的な存在かと思ったら、意外に近所の口うるさいおばさんみたいだった」

 粟斗はその言葉が気に入ったようで、ニヤリとした。


「ありゃ、時巫女って顔じゃないよね。ギリシア神話のアマゾネスだ」


 そう言った粟斗の頭に、なぜか空からひょうあられが振ってきて、彼のキャップ帽にあたった。

『ゴン!』


「いてえな」


 彼は空を見上げると、再びニヤリと笑い、「ばあか」と言い放った。まるで子どもの喧嘩だ。

 すると今度はこぶし大のあられがドスドスと粟斗めがけて降ってきた。それを小刻みにタップダンスを踊るかのごとく避ける粟斗。


 夏夫は懐かしのコント劇場を見ているようだった。

「ハルちゃんとシスター摩理朱みたい」と笑う。


 お遊びが済んだところで、粟斗の顔は真面目モード、表情を切り替えた。

「ここは三重県の山奥、あの遙か彼方に見える山の向こう側は伊賀の郷だ」

 粟斗の言葉に、

「時間だけじゃなく、空間も離れた場所に飛んだんだ」と夏夫は感慨深く返す。


 その言葉に粟斗は、

「正確には時巫女のおばさんに飛ばされたと言うべきだ」と軽く訂正する。

「今日は釣りをやって帰るんだけど、まずはあの小屋で入漁券を買ってこないといけない」と夏夫に言う。


「渓流釣りはやったことはあるかい?」

 粟斗の訊ねに、「いいえ」と夏夫は答える。

「前日入りを頼まれていたので、昨日のうちに君の分の竿と仕掛けは、あのおばさんに言われているので用意してあるよ」

 粟斗がそう言うと彼の頭に、飛んできた一匹のカブトムシが「ゴンッ」とぶつかった。

「いてえ」

 おそらく「あられおばさん」という愛称が気に入らなかったのだろう。


「人使いが荒い上に短気で乱暴だ。どっか別の時代に行っていてくれないかな? あのおばさん」


 夏夫の分の釣り竿を用意していたということは、時巫女は最初から夏夫をここに送るつもりで、あの店内に座っていたのだということを悟った。

 粟斗は竿と仕掛けの入ったバケツを夏夫に渡すと、「そろそろ、もう一人到着の予定だ」と笑った。


 そこにストンと下りてきたのは、国際的な賞を受賞したピアニストの角川栄華かどかわえいかである。彼女もまた時を超える暦人。しかも東京のど真ん中、東京タワーのお膝元、飯倉御厨いいくらみくりやの暦人御師の跡継ぎである。そして「さきわひ」や「ひなぎく」と並ぶ、暦人御師の経営する講元宿兼、洋菓子店「モントル」の副社長でもある。


「いらっしゃい」と粟斗と夏夫は声をそろえた。

 栄華はきょろきょろと辺りを見回して、不思議そうである。

「夏見さん、夏夫くん」

 聞き慣れない「夏見さん」という呼び名に、

「オレも粟斗で良い」と下の名前で呼ぶことをリクエストする。

「じゃあ粟斗さん」

 言い直してから栄華が続ける。

「さっき美瑠ちゃんから電話があって、動きやすい格好に着替えておいて、って言われたから着替えたんですけど。出かけようと、玄関先にいた時に突然ここに移動してきました……」


 粟斗はその言葉を聞くと再びニヤリと笑う。

「明治さんはおばさんの伝書鳩ってわけか。まあ、正確には山崎くんの方に思惑がありそうだな」


 粟斗は山崎と美瑠が時巫女に協力していると考えたようである。

「オレはあなたの大伯父、文吾ぶんごさんに世話になった義理があってね。あんたを一人前の暦人御師にしなくてはいけない。造り酒屋の思川乙女おもいがわおとめさんと一緒に協力していくから」と前置きを述べる。それで演奏会のあとのパーティーでわざわざ思川乙女と一緒に自己紹介をしてくれたのか、と納得の栄華。


「まあ、大伯父と仲良かったんですね」と嬉しそうな栄華。

 そして夏夫の方を向くと、

「オレは山崎くんと違って仕事が早いので有名だ。サポートしっかり頼むぜ」と笑った。


 夏夫は緊張しながらも、「はい」とだけ答える。

「とりあえず、おばさん名義の4WDがあるので、その車内で話そう。バケツはそのままで結構」と粟斗。


 彼が説明した車は小屋の横のぬかるんだ駐車場に止まっていた。所々は背丈ほどの雑草が伸びている駐車場である。そこに停められた車に三人は入る。助手席に夏夫、後部座席に栄華である。


 粟斗は地図をダッシュボードから取り出すと、二人の前で広げて見せた。


「今、我々が居るのが、一九八〇年代中頃の三叉路谷戸さんさろやどだ。その名の通り、この頃は地名と地形が一致している。右から弁天沢、神明沢、雪の沢の三つの沢が流れ込む合流点だ。そこに堆積して出来上がった土壌が小さな平地を造っている。つまり文字通りの谷戸だ。この上の沢には、神明沢と天神沢が合流する池の谷戸がある。この魚留めの滝が造った滝壺の溜まりを池と言うようだ。今日は釣った魚をその滝の上、上流の地点で食べるというのが仕事だ」


 手短に説明を終えた粟斗だが、夏夫と栄華は怪訝そうな顔。正確には、「???」の連続とでも言っておこう。


「食べるのが仕事?」

 人差し指をあごに当て栄華は首を傾げている。


「はい。一つよろしいでしょうか?」

 軽く手を挙げて発言権を求める栄華。


「何でしょう?」と粟斗。

「私たち、わざわざタイムスリップをして、一九八〇年代という昔まで来て、私たちの時代でも出来そうな釣った魚を料理して食べる。なぜそれが今日の仕事なのでしょう?」


 粟斗は謎めきながら、曖昧に微笑むと、無言で車を降りた。答えになっていない粟斗の行動に栄華は苦虫をかみつぶした顔だ。


 バタンと車のドアを閉めると、彼は入漁券を販売する小屋へと向かった。

 その後ろ姿を眺めながら、質問をはぐらかされた栄華と夏夫は、自然と彼の後ろについて行く。


 小屋の中には農家のおばさんらしき人がほっかぶりで入漁券を販売していた。彼女は顔を少し覆っているためよく分からないが、夏夫は、つい最近、どこかで会ったような気がしていた。だが思い出せなかった。


 扇沢水系漁業協同組合と書かれたその入漁券を粟斗は、夏夫と栄華に渡す。

「首からぶら下げておいて」

 夏見の言葉に二人は名札のように首から下げることした。ボードウォークから続く木の橋が架かる弁天沢を渡り、三人は無言で神明沢の横の野道を歩き始める。


「まあ、綺麗なお花」と栄華は道ばたにうつむき加減で咲いている花を見つけた。

「ああ、ミヤマオダマキだね」と粟斗。そして「摘んではいけないよ。絶滅危惧種だから」と加えた。

「そうなのね」と花をなでる栄華。

 しばらく行ったところで、急に粟斗は笑顔で、

「栄華さんは、釣りも料理もしなくて良いから」と言う。


「は?」と疑問にますますの磨きがかかる栄華。


 栄華も今回は質問を返さず、曖昧に微笑むと、「はい」とだけ返した。内心『私、何しに来たのかしら? 趣味の時間旅行? 研修期間?』とふわふわした草を踏みしめながら困惑の道中を歩いていた。


 夏の午後。高地になっているこの付近は、麓より遙かに涼しいし、空気も澄んでいて心地良い。緑の草原は山と山の狭間に小さく広がっている。そのために谷戸という名称で呼ばれているようだ。もともと河原の堆積物が平地を造っているので、その辺に転がっている石はみな丸く綺麗に削られたものばかりだ。何千年もかけて、大雨の度に運ばれたものなのだろう。


 沢の小道を奥に分け入る。するとその道は池の谷戸という地名の付いた場所に行き着く。先ほどより規模の小さな谷戸が広がっていた。


 そこで沢は一旦、なだらかな滝になっていた。巨大な岩がプールのウォータースライダーの滑り台のようになっていて、そこを水が勢いよく流れている。滝壺は紺碧と濃紺に染まり、大自然の美しさを見せてくれる。落差は十五メートルほどだろうか。クライミングの技術でも無いと、正面からこの滝を登るのは難しい。


「この池の谷戸は、ハイカーたちの間で通称『魚留め』と言われている。ここから先には魚がいないんだ。下の湖から遡上してきたマス類もここで終点だ。この滝を登ることはない」


 岩のひとつに腰を下ろして、粟斗が言う。栄華は持っていたペットボトルの水を口に含みながらその話を聞いていた。


「ここが釣り場ってことだね」と夏夫。

「そうだ。準備をしよう。タープを張るから夏夫くん手伝ってくれ」と粟斗。

 夏夫は自分の荷物を下ろすと、「了解」と言った。


 粟斗は手慣れた風に平地を見つけ、ペグを杭打ちする。簡易テントであるタープは、杭打ちタイプの方が風などに強い。設置が終わると、レジャーシートをタープの中に敷き、栄華を招き入れた。

「ここでのんびりしていてください」と粟斗。


 その言葉を聞きながら彼女は自分の足下を横に這っていく沢ガニを見つける。


「まあ、蟹さん」

「じゃあ、そこで蟹とじゃんけんでもして遊んでいてください」

 夏見のちゃらけた提案に、パーを出す栄華。

 夏夫は、

「そこ、普通グーでしょ」とロープを結びながら笑う。


 じゃんけんに飽きたのか、沢ガニは面倒くさそうな顔(?)で水中へと去って行った。

『……』

 蟹に取り残されて、手持ち無沙汰なのか、申し訳なさの塊のように栄華は、

「私、何にもしていないんですけど、良いのでしょうか?」と粟斗に訊ねる。


 すると意味ありげに、

「じゃあ、そのプラスチック容器の中にが入っているんで、持ってきてくれますか?」と粟斗。


 やっと用事を言いつかった栄華は、喜び勇んで「はい」と答えて、プラスチックの容器へと向かう。

「餌に使うのかしら? パン生地か、何か?」と、言われた通りに格子網のような白いプラ容器に向かう。だがそれは『開けてびっくりの玉手箱』だった。


 栄華から、「きゃー」っという軽い悲鳴がきこえたのはまもなくだった。栄華の開けた容器の中は、おがくずの中を浮遊しているミミズで満杯。パン生地などどこにもない。


 粟斗はやっぱりという顔で、

「だから何もしなくて良いって言ったでしょう。キジは黄色の血を出すからキジ。ミミズです。釣り餌の基本」と教える。


 そして向き直ると、

「なに、山の仕事は、オレと夏夫くんだけで十分です。人手が必要になったら呼びますので、待機していてください」と何事もなかったように笑いながら自分の仕事に戻った。


 粟斗のその言葉に、遠くから夏夫も頷いている。仕方なく、栄華は膝を丸めてタープの下に腰を下ろした。

 その間に夏夫はテンカラ釣りを始めて、粟斗は網の仕掛けを設置し始めた。


 農業試験場

 多摩農業試験場に山崎と美瑠は来ていた。フォトギャラリー「さきわひ」の店主とその婚約者である。暦人同士のカップルとも言える。夏夫に店の留守番を頼んでいた張本人だ。そして栄華に身軽な服装で玄関に出ていて、と伝えた人でもある。


 二人は受付でもらった番号付きの名札を襟につけ、長い廊下を稲作研究室へと歩いていた。まるで学校のようにリノリウムの緑色の廊下が続く。中央には矢印の誘導線が引かれていて、迷うことなく稲作研究室へと二人を誘う。


 時折見える窓越しの外の風景は、畑やビニルハウスという長閑のどかな光景だ。それを見ているうちに、二人の前には稲作研究室の看板が現れた。

 部屋の規模は結構大きい。廊下の窓越しから中の様子を見ると三十人分のデスクはありそうだ。

 山崎が扉をノックをする。

「はい。どうぞ。開いていますよ」


 ノブを回し、開けた大きな部屋の中央に、夏夫の父、不二春彦ふじはるひこが待っていた。

「山崎くん、美瑠ちゃん。久しぶりだね」

 二人を抱え込むように、中央のソファーへと導く。家でののんびり具合とは対照的に、結構な研究所でのポジションを思わせるデスクの位置と椅子の大きさだ。


「いつも夏夫がお世話になってばかりで」とまずは知人らしい挨拶である。

「いえ、お世話になっているのはこちらも同じでして」などと返す山崎。

 春彦と山崎は顔を見合わせて、思わずお互いに吹き出した。

「なんか、らしくないよね」と春彦。

「全く」と肯定する山崎。

 美瑠もへらへらと笑っている。

 春彦は机上の書類を持つ。書類の底を机上でとんとんと合わせ束ねる。そしてその書類の束を脇に寄せた。

「で、今日は何が知りたいんだっけ?」と春彦。

 山崎は眼鏡を人差し指でなおすと、

「一九八〇年代中頃に、新進気鋭でバイオトープ工法を日本に持ち込んだ頃の土木の専門書が欲しいんです」と言う。

「あの頃は欧米からバイオトープが入ってきたばかりだったね」と頷く春彦。


「護岸工事をやめ、セメントやアスファルトをむき出しにせず、石組みで対応できる場所は石や岩を並べる。工事が終わったら植物を植生して、自然の河川や湖沼に戻すってやつだ。それでもちゃんと水害は守れる。あれで田んぼのメダカやドジョウはどれだけ絶滅を逃れられたことか。しかもハーフコーンタイプの小型遡上魚道を併用することで、遡上魚の産卵場所誘導も確保されるという、自然をそのままに人間の住環境も守った工法だ」


 春彦も農業を通してバイオトープの素晴らしさを実感していた一人であった。

「茶が崎の荻園おぎぞの水田公園と相南市の引地バイオトープ公園を設計した先生がいるよ。館山温泉たてやまぬくみ先生だ。みんなから温泉おんせん先生って慕われている。その先生がお書きになった『小さなバイオトープの水田』という本が最適だと思う。ドイツ語のビオトープの英語読みでバイオトープという用語を使っているが、意味は同じで、自然にマッチした用水路の作り方の本だ」


 それを聞いて、山崎の目が一瞬光った。

「その本を知りたいです」


 春彦は立ち上がると、

「確か書庫に何冊も入っていたはずだ。今はこの試験場も一般市民に蔵書の貸出をやっているので、ご案内しよう」と別の棟を指さした。春彦は山崎たちを指して、一般人と括っているが、山崎たちからしてみれば春彦こそ、実は暦人とは無縁の一般人なのである。したがって春彦には暦人の仕事や役目を夏夫たちも教えてはいない。


「ありがとうございます」と山崎。

「でも本だけで良いのかい? 先生の紹介は?」

 勿論、親切心でいった春彦だが、どうやら山崎にはなにか思惑がありそうだ。

「ええ、とりあえずは勉強ために本が読みたくなったんです」

 会話をしながら蔵書の部屋にたどり着く一行は、自然工法書棚へと足を運んでいた。

「重箱式河川、スーパー堤防、消火槽式遊水池と……」

 春彦は本の背表紙を指で追いながら、確認していく。

「ああ、あった『小さなバイオトープの水田』」

 そう言って書棚から引き抜き、

「これだこれだ」と言って、笑顔で山崎に渡す。

「ありがとうございます」


 写真入りの図版と専門書らしく設計図まで載っている詳しい内容だ。パラパラと受け取った本の頁を流していく。美瑠ものぞくように隣で確認する。勿論、山崎は土木の専門家ではないから内容の精査は出来ない。しかし図版も多いこの手の本は、素人にも少しだけどんな内容なのかを理解することは可能だ。

「それで間違いなければ、書庫の入口にあるノートに連絡先と名前書いていってね」

 春彦は入口横の机上にあったノートを指さして、記入を促した。

「はい、すぐに」と、山崎は小脇に本を抱えて、ペン立てからペンを取るとノートに記入を始める。

 筆を走らせながら、山崎は、

「ありがとうございました。バイオトープと自然環境の勉強にもってこいの本です」と再度春彦に礼を述べる。


「また家の方にも遊びに来てよ。うちの父も母も喜ぶから。きっと食べきれないほどの料理をこしらえて待っていると思うよ」と、春彦はいたずらっぽい笑みを浮かべた。


 彼の母は山崎を山のような料理でもてなして、何度となく山崎をたじろがせたことを知っているからだ。身内の者だからこその、少々ブラックなジョークである。

「はい。そのうち。ははは……」

 冷や汗顔の山崎は曖昧な返事をする。

 その表情の意味を知ってる春彦も笑顔で答える。

「まあ、冗談はともかく、ゆっくり話もしたいから、ぜひおいでください」と改める春彦。

 山崎も素直に「勿論です」と言って、

「今日はありがとうございました」と深々とお辞儀をする。ひと間ずらしながら美瑠も横で頭を垂れた。



 喫茶「ひなぎく」

 表参道という地名は各地にあるが、日本屈指のファッショナブルな繁華街の表参道と言えば、明治神宮の表参道である。つまり原宿だ。その表参道には表参道ヒルズというショッピングモールが出来た。かつてそこには同潤会どうじゅんかいアパートというモダンな近代建築のアパートが建っていた。今も一部ヒルズの建物として保存されている。


 その同潤会アパートの横の路地を入った奥に、ゴッホの有名な絵画、『真夜中のカフェテリア』に描かれているカフェとそっくりな外観をした店がある。そこを「ひなぎく」という。


 店主はマイク花草。晴海が属するカレンダーガールを束ねる組織のトップであり、暦人の認定の権限を持つ暦人マスターと呼ばれる人物である。仮の姿としてこのカフェの経営をしている。

 そんな風情のあるカフェにひとりの女性が扉を開ける。時間は午後五時を回った辺りだ。夏なので、まだまだ明るい時間ではある。


「もう看板ですよ」

 マイク花草が皿を拭きながら入ってきた客に言う。

「水くさいことを言うな」と堂々と返す女性客。

 マイクはその女性が誰なのか分かったようで、

「おや、珍しい人がお見えだ」と話しかけた。


 女性は笑うと、

「キリマンジャロを一杯もらおうか」と注文する。

「はい。ただいま」と言ってから、「入口扉のぶら下げたボードをCLOSEにしてもらえますか?」と加えた。

 女性は「うん」と言って、持っていた大幣をひと振りすると、OPENとなっていたサインボードがめくれ上がり、裏側のCLOSEに変わった。


 鉄瓶のお湯を火にかけながらマイクは、

「魔法使いだな、まるで」と小さく呟いた。

 女性は、「何か言ったか?」と訊ねる。


「いいえ。何にも」と愛想笑いをした。

 マイクは『うちのサマンサはチョー和風な魔女だね』とシンクに向かって独りごちた。


 ソーサーに載せたコーヒーをカウンターに差し出すと、

 マイクは、

「今回はやけに大きく動いているじゃないですか」と話を振った。


「知っているのか?」と女性。

串灘くしなださんが先刻さっきまで来てました。もう伊勢に戻りましたけどね。多霧さんが大きく動き出したって。それも夏見くんと山崎くんを競わせるかのように、おかしなパラレルの動きをしているって」


 女性は、「串灘のやつ、おしゃべりだな。あいつは伊勢志摩で大人しくしていればいいのに」と気にした様子もなく言う。

「いや。心配しているんですよ。三人しかいない時巫女同士、時間を管理するのは未来人ではなく自分たちだ、って言っていたし」


 マイクの言葉に、

「単に時間だけを管理するのなら、未来人に任せておくのも良かろう。だが時巫女は時間と密接にある文化や歴史、環境の管理までその視野に治めていく。あるべきものをあるべき場所に、あるべき姿をあるべきままにするのが、我々の使命だ」とコーヒーをすすりながら穏やかに話す。

「もう始められたんですか?」とグラスを拭きながら訊ねるマイク。

「ああ、あっちの時代、こっちの時代に行っているんで少し疲れた」と女性は言う。

「これからどちらへ」

「山崎と美瑠を時留め世界に送る。明日の準備に間に合わせるために」と言う女性。


 パイプを加えて一休みのマイクは、煙を吐き出して「時間稼ぎか、託宣の準備、ってところですねえ」と呟く。

 そしてすぐに「夏見くんのほうは?」と問いかけた。


 コーヒーの湯気と香りを鼻で感じながら、時巫女は「もう既に八〇年頃に飛んでいる。夏夫と栄華も一緒だ」と返した。


「大胆なことしますね」

 マイクは窓の外を流れる人並みを見ながら言う。

「いや神の御心と思ってくれ。全ての命が全ての場所に繋がることが時神さまのご意向じゃ」

「なるほど」


「ただ夏見の有頂天さが心配なので、夏夫と栄華も一緒に飛ばしたのだが……、かえって心配に……」

 フェード・アウトする声にマイクは、時巫女が心配になって夏見粟斗の元に戻ったことを察した。


「あーあ。まだコーヒー代もらってないよ。全く心配性は直らないねえ、ウチの奥さんは。夏見くんだってもう随分な大人なのに」

 まだ温かいカップがテーブルで湯気を出している。忙しい自分の妻にぼやきながらもマイクは笑みを浮かべた。


魚留めの上の沢

「さあ、沢の上の方が火をおこして飯盒はんごうも置き易い」

 粟斗たちは、手に入れた魚を沢の上で食べるべく、魚留めの滝を迂回して、上流の沢に登りきった。そこは小さな沢が幾重にも連なる白い筋がある白雲の沢だった。


 主流と見られる沢の近くで、粟斗は、「ここの畔にしよう」と場所を決める。

「あらここにも濃紫色の綺麗なお花」と水辺に咲いた花に近づく栄華に、粟斗が素早く「だめ!」と言う。


 驚いて立ち止まる栄華。

「それ沢桔梗さわぎきょうっていって有毒植物。綺麗だけど見ておくだけにして。まあ触っても実害はないけど、近づく習慣をつけないで欲しい」と粟斗。

「そうなんだ」


 肩をすくめた栄華に、

横溝正史よこみぞせいしの文学作品に登場しますよ。毒薬として」と言う。そして戒めるつもりもない彼は、平静を装って、

「とりあえず、さっき捕まえた仕掛け網の魚たちを水につけておいて下さい」と続けた。


「はい」と栄華は、言われるままにその主流の水辺に網を置く。するとスルスルといくつかの黒い魚影が川を上っていくのが見えた。

「えっ?」と栄華。


 その様子を見ていた夏夫は、「栄華さん、やっちゃった。お昼ご飯逃げちゃったよ」と笑う。

 急いで仕掛け網の中を確認すると六匹いたはずのイワナが二匹しかいない。


「えー!」

 栄華は、川上に手を伸ばし、「待ってえ」と言ってみる。

 その姿がツボにはまったらしく夏夫は、腹を抱えて笑っている。

「待ってと言って、待ってくれる魚はいないよ」と抱腹絶倒である。


 眉間にしわを寄せながら栄華は、仕掛け網を水からあげて中を覗く。網の中の魚は、まるでウインクするかのごとく、おすまし顔でこっちを見ている。その魚たちは尾びれでパシャッと凝視している栄華に水を掛けた。


「わたし、魚にバカにされているみたい」

 ハンカチで跳ねた滴をぬぐいながらしかめっ面だ。

「栄華ちゃん。バツとしてご飯抜き」と笑う粟斗。


 まさに「泣きっ面に蜂」である。シュンとする栄華に、「冗談ですよ」と粟斗は言って、残った魚を串に刺し始めた。

「逃げられないうちに料理しちゃおう。夏夫くん、そこのワンカップのお酒取って」と自分のリュックを指す粟斗。


「この明るいのに飲むんですか? 車、誰が運転するの?」とリュックをあさりながら夏夫。


「飲まないよ。殺菌消毒に使うんだよ。山の常識」とケラケラ笑っている。そういう間も手を動かしている。はらわたを取って、受け取ったお酒を流し込む。

「へー」と夏夫と栄華は感心している。


「高山植物が相手の山崎くんは教えてくれないの?」と串を打ちながら、夏夫に問う。


「マスターは魚釣り、あまりやらないね」と夏夫。

「それは嘘だ。彼はオレよりも上手いはずだ。結構昔に、釣り合戦したからね」


 その言葉に、

「そうなんだ。知らなかった」と夏夫。

 夏夫は内心、まだまだ自分の知らない山崎の姿があるんだと思った。


 沢の手頃な石を丸く円形に並べると、粟斗は中央に火をくべた。新聞紙にライターの火をつけて、沢の隅の乾燥した流木をパキッと割りながら、そのまわりに配置して行く。木が炭火に変わったところで、塩降り串打ちした魚をたき火から二十センチ離した外輪に刺す。


「どうして火の近くであぶらないの?」と栄華。不思議そうだ。

「うん。その方が早いと思うけど」と夏夫。


 粟斗は「素人の考えそうなことだな」と笑う。

 そして「栄華さんはピアノ、夏夫くんはカメラのことだけ考えていれば良いの」と言いながら割った木を少しずつくべている。


 火から適度な距離を保つことで、あぶられた魚は水分を地面に落とし、こんがりと褐色の焼き目が付いてきた。


 その様子を見ていた夏夫は、

「そうか、直火だと焦げるだけで、中まで火が通らないから、火から離しているんだ。水分を取って生焼けを防ぐ。そしてサークルを造った石が遠赤効果で、反対側からこんがりと焼けるレベルになる。両側から熱が放射されるんだね」と察した。


 偏光グラスの粟斗は、目が夏夫からは見えないが、おそらく笑っているのだろう。親指を立てて、グッドの仕草で合図する。

「優秀優秀。さすが山崎くんの弟分だ。あぶり焼きでないと魚は生焼けになる」と頷く。


 粟斗は少し真面目な顔で、

「ここのイワナはちょっと変わった固有種なんだ。まだこの1980年代は沢山いるので、特に釣っても問題ない。合法だ。ここのイワナたちの姿、瑠璃色をした雨模様の斑点がある。隔壁水系種だ。そんなイワナが住む環境になった原因は、そもそも、この水系、地形の特徴にある。この沢は、下流で宮川に注いでいるのだが、大昔の自然造山などにより、魚留めの滝がある三叉路谷戸地区と下流にある下湖という湖までしか魚たちは往来が出来ない沢なんだ。おまけにアマゴやヤマメとの棲み分けで、イワナはあまり下に行きたがらない。さらに下湖のすぐ下は、大きな崖と滝があるため上の魚と下の魚は行き来できない。条件は違うがビワマスの陸封と同じような進化現象が起きている。それより規模は小さいけど。それと、まあ、正確には下ることはできるので、落ちマスは下流にいる可能性はある。でもヤマメやイワナは二十五度以下の水温でないと生きていけないから、下湖から下流に落ちた時点で、環境に耐えられず、春以降の水温上昇で息絶える。なので下流での繁殖は無理と言うことになる。だから三叉路谷戸付近特有の固有種が何千年もかけて出来上がったと言うわけさ」と夏夫に説明した。


「植物と一緒だ。生活に適応した体になったってことでしょう」と納得する夏夫。


「鳥や虫のいない高山に風媒花ふうばいかの花を持つ植物や地下茎繁殖の植物が多いのと一緒だ」とも加える。


 粟斗の口元がニヤリと動くと、彼は焼けた魚を手にして、一本は夏夫に、もう一本は栄華に渡した。

「はいご褒美。もう十分焼けてる。食べてごらん」と言う。

 栄華は、「それじゃ、粟斗さんの分がありませんよ」とすまなそうな顔。魚を逃がしたことをまだ悔やんでいるようだ。


「オレは良いよ。食べなよ」

「私の食べた半分を差し上げて、召し上がるというのは、失礼ですよね」と栄華。

「何それ? 私と間接キスしませんか、ってお誘いですか?」と粟斗は笑う。


 栄華は真っ赤な顔になると、「まあ、結果的にはそういうことになるんですけど……」と、言葉尻を濁すかのように、ごにょごにょ口ごもった。


「さあ、本日の目的である魚を食べる用事を済ませたら、さっさとさっきのタープのある場所に戻って、帰り支度を始めよう」と笑う粟斗。

「うまい」と夏夫。

 がぶりといったほろほろの身の食感と川魚特有の臭みがないこの味は、粟斗の調理法、河川の水の清らかさ双方の賜物と夏夫は思った。


 一方で、明らかに腑に落ちないと思っているのが栄華である。

『この人たち、本当に時空を越えて魚食べに来たのかしら?』

 そう思いながらカプッとイワナに食らいついた。

「あらやだ。ほんと、美味しい」


元町神社

 横浜の元町通りに併走して、一筋奥に入った元町横道通りにある小さな神社の前に、時巫女は姿を現した。彼女の目には、山崎と美瑠がゆっくりと自分の方に向かって歩いてくるのが見える。


 ほんの数メートルに達したところで、

「ご苦労だったな」と声を掛ける時巫女。

「いえ。一応コピーを取ってきました。ちゃんと著作権に抵触しない枚数に抑えてありますから」


 山崎の言葉に、

「相変わらず律儀なやつだな、おまえは。そういうとこ、じいさんそっくりだ」と笑う。


 時巫女は美瑠に向かって、

「どうだ。暦人御師の家での生活は出来そうか?」と訊ねる。

「はい。時空移動と託宣の時以外は普通の家ですから」と日常に重きある生活をしている美瑠は、ごく自然に笑った。


「やはり同じ境遇を身につけていないと婚姻は難しい作業だからな。おまえの父親はそれが分かっていれば、あんなに苦労することもなかったのに。やはり自由人は自由人。月給取りは月給取り、文人には文人、商人には商人の習慣があるのと同じ。暦人の生活は普通の人間には謎だらけだからな」と時巫女は、山崎を愛しい目で優しく見ている。


 山崎は、小さく笑うと、

「もう終わったことです」と一蹴した。

 時巫女は、「そうか」と言うと、

「おまえがそれで気にしていなければ、それが一番の幸せだ」と笑みを返す。

 美瑠は山崎と彼の両親の仲に、暦人御師に関わるお家柄のこと、それの何かが災いして音信不通になっていることを初めて悟る。


「夏見もおまえの真面目なところを少し見習わせたいくらいだ」と時巫女は笑った。勿論、過去に飛んだ三叉路谷戸で、下山準備をしていた粟斗が、くしゃみをしたのは言うまでも無い。


 並んで境内に足を踏み入れると時巫女が言う。

「今回はゲートを使わず、私が時を止めよう。そして知っているとは思うが、一応言っておく。役目が終わったら、この神社の境内に入れ。そうすれば元の動く時間に戻れるから。私はまた、この後、夏見たちのところへ戻ってみる」


 その言葉に二人が頷くと、時巫女は大幣で二人を祓った。

「はらいたまえ、きよめたまえ、かんながら、まもりたまえ……」


 時巫女の声が聞こえなくなると、二人を除いて全てのこの世界のものは静寂に包まれた。


 止まった時間の中で美瑠は、

「乙女さんとこの神社の時留めの役割を話したとき、正直何の目的で使うのか分からなかったけど、こういうことなのね。託宣や神勅、そっと誰かに連絡を取りたいときは、姿を消せるから重宝するのね」と納得していた。

「まあ暦人を長く続けて行くと、そのときそのときで、いろいろな場面に出くわしますから、自然にそれを学んでいけば良いと思います。無理に知る必要も無く、時神さまが教えてくれますよ。誰かに教わる勉強は、暦人の中にはありません」と山崎。


 そして「ただ、カレンダーガールは知識の継承らしいので、相当伝授される学びがあるみたいですよ。経典のあるキリスト教会と拝みを基本とする神道の違いみたいですよね」と上手に美瑠に覚えやすくまとめた。

「さあ、行きましょうか」という山崎に、「はい」と応える美瑠。

 時間の止まった元町通りを神奈川県庁方面に向かって歩き出した。


 時間の止まった町の中。二人の目的地はもう分かっていた。日本大通りだ。阿久葉織が立ち寄っている三重県の臨時アンテナショップである。葉織は、今回カフェギャラリーでお留守番をしている晴海の母親。もと暦人、カレンダーガールである。地元三重の企業を経営しながら、地域のための公的仕事にも携わっている。そこで期間限定で出店している横浜の物産展に今日は顔を出していたのである。


「県庁の横にテントが出ているね」と幟旗のぼりばたを見つける。

『三重県宮川水系観光協会』とある。

 三重のテントに向かう途中で美瑠は、

「あらこの郵便屋さん、日月町にちげつちょうでいつかIDカードを……」と止まった郵便局のテントの中に彩香を見つけた。


「本当だ。時空郵政じくうゆうせいの……。でも名前、大丸だいまるさんではないね。今は十河そごうさんって言うんだ。町山田から横浜に移るのにはぴったりの名前だ。もう何十年も経っているんだ。ご結婚していてもおかしくはないね」と頷く山崎。名札の名字を見てのことだ。


 美瑠は「横浜にぴったり、って、デパート名から言っているの?」と訊く。

「はい」と山崎は相変わらず笑って返事した。


 二人は三重の観光協会のテントにたどり着くと、葉織の姿を見つけた。

「葉織さん、見事に止まっていますね」と山崎。

「えっと、葉織さんの鞄は、っと……」

「あった」と美瑠。

 葉織の経営する会社の紙封筒を挟んだクリアファイルの中に、今回のバイオトープ工法と魚道工法の書籍の部分コピーの資料を差し込んだ。

「これで良し。時間が動けばドサッと落ちる」


 二人は顔を見合わせた。笑顔である。おそらく葉織は、このコピー用紙が託宣の類いと分かる筈だ。そしてあと数時間で流れ出す宮川扇沢水系の世紀の大発見のニュースに合わせて、丁度タイムリーな話として、この書類に目を通すことになる。



現代のフォトギャラリー喫茶「さきわひ」

 粟斗、夏夫、栄華の三人は、そのまま晴海の待つ相南市の山崎の店に戻された。勿論お構いなしの性格、あの時巫女の思惑によるものだ。

「おいおい。なんて雑な戻し方だよ。夏夫くんはここで良いだろうけど、オレは船橋に戻してくれないと車も普段着もあっちだよ」

「私も自宅に戻してくれないとお財布も持っていないわ。何で帰れば良いのか」と栄華も続く。


 店の奥から「お帰り」と晴海の声がした。そして続けて「丁度一分で戻ってきたわ」と言う。

「えっ。向こうの時間はカウントされないの?」と不思議顔の栄華。

「されないねえ」と、さも当たり前の粟斗。


 粟斗は仕方なく、汚れのひどいバスケットやタープは店の入口に置くことにした。

「これは店の外に置くよ。山崎くんに申し訳ないから」と言う。

「確かに開けたらいきなり、ミミズだらけじゃ、美瑠ねえちゃん気絶するわ」と夏夫も笑いながら頷く。


「あんたらいったい何やって来たのよ」と怪訝そうな顔の晴海。

 夏夫は「過去に行って、魚捕って食べてきた」と返す。

「何でここでも出来そうなことをわざわざ過去に戻ってやって来たのよ」

 晴海の疑問は、やはり栄華と同じであった。


 その質問に夏夫は、腑に落ちない顔で、

「そこが分からないんだよ」と笑った。


 すると不意に、粟斗の携帯電話が鳴る。スマホである。

「はい夏見」

 電話の相手は粟斗が、かつて三叉路谷戸の原稿を書いた雑誌社の編集長だった。

「ああ、夏見くん。今大丈夫? 電話する時間あるかな?」との慌てた声に、平然と「ええ」と返す粟斗。


「ニュース見た?」

 特に慌てるような仕事に関連するニュースは、彼のスマホ画面には流れていない。まあ、今さっき過去から帰ってきた粟斗にタイムリーな話は、本来であれば酷である。

「ああ、有名なハリウッド女優の結婚のですか?」とはぐらかすように答える粟斗。にもかかわらず、おおよその見当、粟斗には付いているようだ。


「違うよ。君の書いた原稿の場所。絶滅したと思われていた瑠璃イワナの沢だよ」

「知りません。そんなニュース」

「魚留めの滝の上流に数十匹が生息していることが確認されたらしくてね」

「へえ。そうなんですね」


「なんでも林野庁の職員が、魚のいないはずの沢で、魚を焼いた形跡のある古い串を見つけたらしくてね。釣り人が過去にここで魚を食した後だって分かったのさ。それが元で、もしかすると滝の上にもひっそりと住んでいるイワナやヤマメがいるんじゃないか、ってことになって、先週から調査が始まっていたそうだ」と電話の向こうで、編集長の慌てぶりが伝わってくる。


「それで君の原稿の引用許可の依頼と、昔の沢の景色を写したポジフィルムの貸出依頼が山ほど来ているんだけど、その承諾をね」と言う編集長。ここぞとばかりに注目を浴びている誌面にえらくご機嫌である。


「了解です。編集部に一任するので、どのようにでも使ってください。津田沼さんがポジは持っているはずです」と言って早々に電話を切った。

 そして粟斗は、

「おばさんの思惑。始まったな。後は山崎くんたちの番だ」と小さく呟いた。



物産展のテント

 バサリ、とクリアケースからこぼれたのは、バイオトープと魚道工法の資料だった。


 阿久葉織は五十代の主婦。晴海の母である。パワフルに家事もこなすが、仕事もこなす。親の会社を三十代で引き継いで、軌道に乗せ、今も順調に拡大させている。


「ちょっと、大那だいなさん」

 葉織は小声で、一緒に物産展に同行していた小宅大那を手招きする。

 小宅大那は夏夫の母、初歩の親戚で夏夫にとっても遠縁にあたる。宇治山田うじやまだで土産物屋を営んでいる家の息子だ。そして暦人でもある。ジーンズ地のエプロンで手をぬぐいながら大那は彼女の方に向かう。若者から青年期に移りかけの年齢に見える。


「どしたん」

 人混みをかき分けて、ようやく葉織の元へと大那がやって来た。

「これ、託宣の類いやわ」と落ちてきたコピーの資料を大那に渡す。

 大那はパラパラとそれに目を通す。

「本当やに。今朝のニュースと絡んどるかも」と言う。

「なに、ニュースって?」と葉織。


 大那は驚いたように、

「見てないんか?」と葉織に告げる。

「宮川の源流の一つ、奥地にある扇沢水系の話なんよ」

 葉織は、

「扇沢水系っていったら、幻繋がりで瑠璃イワナと紀勢の白石でしょう」と言う。

「その幻の瑠璃イワナが発見されたんやにい」

「ええ! レッドリストで、既に絶滅が確認されていたのに」と少し遅れての葉織の驚きは尋常ではなかった。

「結構な数が確認されて、繁殖していたようや」

「どこで」

「魚留めの滝の上で」

「じゃあ、絶滅していなかったってこと」

「そうや」


 そう言って資料を小脇に抱えると、

「葉織さん、これ預かっても良いかな?」と断りを入れる。

「いいけど、どうするん?」

「暦人をやっている県の役所にいる知り合いに尋ねてみる。これどう見ても託宣やもんな。ないがしろにはできん」

「OK。助かるわ。あの付近は私の家で経営している酒蔵や酒米さかまいの水田があるんよ」と親指を立てて、喜ぶ葉織。

 


ひとりぼっちと渓流魚

 山崎と美瑠が相南の自宅、ギャラリーに戻ったのは午後三時を過ぎた頃だった。手には、早々と新聞の夕刊を持っている。

 店には、夏夫、晴海、粟斗、栄華の他に、多霧の時巫女とマイク花草も来ていた。

 二人は驚いて、

「皆さんおそろいで、どうしたんですか?」と訊ねる。


 多霧の時巫女が、

「知っておろうに」と意味深な笑いをする。

「マイクさんが店を離れて、こんな湘南の外れまでご夫妻でおいでとは、どういうことですか?」と笑う山崎。

 その言葉に「たしかに」と粟斗も頷く。

「ご夫妻って?」と夏夫。


 粟斗が、

あられのおばさんとマイクさんだよ」と教える。

 夏夫が「えーっ!」と驚くのと同時に、なぜか粟斗の上から、プラスチック製の洗面器が落ちてきた。

「ゴン」という音はほぼ同時だった。

「いてー!」と粟斗。そして「おいおい。お茶の間コントじゃないんだぜ。勘弁してくれよ」と、粟斗は洗面器があたった場所をなでている。

「誰があられおばさんだ」

 そう言って時巫女は使った大幣を紙袋に入れた。


 夏夫は言葉には出さなかったが、マイクと多霧夫妻が並んでいるのを見て、以前山崎と見た米国のホームコメディ劇『奥様は魔女』のようなカップルみたいだと思った。


「経過報告と推移を見守るために、皆でいた方が良いってことになったんですよ」とマイクがフォローを入れる。

「一番まともなこと言っているわ。マイクさん」と晴海。

 マイクは笑顔で、

「そうでしょう。暦人いちの常識人は山崎くんか私かと言われている」と嘯く。


 頬杖付いて、ぶすっとしたまま粟斗が、

「誰も言ってねえから」と茶々を入れる。そして「暦人の常識人だったら、角川のあすかばあさんか、夏夫のじいちゃんの秋助さんだろう」と訂正を入れる。

「うん。その意見は正しいわよ」と晴海。

「まあ問答はそれくらいにして、状況を教えてください」と美瑠が分け入る。


 多霧の時巫女は、

「瑠璃イワナの発見がニュースで飛び交って、マスコミで大騒ぎになっている。さらに各地の専門家がインタビューに答える中で、護岸工事のやり直しと人工ふ化で再び三叉路谷戸付近に瑠璃イワナを放流する計画まで行き着いている」と説明した。


「何で瑠璃イワナが今頃再発見されたの?」と美瑠。

「公の話ならあんたの持っている夕刊を見た方が早い。世紀の大発見だからな」

 粟斗のその言葉にテーブルの上に美瑠は新聞を広げた。

「これだ」と夏夫。


『<見出し>幻のイワナ推定で二百匹超。<本文記事>一九八〇年代初頭、三重県宮川郡山里村の扇沢水系の沢に生息していた固有種で、通称瑠璃イワナと呼ばれる扇沢水系イワナが絶滅したと認定されてから久しい。当時を知る県の土木事務所の河川管理課の職員は「当時は魚影も濃く、絶滅などあり得ないと高をくくっていましたが、過疎化防止の観光誘致開発ばかりに気をとられ、わずか数年で、あの美しい青いイワナは消えてしまいました。当時の管理者だった林野庁の職員と合同で、魚留めの滝から下湖の間を何度も確認したのですが、一匹のイワナも見当たらなかったのを覚えています。水質が変わるといなくなると言われるイワナやヤマメの生息環境の難しさを改めて知った事件でした」と言う。今回の調査は、林野庁の職員が天然木の確認作業を行っていた際に、沢底に魚を焼く串を見つけたことにあった。相当古いものだったが、確かに誰かが魚留めの滝より上で釣りをしていたという証拠だということで、環境省に問い合わせしたところ、迅速な対応で生息確認活動に繋がった。すると、いままで滝の上には魚はいないという地元の話を裏切る形で、元気な固有種の瑠璃イワナを目視で数十匹確認出来たという』


「公式ないきさつは林野庁の人が別件で沢に行ったら、魚を食べた後があった、ということから繋がったみたいだね」と夏夫。


 この質問に即座に答えるものはいなかった。少々の間があいた。

 するともったいぶるように粟斗が、

「非公式ないきさつとしては、栄華ちゃんが造った貝塚みたいなもんだね。オレが昼飯を抜いたせいさ」と両手をすくめて格好つける。


 夏夫と栄華は、魚留めの滝の上の出来事をゆっくりと思い出してみる。

 そこで当の本人はようやく気付いたようで、

「えーっ! 逃げちゃった魚の末裔。原因はあの時の私のミス?」と栄華。

 粟斗は笑いながら、

「今更気付いたの?」と腹を抱えている。


「あの時、逃がしちゃった四匹のイワナが繁殖したんだ」と驚いている。

「そんなことってあるの? 私良いことしたの? 悪いことしたの?」

 こういう場合は、大概の場合、自分で判断するのが難しい。逃がしてしまったのはミスではあるが、それが結局後世に、大自然や地球上にとって大切な役目だった場合もあるからだ。


 そこで時巫女は、

「確かにドードー鳥のように、地球上から消えてしまう生物もある。トキやオオサンショウウオだって、発見は早かったから助かったようなものだ。どんな経路でも良い。同じ遺伝子を持つ種族が生き延びていてくれれば、自然環境は保たれるはずだ。ましてや河川ごとに分布する魚など、その河川にしか生息しないのだから、その河川が無くなったり、汚染されれば二度とお目にかかれないのも当たり前だ。今回は栄華の手際の悪さが、別の意味で功を奏して、種族保存の直接的な手助けをしたといえる。お手柄だ」と、今回の彼ら暦人たちとしての役割を代弁した。


「じゃあ、あの時、既に粟斗さんたちは知っていて、魚を触ったことのない素人の私に任せたのね、あの仕事を。絶対ヘマをすると踏んでいたんだ。そして絶対、魚を逃がしちゃうと知っていた」と栄華。


「こういうことは偶然が一番。時間の流れを揺らさないための妙案なんですな。だからあなたの偶然に期待してました」と言う。粟斗のこの言葉は、回りくどい言い方にもきこえなくも無い。栄華からすれば、憎らしい言い方だ。


「詭弁だわ。ひどい。馬鹿にされてたってことよね、私」


 間髪入れず粟斗は、「取りようによって、どういう解釈も出来ますから。仮におっしゃるとおりだとしても、全てはあくまで偶然の賜物です」とへらへら笑っている。

「夏夫くんも知っていたんだ。ふーん。感じ悪い」と細めを開けて軽蔑するように、夏夫を下目懸けで見ている栄華。

「僕はそこまでは知らなかった。ただ思惑がありそうとは踏んでいたけど」

 彼女の視界の遠くには、縮こまって遠慮がちに話す夏夫の姿があった。


 向きを変えて「ねえ。粟斗さん」と栄華。

「へ?」

「この会議終わったら、私に会席料理でもご馳走してよ。お詫びの印に」と栄華は彼にも蔑むような下目を懸けて話しかけた。結構強気だ。


 だが残念なのは山崎ならともかく、粟斗にそういう含みは通用しない。

「焼き魚、オレの分くれてやった上に、また別に食事を驕れだって。金のかかる女は嫌われるぜ」と一蹴する。


 ムスッとして、ふてくされた栄華は、

「じゃあ、何ならご馳走してくれるのよ」と問い直す。


「この店のまずいコーヒーか、潰れかかったヒナギクっていう店のコーヒーか、屋台のラーメンだな」


 山崎は、美瑠の方を見ると、

「まずいって言われた」と渋い顔である。


「そりゃ、私のようなものが入れるんだから、美味しくはないかも知れないけど……」とぶつぶつ言っていると、美瑠が「大丈夫。まずいのが好きな人もいるのよ。世の中には蓼食う虫も好き付き、ってね」と微笑む。


 夏夫は、「美瑠ねーちゃん、それ全然フォローになっていないわ」と笑った。


「っで、時巫女のおばさんよ。あの河川改修を再びバイオトープと魚道作りで蘇らせて、瑠璃イワナ戻したらそれで今回の任務は完了かい?」と、話題を変えて、真面目顔になった粟斗が訊ねる。


「だとしたら、ほぼ終わりと言うことになりますね。あとはあの土地の人たちが、自然を愛する心に目覚めてくれれば何よりです」と山崎。

「大丈夫だ。あとは役所とマスコミが勝手に騒いで、専門家たきつけて自然保護に結びつくと思うね」と満足そうな粟斗。

「新聞の続きにはなんとあるのだ」と時巫女。


『近々、コンクリートの護岸壁を撤去して、小型のスーパー堤防を外郭に築き、河川敷を十分とった状況で本流付近の水辺にバイオトープ工法の魚道を設置する議題が、近く村議会に挙げられるという。それは超党派の議員たちでつくる「ミヤマオダマキの会」によって提案準備されている。


 新しい時代の自然を大切にする観光誘致に積極的に関わる人々が名乗りを上げている現状は、イワナにとっても住みやすい郷作りになるという。そして場違いな観光施設の植生をやめて、地元にあるミヤマオダマキ、ユウスゲ、トラノオやコマクサなどの山里の花を花壇に植える運動を始めている』


 皆はその記事を確認すると、「暦人が出来ることはここまで。あとは地元の人々に任せましょう」と口々に言う。

「じゃあ、そろそろ解散かな」と晴海。


祝宴の準備

 その言葉に反応して、

「いや、今日集まってもらったのは、もう一つ用事がある」と時巫女。

「何だよ。まだこき使おうって言うのかよ」と反抗的な粟斗。


 時巫女は微笑むと、「自然を愛する心も大切なのだが、凪彦が美瑠を愛する心も大切なのだよ」と言う。


 その言葉に粟斗はピンときたようで、

「山崎に任せていたら、美瑠ちゃんがばあさんになっても嫁に行けないって話だろう」と笑う。

「おまえはこういう時だけは察しが良いな」

「珍しく褒めてるよ。おばさん」と言う粟斗の言葉に、

「褒めてないと思うけどな」と顎に手をやり疑問のポーズの栄華。

「粟斗たちについて、今回1980年頃の三重の山奥に行って来たのだが、行く先々でミヤマオダマキの花が、託宣のように私に問いかける」


 その言葉に「やっぱりあの入漁券売りはおばさんか」と粟斗は合点がいったようだ。

「そこは重要ではない」

 粟斗の言葉を遮ってから時巫女は言う。

「もしミヤマオダマキが託宣だったらと時神にお伺いを立てた。すると私の鞄からなぜか『花言葉帳』が出てきた。すぐさま調べると<あの人が気がかり>とある。美瑠の写真もその頁に一緒に挟まっていた」


 その言葉に粟斗も「間違いなく託宣だね。山崎が甲斐性なしなので、時神さまは業を煮やして、しびれ切らしておばさんをけしかけた、ってとこだろうな」と合わせる。


「そこで皆が集まれるのは今日しか無いと考えて、飯田橋の大神宮の予約を入れておいた。一応関係者なので、小人数での式をお願いできた」


 そこまで時巫女が言い終わるやいなや、

「マスター、美瑠ちゃん、おめでとうとう!」と、歓声があがった。それはもう賑やかな喜びの声の連続だった。その様を見て時巫女とマイクは細い目を緩めながら、優しい笑顔で二人を見守る。


「一旦このまま解散するが、夕方に飯田橋の大神宮に集合だ。そこで知人だけの式と小さな宴を用意している。会費や祝儀は無用だ。マイクが全て支払うので、自由に飲んで食べて楽しめ」と時巫女。


「大神宮って、近代神道の結婚式発祥の地だよね」と夏夫。

 時巫女の言葉に粟斗は、

「おばさん話分かるじゃねえか。無料って言うのが気に入った」と返す。

 その横でマイクは不満げに、「つぶれそうな店の店主におごってもらうのかい?」と粟斗に一節ひとふしの嫌みを言う。


「繁盛してそうじゃねえかい、あの店。コーヒーの香りに包まれてさ」と平然とさっきとは真逆の無責任な意見を返す粟斗。


 横にいる栄華は、

「粟斗さんの言葉は、常にまともに受け取っちゃいけないのね」と学習していた。

「山崎、お祝いの品はちゃんと持参するからな」とウインクする粟斗。

 その仕草に一抹の不安を覚えた山崎は、先手を打って釘を刺さす。

「普通の品物にしてくれよ。また夜のビデオとか、そういうのは処分に困るから」

 傍らの栄華は、

「まあ、粟斗さんは普段からそんなことばかり考えているんですか?」と少々あきれ顔である。


 その台詞に粟斗は、

「山崎、誤解されただろう。訂正しろ。オレは日夜、世の中と人々の幸せのために頑張っているんだ。船橋御厨の暦人御師なんだぞ」と懇願する。

「そういう一面もあります」と山崎のポーカーフェイスが頷く。相変わらず事実のみを述べる男である。


 依然として栄華は粟斗を見下したように見ている。しかしある面では彼の暦人としての力量を見習う部分も見えてきているようだ。少しだけ、眼差しは変わっていた。


 そして一区切りがつくと、

「大神宮には秋助とあすか、それに葉織に映美、乙女やちこも来るぞ。マイクが皆に連絡してくれたからな」と多霧の時巫女は嬉しそうに美瑠に言う。

 もじもじしながら「はい」と頷くのが精一杯の美瑠。

 マイクは「してくれたんじゃ無くて、そこの時巫女さんにさせられたの」と訂正を入れる。かなりくたびれモードの顔だ。


 そして時巫女は微笑みながら、山崎の方を見ると、「どうだ、桂花の御神酒で靡助も呼び出すか?」と訊いてきた。

「いえ、私利私欲は控えるべきなので、それは遠慮します」と返す山崎。

「そういうと思ったわ。相変わらず真面目なやつだ」と笑顔の時巫女。そして「じゃあ、友人たちだけにしておこうか」と加えた。

 山崎は、「それが良いかと思います」と微笑む。

「衣装と小道具は全て予約してあるので、二人とも一足早く行って着替えてこい」と言う時巫女。


「私、二人のためにピアノ弾いちゃおうかな。ウエディングマーチとかね」と栄華。皆が一様に頷く。著名なピアニストに期待しているのだ。


「オレも二人のためにドジョウすくい披露しちゃおうかな。とっておきの隠し芸。しかも栄華ちゃんの伴奏で」と横で茶化す粟斗。

「私ドジョウすくいの曲なんて知りません」


 栄華は折角の喜びムードに茶々を入れた粟斗に、プイと横を向いた後、もう一度彼の方を振り返ると、自分のほっぺを両手持って「イーだ」と言って、美瑠の方に駆け寄っていった。その時、栄華は粟斗の中に、どこか大伯父の文吾の雰囲気を少しだけ感じた。


「まるで子どもだな。大芸術家先生は」と笑う粟斗。


「私も支払いがあるので一足先に行こう」とマイクも一緒に東京に出る準備を始めた。

 皆が騒いでいる中で、ひとり当の本人が沈黙を保っていた。それに皆が徐々に気付き始めた。美瑠を探して目で追う。

 彼女が厨房のカウンター越しの柱の陰で佇んでいるのが分かった。美瑠は貯めていた目の中の水滴を必死に上を向いてこらえていたのだが、ついに決壊し大粒の涙がほろりと頬を伝う。その粒の大きさに皆が気付き、美瑠に注目する。


 ポケットからハンカチを出すと、急いで頬にあてる美瑠。

「あの、あの……」と口ごもる美瑠。感無量で言葉が出てこない。

 美瑠の中には、江崎久里子えざきくりことの再開、鎮守さまの夏みかんのお直会の季節、山崎との出会いが、走馬燈のように浮かんでは消えていた。

『あの頃から暦人の人たちはみんな優しかったな。ひとりぼっちの私をみんなの輪の中に入れてくれた』

 頬を伝う涙が止まらなくなっていることに気付く美瑠。

「あれ?」と必死に涙をぬぐう。拭いても拭いてもわき出てくる愛情の粒。

 皆が一斉に美瑠の泣き顔に微笑んでいる。悪態をつくのが大好きな粟斗でさえ、優しく微笑んでいる。


 美瑠は一呼吸して、両手で顔を覆いながら、

「皆さん、ありがとうございます」と感無量の中で礼を述べた。

 美瑠のその言葉を受けたためなのかは分からないが、オーディオのタイマーがセットされていてプチッとスピーカー・オンの音がした。そしてなぜかCDも音源も無いオーディオに曲が流れ始める。

「時神さまの御意思だろう」と時巫女。


「<ラバーズ コンチェルト>だね。アメリカの女性グループのシュープリムスだ」とマイク。

 そして「原曲はクラッシック音楽。ポップス風にアレンジして歌詞をつけたもので、たしか内容は自然の森の中で将来を誓い合い 、寂しさから女性を連れ出して、愛を与えてもらうというものだ。いまの美瑠ちゃんにぴったりだね」と解説する。


「さすが音楽評論家のマイクさん」と山崎が感心する。

 あごひげをなでながらマイクは、「本当はジャズが専門なんだがね。だからどっちかと言えば、同じ曲でもサラ・ボーンの方が馴染みがある」と照れくさそうに笑う。

 その優しい女性ボーカルの響きを聴きながら美瑠は、この涙が幸せの涙であり、心を満たしてくれた時神と暦人の人たちへの感謝の涙であると確信していた。

                               了

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