第2話 ♪深紅のカーネーションとダブル・フェイス

――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ――


現代 五月 横浜・晴海のマンション

「お粥全部食べた。もう随分良くなったねえ」と夏夫。

 ゴールデン・ウイークも中盤に入り、そろそろ解放して頂けないものかと夏夫は、やんわりと、遠回しに晴海におうかがいを立てる。


「あたた。なんか頭痛が痛いわ」とおかしな文章でおでこに手を当てて俯く晴海。明らかに胡散臭い。もう完治している筈と夏夫はにらんでいる。その演技がかった台詞には、仮病の香がプンプンしている。


「あー、熱がぶり返している」と晴海。

 夏夫は冷静に、その体温計を彼女から取り上げると、

「さっき、湯飲みに体温計あてて、熱作ってましたよね。今時子どもでもやらないよ、そんなこと」と目を細めて疑いの眼差しをかける。


 夏夫は体温計をケースにしまうと、

「三日前に、お医者さんは軽い過労なので、二、三日で回復するから心配ない、とおっしゃっていましたね。お医者さんにまで付き添ってあげて、今日でもう四日目ですけど。なんて世話好きな彼氏なんでしょう。しかも瀕死の状態だから、って言うからバイクで町山田まちやまだからかっ飛ばして来てみれば、自分でコンビニまでお弁当買いに行ける元気あるし……」とお説教モードである。


 晴海は布団で顔を半分隠して、目だけ出して笑っている。


「だってね」と晴海。


 すかさず彼女のその言葉に夏夫は反応し、

「出た! ハルちゃんの『だってね』攻撃」とあきれ顔だ。そして「今日はどんな言い訳を考えたの?」と続けた。既に「オオカミ少年」を見守る心境だ。

「子どもの頃から病気になると、一人でほって置かれたから」と言う晴海。


 その言葉に、眉をピクピクさせながら夏夫は、幼児を諭すように、

「そんなわけ無いでしょう。葉織さんも、純一さんも優しいご両親ですけど。しかも家族ぐるみの付き合いをしている僕に、そんな言い訳通用しないって分かりそうなものだけど」とおかんむりである。


 そこで再び「だってね」と晴海。

 再度の晴海の挑戦に、「はあ」とため息をついてから、

「そんなに言いたければ、一応聞いてあげます。言い訳」と夏夫は聞く準備に入った。


「昔、お父さんもお母さんも、私が寝込むと、凄い量の食事を押しつけてくるの。津から取り寄せた鰻重に、桑名くわなの漁師さんに届けてもらったハマグリ鍋、喫茶店の知り合いをわざわざ名古屋から呼び出して作ったピラナポに、フォアグラとキャビアを合わせたソースに、三河みかわの八丁味噌のとんかつがのっているのよ。たまにとんかつ屋のヤバトンも来てたわ。そんな量、毎日食べられるわけ無いでしょう。体調が悪いときに。愛情の意味がズレているのよ。手料理ならまだしも、毎日仕出しと出前が自動的に内服薬と一緒に届けられるんだから。あまり娘として大切にされてきたという実感がないわ」と早口で一気に言い切った。


 彼女の話している間、夏夫が思ったことは二つ。一つは、今現在、その口調からすると、とても彼女は元気であるということ。もう一つはなんなら代わりに、その豪華メニューの数々、自分が食べてあげたいと思った。


「そんなこと言って。葉織さんはハルちゃんのこと、本当に大切に思っているんだよ」と夏夫。


「大体、面と向かってお母さんに感謝しよう、って思ったことないもの。お父さんにいたっては、いるんだかいないんだか分からないから判断のしようも無い」


 晴海のその言葉に夏夫はあきれた笑いを浮かべると、

「親の心子知らず、だね」と肩をすくめた。


 晴海が寝込んだ三日前から、彼女のスマホは充電がされていなかった。そのため彼女と連絡を取りたい人が、すぐ近くまで来てしまったことを、晴海は知るよしもなかった。


一九八九年前後 横浜・桜木町

「久しぶりやん。横浜に来るの」と葉織。この葉織は、先ほどの病人、晴海の母親である。ただし、まだ晴海が生まれるずっと前の時代である。膝丈のスカートに黒のビジネススーツ姿である。


 親の会社に就職した葉織が、出張で東京に出てきたのだ。金曜の帰宅だったが、翌日が休日の土曜日ということで、幼なじみの初歩と会う約束をして、帰宅を一日ずらした。


「私かて、はおちゃんと二人三脚で横浜来るの久しぶりの感覚やん。さすが都会。人だらけ。結構つんどるわ」と微笑む初歩。初歩は後の夏夫の母である。アンサンブルのカーディガン、パンツルックに、肩にスカーフというカジュアルな出で立ちだ。


 一見ちぐはぐなコンビだが、この二人は三重県の出身で、小学校から高校まで同級生。二人とも無二の親友と感じている間柄だ。


 初歩のその自然な受け答えに、流されるところだった葉織は、ブンと首を振る。そして、初歩のその言葉が、いつものごとく、おかしなことに気付くと、

「初歩。あんた、またおかしなこと言っとるしい」と軽く正した。


「なんで? 標準語けっこう上手いって、お義母さんに褒められるんだけど」と初歩。得意顔で自信満々だ。

「方言の話じゃなくて、意味の問題やん」

「意味?」

「私がいつ、あんたと二人三脚で横浜に来たんよ。あんたが私と横浜に来るんが、苦難を乗り越えて来たわけではないやん」と葉織が説明すると、

「合っているじゃない。電車乗り換えたり、長旅だったり、因果関係に間違いは無いわ」と自信を持って初歩は答える。

「私が言いたいんは、あんたの『二人三脚』っていう熟語やに。そこは、『気の置けない』に変えないと変なニュアンスになるわ。意味が伝わらんてことや」と首を傾げ、眉間にしわを寄せて葉織は続けた。


 そして「も一度いうけど」と言って、さっきの台詞を繰り返した。

「久しぶりやわ。横浜に来るの」

「私だって、気の置けない間柄のはおちゃんと一緒に、横浜来るの久しぶりやん」

 その説明に納得できたらしく初歩は、

「そっか」と手をたたいた後、「でもはおちゃんなあ、眉間にしわ寄せているとなあ、二十代だって言うのに老けちゃうさあ。時名ときなくんに嫌われても知らないしい」と続けた。


 相変わらず物事にこだわらない質の初歩。臆する様子もなく、次々と話題を変えてしまう。


 葉織は、

「うちのダーリンはそんな薄情者じゃないわよ。それに私の魅力にメロメロだから」と髪をかき上げる仕草をする。初歩のマイペースを知っている葉織は、その話題の転換にその都度ついて行ってあげる。長い付き合いだからなせる技だ。


 そして「先に結婚したからって、先輩風ふかせるんじゃないわよ」と釘を刺す葉織。


「横浜博の観覧車に乗ろうよ」と初歩。葉織の話を全然聞いていない。目に映ったものをそのまま口に出す素直な性格である。ちなみに横浜博はこの頃の地方博の成功例とも言われる博覧会だった。臨港地区の鉄道操車場跡が会場だ。


「あっ、そうだ」とハンドバッグに手を入れる初歩。何かを取り出そうとして、バッグの外ポケットから一枚のショップカードを落とした。


 アスファルトに落ちた一枚の紙切れを葉織は拾い上げる。その紙面には、フォトギャラリー「さきわひ」の文字がある。その代表者の名前に彼女はピンときた。


「初歩。このショップカードどうしたの?」と葉織。

「ああそれ。なんかね。お義父さんの写真仲間の大学生で、今度ギャラリーを作るからって、家に遊びに来たときもらったの。ほら、お義父さん、うちのお義母さんに写真バカって言われるぐらい好きだから」と笑う。


 葉織は、

「このショップカードもらって良い?」と晴海に訊く。

「いいわよ。私、使わないし、捨てちゃうとこだった」


 葉織がそのカードを手にした瞬間だった。かすかに時間の揺れを感じていた。それが初歩にも分かったようで、「来るかも」と葉織に言う。時神の動くとき、彼女たち暦人は時間を越える。


 無言で頷く葉織。

 初歩のその言葉の最後が聞き取れなかったわずかな瞬間で、葉織の姿は初歩の前から消えてしまった。


 残された初歩は、

「あーあ。観覧車乗るって言ったのに。ひとりで行っちゃった」とハンドバッグの底から、横浜博のチケットを漸く取り出した。残念ながら葉織にはそのチケットを見せることは出来なかった。


「いってらっしゃい」と初歩は、葉織のいた場所の地面を見て呟いた。

 時はバブル絶頂期、桜木町の駅前には、「横浜博」の入場券売り場が作られ、ゲートの建物が建っていたゴールデンウィークのことだった。


再び 現代 五月 桜木町駅前

『飛んだのは、私ひとり? しかもカレンダーガールの私を飛ばす意味あんの?』


 本来、自力で移動して、教会のゲートを使うカレンダーガールが、時神の使命で飛ばされるというのは珍しいことだ。なにか事情があると考えられる。


 駅前に佇む葉織は、あのカードを握りしめていた。確かにエスカレーターも、位置は少し違うが観覧車も見える。でも何かが違う。東横線の雑多な都会的雰囲気が消えた二十一世紀の桜木町駅前である。やけに整理整頓された無機質で清潔な町並みである。


「お迎えありがとう。阿久あぐさん」と見知らぬ日傘に白いワンピースの女性が声を掛ける。

『誰?』

 葉織はその見知らぬ三十代の女性に首を傾げる。しかし彼女は確かに「阿久さん」と言った。


『私を知っている?』

「先日お見かけしたときより、大人っぽいのね。お仕事着だから、それともお化粧のせいかしら」と笑う女性。


 そして彼女は、

「メールの返信くれないから、他の知り合いを探して回ろうかと考えていたのよ」と親しげに話しかける。

 一九八九年のアラサーの葉織は、記憶を何とか呼び起こそうと、彼女の顔を失礼の無いようにそっと見ながら考える。


「上野東京ラインでそのまま来たのよ。都会の電車よく分からないから」と女性。

「ええ。どちらからでしたっけ?」

「栃木よ。小山市おやまし栃木市とちぎしの間なの」とコンパクトで顔の確認をしている女性。


寒河御厨さんかわみくりや……」と以前記憶した御厨の所在を呟く葉織。

 その言葉に、「そうそう。良く覚えていてくれたわね。そこよ、そこ」と女性。


 続けて彼女は、

「角川さんの演奏会以来だものね。忘れちゃうわよね、お顔なんて」と笑う。

『彼女は明らかに、誰かと私を勘違いしている。あるいは、この先、私はこの人の住む時代で友人になる可能性もある。とにかく記憶がはっきりするまで、話を合わせていた方が得策だ』


 頭の回転の速い葉織はそんな結論に至った。

「すみません。あの以前頂いたと思うんですけど、お名刺もう一度頂戴して良いですか?」と咄嗟の機転を利かす葉織。


 彼女は平然と気にすることもなく、

「いいわよ。何枚でもどうぞ」と笑う。


 風流な和風の布製の名刺入れ。そこから出された名刺。すかしにサクラの花がちりばめられた上品な紙質の名刺だった。


『うずま酒造 代表取締役 思川乙女おもいがわおとめ』とある。会社の住所は『栃木市総社』、裏面の自宅は『小山市間々田』だ。残念だが、葉織の記憶にこの名前はない。


「阿久さんは確かご実家、三重の松阪なのよね」と乙女。

 並んで歩き出した葉織は、

「はい」と頷くと、心中、『私の出身地も知っている』と照らし合わせを続ける。


「お肉が美味しそう」と笑う彼女。葉織もつられて愛想笑いだ。

「思川さんは……」と言いかけた葉織に、

「乙女で良いわ」と柔らかい表情の彼女。


「近くに大きな思川って川が流れているの。名字と一緒で、まぜこぜになると紛らわしいから、みんな名前の方の乙女さんって呼ぶのよ」と続けた。


 葉織は仕切り直すと、

「では、乙女さん。少し打ち合わせをしたいので、お茶などいかがですか?」と訊ねる。


 話を合わせるには、まず相手からスケジュールを聞き出して、事前に内容を引き出すことと察知した葉織だった。


「さすがカレンダーガールね。気遣いが違う。私もずっと電車でしょう。のどが渇いちゃって、良いわね、そうしましょう」と乙女は葉織に付いて、カフェに入ることにした。


 横浜の中心部、馬車道ばしゃみちにある喫茶店で、二人はアイスコーヒーを注文する。ウエイターがメニューを持って、テーブルを離れると乙女が切り出した。


「タイムゲートの使い方。横浜にある阿久さんの知っているのをまず確認。事前に送ってくれたリストだと、山手に三カ所、紅葉坂もみじざかに一カ所、そして桜ヶ丘神明宮の大きなタイムゲートで合っている?」

 そう言って、水を口に含む乙女。


『アングリカン、カトリックが山手。プロテスタントが紅葉坂、桜ヶ丘は別として、あと一つはどこ? 私知らない』


 照らし合わせの作業で、葉織は一カ所思い浮かばないゲートに出くわした。

『まずい』


 汗ばむ葉織は、スカートのポケットからハンカチを出そうとして手を入れる。ハンカチと一緒に手には、紙の感覚である。さっき初歩からもらったショップカードだ。


 葉織はひらめきと安堵感を同時に手に入れる。

山崎やまさきくん!』

 こういう時はこの時代、近未来の人に助けを求めるのが一番である。山崎は神奈川の大庭御厨おおばみくりやの暦人御師。つまり時間移動の助け人だ。


「済みません。仕事の電話入れてきて良いですか?」と葉織。

 良いタイミングで飲み物がテーブルに届く。

「ええ。私、飲んで待っているから」と相変わらず、柔らかい笑顔の乙女。

 葉織は席を立つと、店員に、

「公衆電話あります?」と訊ねる。


「以前は設置していたんですけど、このご時世なので外しちゃったんです」と済まなそうな店員。

「困ったわ」

 一九八九年から来た葉織が携帯電話を持っているわけがない。途方に暮れた顔の葉織に店員は、店の電話の外線ボタンを押して、受話器を渡す。

「よろしければ、お使いください」と言葉を添えた。


 葉織は笑顔で、「ありがとう」と好意を受け入れ、ショップカードに印刷された番号を、プッシュホンのボタンで押し始めた。


『変わっていませんように……』

 ぷつんと言ったあとで、電話のコール音が鳴り始める。

「はい、ギャラリーさきわひです」と女性の声。

 葉織は山崎が出るとばかり思っていたので、面食らう。

「済みません。そちらに山崎凪彦やまさきなぎひこさんいらっしゃいますか?」と呼び出す。


 電話の女性は、

「少々お待ちください」と言って、電話を置いた。


 しばらくして、ゴンと受話器を転がす音が聞こえてから、

「もしもし」と聞き慣れた声が葉織を安心させた。

「あっ山崎くん。私、一九八九年の葉織なの。今とばされて、この時代にいるのよ。それで今すぐ助けてほしいんだけど、馬車道の喫茶店『杉玉』まで来てくれないかな。思川乙女さんって人が、私を誰かと間違えているみたいなの。出来れば今すぐ来て助けて」


 懇願の声に山崎は優しく頷くと、

「了解です。『杉玉』なら良く行きますから知ってます。今からなら、着の身着のままで三十分で着きます。念のため私の携帯電話の番号も言いますので控えておいてください」と返してきた。


 葉織は近くにあったボールペンとメモ用紙を借りて、山崎の携帯番号をメモる。


「ありがとう」と言うと葉織は電話を切った。

 葉織は、『本当に彼は頼りになるわね。良い感じ』と心中思って、ことの成り行きにほくそ笑んだ。

 受話器を静かに戻すと、店員に会釈をして、十円玉をカウンターに置く。

「ありがとう。助かりました。ここに電話代、置いておきますね」と言って、乙女の待つテーブルへと戻った。


 それから三十分の間、葉織は訪ね歩く順番を考えていた。

「最初は桜ヶ丘神明宮が良いですね。体力の面で先に坂の上に行っちゃいましょう」

 乙女は、

「そうよね。それに暦人としては、自力で使えるタイムゲートを最初に知っておきたいわ」と納得の様子である。


 そんな会話の最中にTシャツ姿で山崎が、店に現れた。西洋のアンティーク家具が並ぶ店内で、きょろきょろと葉織を探している。

「山崎くん、こっち」と手を振る葉織。

「あら、年上なのに山崎さんのこと君付けなの?」と乙女が不思議そうな顔。

 異変に気付いた山崎は、テーブルに駆け寄るなり、

「この子少々フレンドリーで、なれなれしい感じが良いところなんですよ」とすかさずフォローする。


 そして葉織の隣に座ると、

「ゲートめぐりの助っ人に来ました。思川さん、お久しぶりです。角川さんのコンサートの時以来ですね」と話を合わせ、お辞儀をする山崎。

 立ち上がろうとした乙女に、山崎は手を挙げて、「あー、そのままで結構です」と挨拶の簡略化を促す。


「じゃあ、このままで失礼します。ご無沙汰しています。山崎さん」と椅子に着いたままでお辞儀をする。

「実は、阿久さんに先日、メールで連絡して、タイムゲートの場所確認と案内をお願いしていたの。もし神奈川方面の新米暦人と会う機会があれば、教えてあげられるから」と続ける。


「なるほど」と葉織を見て山崎。

「折角山崎さんが着いたのに、恐縮なんですが、私、化粧室に失礼して良いですか?」と乙女。


 山崎は微笑むと「勿論です」とお辞儀をする。

 乙女が化粧室に消えたのを確認すると、葉織は困ったように山崎を見て、

「なにが、なるほどなの?」と切り出す。


 山崎は手を挙げてウェイターに「アイスティー、レモンで」と注文をしてから、葉織に説明を始めた。


「彼女、あなたとあなたの娘さんを間違えています。しかもよく似ている。時間が揺れると困るので、名前などは控えておきますよ」

「私、娘がいるの?」

 彼女のその言葉に山崎は、

「未来にとばされると、やっかいですよね。知りたくない情報まで入ってしまう」と気遣う。

「でも大丈夫。きっと今のあなたの思いのままのご家族になるはずです」と山崎。


 ところがその言葉につられるように、建物が揺れ始めた。スマホの画面には、震度1の速報が送られてくる。


「いけない。やっちゃった。あとでフツヌシノカミを拝んでおこう」とバツ悪そうに山崎が頭をかく。

 葉織はクスリと笑うと、「山崎くんでも失敗はあるのね」とほどよい未来への安心を手にしたようである。


「でもそれで分かったわ。私の出身地知っていたことや名字が一緒なので私が返事してしまったこと、みんな説明が付くわ」

「そのもう一人の阿久さんは、何しているんでしょうね? 約束すっぽかして。そんなだらしのない子なの?」と心配そうに葉織は眉をひそめた。


 山崎はそれを払拭するように、

「いいえ。ちゃんとしています。何らかの理由があるはずです」と否定する。


「それと、間違いが起きないように、今日、乙女さんには、ハーちゃんで行きますよ。葉織さん、本名名乗らないでくださいね。私の方はマスターでね。そしたら『くん』はいらないので」


 山崎のその言葉に、

「了解。マスター」と笑う葉織だった。

「あと山手のタイムゲート、私二カ所しか知らないんだけど、三カ所って言っているみたいなの。マスター知っている?」とすりあわせの最後の確認事項を訊ねる。


 山崎は、いとも簡単に答える。

「それ住所としては、山手じゃないですね。しかも神社ですよ。三姉妹でおなじみの」と笑う。

「ひょっとして、元町?」

「はい」

「あそこ、タイムゲートのある神社なの?」

「はい。でも詳しくはお教えできません」と山崎は言う。

「なんかタブーがあるのね。了解。知らんぷりするわ」

「ちなみにハーちゃん。あなたはいつのハーちゃんですか? 電話で最初に言っていたのよく聞き取れなくて」と山崎。


 葉織は少し微笑むと、グラスに付いた水滴を指に付けて、『1989』の文字をテーブルに書いた。その水滴はみるみるうちに、蒸発して消えてしまった。


 山崎は「了解です」と返事をした。

 彼が言い終わったところで、乙女が化粧室から帰ってきた。

「ごめんなさい。準備OKです」と言いながら荷物をまとめる乙女。


 ウェイターが山崎のアイスティーを持って来るのと同時だった。山崎は、漸く届いたアイスティーを受け取ると一気に飲み干した。

 置かれた伝票を手にする。そして二人に「行きましょう」と促す。そのまま、山崎は先頭を切ってレジカウンターへ向かった。


再び横浜・晴海のマンション

「じゃあ、着替えるから夏夫、隣の部屋に行っていて」

 晴海は、タンスの引き出しから着替えを取り出し始める。

「それとも私の魅力に……」


 晴海がそこまで言ったところで、言葉を遮るように、

「はい、隣の部屋に行ってまーす」と大声で言った。まるで聞く気のない夏夫。


 晴海は笑うべきか、悲しむべきか分からずにドアを閉めた。扉の向こうで、「あほ!」と舌を出す晴海である。

 隣の部屋でバッテリー切れになったスマホを見つけて、

「ねえ、ハルちゃん。スマホ電池の充電切れてるよ」と夏夫。

「充電器差し込んでおいてくれる」と急いで着替えをする晴海。

「OK。入れておくね」とコードを差し込むと『ポン』という音とともに電池マークが画面に表示された。


 随分元気になったので、近くのファミレスにでも昼食を食べに行こう、という二人の用意が始まる。


「駅に行く途中のスカイバードか、反対車線にあるデニーロ。どっちが良いかな」と晴海。

「パンケーキのフェアやっていたの、どっちだっけ?」

「スカイバード」と晴海。

「じゃあスカイバードで」と夏夫。


 夏夫が差し込んで、電源が復帰した晴海のスマホは、メール表示機能も息を吹き返す。次々とトランプをシャッフルするようにメールが着信していく。電話の方も、着信記録の表示が始まり、赤ランプが増えていく。電池切れの直前まで架かっていたようだ。


「ハルちゃん。なんか凄い数の着信件数だよ」と夏夫。

「メールでしょう?」と三面鏡を開いて椅子に座る晴海。

「ううん。電話」

「えっ?」

 ドレッサーで口紅を塗っている晴海は手が離せず、

「誰からか見て」と依頼する。

「じゃあ、見るよ。いいね」

 一応、人様のものということで再度の確認をする夏夫。

「いいわよ」


 夏夫は着信のボタンを押す。自分からの電話を除くと、全部同じ番号からだった。

「全部同じ人。思川乙女さんだ。暦人御師の人だよね」と報告する。


 その名前に晴海は、ピクリと動きを止めた。三面鏡に映る後ろの壁に掛かるカレンダーを見つめる。


「夏夫。今日何曜日だっけ?」

「土曜日」と答える夏夫。


 その答えを聞くやいなや、晴海は体操選手のように、素早く立ち上がると体を反転、疾風のように夏夫のいる部屋に行き、スマホの画面に食いついた。

「まずい!」と第一声の晴海。額ににじむ汗。運動のさわやかな汗ではなく、困ったときの嫌な冷や汗である。


「しまった」

 慌てふためく、晴海の顔に、

「どうしたのさ」と首を傾げる夏夫。

「約束忘れてた! でもまだ何とか、謝れば許される遅れだわ」

「約束?」

 スマホや財布、化粧道具をトートバッグの中に無造作に詰め込むと、晴海は戸締まりを確認する。


「夏夫行くよ!」と手を引っ張って、玄関に夏夫を導く。

 意味も分からず夏夫は、廊下に置いてあった自分のデーバッグを右腕に引っかける。


「今日メット二つある?」と靴を履きながらの晴海。

「あるけど……」


 訳も分からず、晴海に引っ張られて、玄関を出る夏夫。その間にも晴海は、スマホを操作して誰かにメールを送信している。

 駐輪場横に止まっている夏夫のバイクにまたがると、晴海はヘルメットをかぶる。


「桜木町の駅前まで行って」と晴海。

 なんだか分からないが重大なことと感じた夏夫は、彼女の指示のまま「了解」と返事する。

 夏夫もヘルメットをかぶるとスタンドをはらい、シートにまたがってアイドリングを始める。スロットルを回して、回転メーターがハイになった時を見計らって、白い煙の中、桜木町に向けて走り出した。


桜ヶ丘神明宮

「ここが横浜で一番の時の扉、タイムゲートのある場所です。明け方に出ます」

 最後の一段を上った一行は、漸く手水舎の前にたどり着いた。


「坂道を登って、さらに階段を上った先にこのお宮さんなのね。まあ立派な社殿ね」


 乙女は真新しい社殿に驚いた。

「これ伊勢神宮の式年遷宮前に使っていたご正宮内の建物なんですよ」と山崎。


「お伊勢さまの建物だったものとは、有り難くて、御利益ありそうね」

「本当に誇らしいですよね」


 手水舎のお清めのあと、参拝を済ますと、三人は境内を回る。

「あら大神おおみわさんがあるの?」と乙女。

「なにかご縁ありますか?」と山崎は訊く。

「実は私の家、暦人御師では珍しいけど、タイムゲートが神明系だけじゃない三輪系もなのよ」と答える。


「へえ。そんなことあるんですねえ」と興味深そうに聞く山崎。


「もともと惣社であった大神神社が酒蔵の近くにあってね。そこのタイムゲートをよく使うの。他にも安房神社って、太玉命が祭神の神明系に近い神社のタイムゲートもあるんだけど、町中の安房神社より、ゲートが広いのよ。あと例幣使街道の氏神さまは伊勢系の神明宮。全部で三つあるわ」


「今のご時世、ゲートに関しては、どこも似たような悩みがありますね」と山崎。


「ちなみに寒河御厨の領域はどれくらいですか」と加えて訊ねる。


「時代によっても変わるかも知れないし、専門家じゃないから正確なことは言えないんだけど、中心は小山市。新幹線の駅なので知っている人も多いわね。南は野木町、北は旧国分寺町と栃木市の一部になってるの。おおざっぱに言えば、今挙げた範囲の思川の流域中で、下流の地域は東側、上流の地域は両岸って感じで、細長い御厨なのね。その上流部に国府や国分寺、惣社がまとまって置かれていたみたい」


 聞き役に徹していたのだが、ついに二人の会話について行けない葉織が、分からなくて質問をする。

大神おおみわ?」

 難解な単語に、腕組みの姿の葉織。


 山崎は、

「奈良の桜井市にある大神神社です。ウサギと蛇が神使で、日本最古の神社と言われてます。社格は大和一宮であり、元官幣大社です。伊勢神宮発祥の地という意味の元伊勢も属している神社です。そして松尾大社と並びお酒の神さまでもある。一般には縁起物の三輪そうめんで知られているかな?」と説明する。


 その言葉に、

「うん。わかる」と葉織。


「その神社はご神体が山そのものなので、ご本殿がありません。拝殿のみの神社です。大昔の日本人が山を神さまとして拝んできた痕跡がのこる神社なんです。そして惣社っていうのは、国郡里制度の統治機構のとき、律令制度の政府ね。国司が赴任先の国に出向くと、儀礼として各国にある一宮から順にお参りするしきたりがあったんです。国によっては三宮以下の四宮、五宮クラスまで回る場合もあったようで、徒歩で離れたそれらの神社を回るのは、日数もお金もかかったんですよ。だからそれぞれの一宮から順に、ご分霊を惣社に勧請して、一日で参拝が出来るようにしたのが始まりだと言います。当時の役所の近く、つまり国府の設置場所近くですね。ただ下野は一宮しか文献に残っていません。言い伝えも含め。惣社にしたのは国社じゃなくて、郷社なのかな?」


 山崎の説明に加えるように、

「その由緒ある大神神社と同名のご分霊、勧請された神社の境内。そこが私の方ではタイムゲートを持った神社なのよ。しかも大神というそのままの名前を頂いている神社って、全国でも珍しいって聞いたわ。同じ祭神だし、ここでもよく拝んでいかなくちゃ。ここの神社のタイムゲートには何かとご縁がありそうだわ」と乙女。


「寒河の文字は、さんかわって読むけど、神奈川にも似たような文字で寒川神社さむかわじんじゃってあるけど、関係あるのかな?」と葉織。


「相模一宮のね。あまり聞いたことはないわね、関係性は。一説ではね、そもそも寒河は当て字でね、もともとは「三河」とか「三川」って書いたのよ。思川と巴波川うずまがわ、それにもう一本、永野川ながのがわとも、姿川すがたがわとも、渡良瀬川わたらせがわとも言われる河川の三本が交わる場所なので、その内側を御厨に考えていたみたいよ。実際、思川と巴波川の中間に寒川地区って行政区もあるわ。昭和の初めまでは寒河郡って郡役所もあったみたいね。今は下都賀郡しもつがぐんに吸収されたけど」


「確かに私の地元の大庭御厨おおばのみくりやも境目は川で、境川と小出川の間ですね。昔は河川が重要な境目だったんでしょうね」


 その説明を聞いた葉織は、

「へえ」と言って納得できたようである。

 そのときだった。乙女のスマホが音を鳴らす。

「あら、メールかしら?」

 彼女はバッグからスマホを出すと、

「阿久さん、今私にメール送った?」と葉織に訊ねる。

 葉織は、

「ちょっと見せて頂けますか?」と乙女のスマホを借りて確認する。実際に葉織は、携帯電話を触るのが初めてである。彼女のいた一九八九年には、まだ自動車の移動電話しか普及していない。ポケベルはおじさんの持ちものである。


 山崎も一緒にそれを覗き込む。

 メールは晴海からで、

『思川さん。今どこですか? これから桜木町に向かいます。遅れて済みません』という文面だった。

「きっと今朝送ってくれたやつでしょう。なんで今頃届いたのかしら?」と奇妙な顔の乙女である。彼女は葉織の出したものだと勘違いしている。


 ことの真相に気付いた山崎は、すぐに機転を利かす。

「乙女さん。私、飲み物を買ってきますので、ちょっと待っていてくださいね」


 山崎は自販機のある神社の会館の方に向かって歩き出す。もちろん口実で、晴海に連絡を取り、口裏を合わせるためだ。


 乙女たちの死角になった場所で、おもむろにスマホを取り出すと山崎は晴海に電話をかける。電話はワンコールで出た。


「もしもし、晴海ちゃん」

 山崎の電話に、

「あっ、マスター。今、ちょっと急いでいるの」と晴海。

「今どこ?」

「どこって、桜木町の駅前だけど……」

「思川さんを探しているんでしょう? 申し訳ないけど、いま訳あって、思川さんと一緒にいるんだ」という山崎の言葉に、

「実はその思川さんと待ち合わせに遅れて、探しているんだけど」と返す。


 山崎はここで、まだ見ぬ親子、晴海と葉織を鉢合わせさせるわけにも行かず、ひとつの提案をする。

「今日は、思川さんは私が引き受けるから、連絡を控えてほしいんだ。事情は後で会ったときに話すから」


 山崎の言葉に、

「どういうこと?」と腑に落ちない晴海。

 山崎も何から説明をして良いか分からず、

「いろいろなことが入りくんでいて、ゆっくり話さないと説明しづらい」と難しい顔だ。


 晴海はひどく落ち込んで、

「私どうしたら良い?」と山崎に尋ねる。

 山崎は一瞬、間を取って、空を見つめるが、すぐに思いついたように、

「夕方には思川さんを横浜駅まで送っていくので、その後で話すよ。それまでどこかでお茶でもしていてよ。どうせ夏夫くんも一緒でしょう」と指示を出した。


 元気のない晴海の声に少々気の毒には思ったが、時間が揺れるのはもっとごめんである。事の真相を開かす前に少しでも、やれることから処理することを山崎は考えた。

「わかった……」


 蚊の鳴くようなか細い承諾の声に、彼女が傷ついているのは十分に承知している山崎である。しぶしぶ、山崎の指示だから素直に聞いてくれている時の彼女の返事の仕方だ。


『晴海ちゃん、ごめんよ』


 山崎も少し罪悪感に似た気分に支配されている。

 晴海との電話を切ると、気を取り直して、会館内にある自販機で、缶コーヒーを三本買う。そして再び来た道を戻り、本殿前で立ち話をしている葉織と乙女の間に差し出した。


「はい。差し入れ」


 何事もなかったように、山崎は缶コーヒーを二人の前に差し出すと、葉織に目配せをして、OKのサインを送った。

 葉織の方も、ちょっと不安な気持ち、上の空で乙女の話を聞いていた。山崎のサインで、漸く生きた心地が戻ってきた。


山手のタイムゲート

 月が昇り始めて、三カ所目の教会のタイムゲートを教えた葉織。これで桜ヶ丘、紅葉山、山手の一カ所目と、順に案内も終わって、最後のゲートである。


「これで最後になります。ここのタイムゲートはステンドグラスの光を反射して、影絵のように、アスファルトにタイムホールが出来ることで使えるようになります。ただし、教会のアイテムを持っていないとカレンダーガール以外は通れません」


「へえ」と不思議そうに光の輪を見つめる乙女。

 そして、「私の家の近所の暦人達にはカレンダーガールがいないので参考になるわ。さすが横浜ね」と真面目顔。真剣である。

 ここで待ち合わせの美瑠が「さきわひ」の閉店作業を終わらせて駆けつけた。山崎は彼女の姿を見つけると、「お店ありがとう」と礼を述べた。


 彼女は「はい」と返事のあと、乙女の方を見る。

「こんばんは、思川さん」

 ペコリと頭を下げると、乙女は思い出したようで、

「あら、ピアノの上手な」と声をかける。


「明治美瑠です。ご無沙汰しています」といつもの美瑠スマイルである。

 葉織は山崎の体を肘で突いて「誰?」と訊ねる。

「私の恋人です」

 葉織は驚いたように、目を見開いた後で、『ああ、電話のかあ』と一人納得して頷く。そして「合格」と笑った。


 タイミングを計り、葉織は小声で山崎に、

「私、このまま、このタイムホールに飛び込むんで、二人の注意をそらしておいて」と加える。


「了解です」と山崎が言うと、含みのある笑顔で、

「またね」と腰の下で見えないように小さくバイバイと手を振った。

 山崎は葉織に軽い会釈をした後で、乙女に向かって、

「ほら、この高台からだと、この時間マリンタワーとランドマークタワーの両方の夜景が見えるんですよ。光が綺麗なんです」と教会から目線を外すように仕向けた。


「あら本当」


 乙女と美瑠がつられて、高台の通りから夜景を眺めている。山手本通りに面した高台の歩道は、横浜の市街地が一望できる。この道をまっすく進むと港の見える丘公園である。ゴールデンウイークと言うこともあって、少し先の公園周辺には腕を組んだカップルが夜景を眺めながら歩いている。


 皆が夜景に目を奪われているその隙に、葉織は素早く、無言でタイムホールに飛び込んだ。

 横浜の夜景にうっとりしている乙女は、

「ねえ、阿久さんも見てご覧なさいよ」と促すため、葉織の方を振り返る。


 だが、もうそこには誰もいない。

「あら?」という乙女に、

「ああ、彼女ならさっき帰りました。よろしくって言ってましたので」と、とぼけて山崎が説明する。


 状況が分かっていなくても、美瑠は山崎の態度と言葉の感じから見抜いて、

「なんかやったわね。晴海ちゃん、どこ行ったの?」と小声で山崎をいたずら顔でにらむ。


 山崎は笑うと「あとで」と美瑠にそっと言い聞かせる。そして、「では、われわれも夕食でも食べに町に出ましょう」と二人を誘う。


 駅の方へと歩き出しながら、「ええ」と返事する乙女。

 そして乙女は、

「もう一つのタイムゲートって、どこだったのかしら?」と不思議そうである。

「それは元町にある神社です。ただ、それは時間移動のタイムゲートでは無いんです」と山崎。


 それを聞いて乙女はピンときたようだ。暦人同士なら察しのつく話らしい。

「あるのね」と確認した。

「ええ」と山崎。

 二人の『阿吽あうん』の会話に美瑠は、

「何?」と山崎に訊く。

 すると答えてくれたのは乙女の方だった。

「時留めのゲートよ」と言う。

「何ですか、それ」

 初めて聞く言葉に興味津々の美瑠である。

「ご託宣の時、時間が止まる経験したことあるでしょう。それを故意に作り出すゲート」と乙女。

「それって何のために使うんですか? わざわざ時間を止めるって、使う用途が分からない」

 止まった時間には苦い思い出しかない美瑠にとって、自ら進んで時間を止めに行く人たちの気か知れない。

「まあ、時間を止め無くてはいけない場面に巡り合わせたときに、使えるアイテムとして一つ知っておくと便利って感じかな」と付け足した。

 山崎は、

「ちなみに寒河御厨にもあるんですか? 時留めのゲートは」と訊く。

「ううん。あるのはお隣の梁田やなだね」と乙女。

「今度八雲君に訊いてみよう。じゃあ、梁田には時巫女が?」

「ええ。たまにお見かけする」


 山崎は、「そうですか。梁田御厨は本当に時の世界を網羅している場所なんですね。松阪と横浜だけかと思っていた」と感心する。

 二人の暦人御師の会話を聞いて、美瑠は『自分にはまだ知らないことが沢山あるんだ』と感心していた。


再び 一九八九年 横浜・桜木町

「ただいま」

 初歩の前に葉織が時間を越えて戻ってきた。

「すっごい疲れた……。カンビンタンになりそうやわ。長い時間やった」

 肩をたたきながら発した葉織のその言葉に、

「大丈夫。私には、ほんの数分ぐらいだったよ」と初歩。

 思い出したように葉織は、ポケットから「さきわひ」のショップカードを取り出すと、

「サンキュー。助かったよ。これ」と初歩に返そうとした。


 と、そのとき葉織は一瞬眉をしかめて、

「あっ、あんた、知っとったんや。私が飛ぶって」と疑う。

 初歩は平然と、

「知らんし。はおちゃん、疑り深いし」と返す。


 とぼけ顔の確信犯にも見えるが、そうかと言って、嘘をついているようにも見えない。初歩を見る目は複雑な心境の葉織だ。

 彼女は、「まあ、いいわ」と軽く笑うと、

『まだ見ぬ我が子は、娘なんやね』と時間旅行で得た事実を心中で呟いた。彼女は、幸せな未来の一コマを味わえた分だけ、時間を越えた甲斐があった、と考えることにした。微笑みがわずかに彼女の目元に現れていた。


「さあ、観覧車乗るよ」と言う初歩。

「長旅で疲れたってば」と葉織。

「私には数分だったしい」と譲らない。


 幼なじみの遠慮のいらない二人の関係がしみいる時間である。まさに気の置けない関係と言うのだろう。


 バブル経済まっただ中の横浜の中心部。桜木町周辺が、「みなとみらい」という新しい地名として、一般に知られ始めた頃だった。このあと二人の乗った横浜博の観覧車は、今も桜木町で二十一世紀の宇宙時計という意味の「コスモクロック21」という名前で活躍している。


横浜駅・東京上野ライン

「すっかりご馳走になっちゃって」

 乙女は、山崎にお礼を言う。

「いやいや、逆にこっちが小山に行ったときは、お世話してくださいね」と笑う。

「勿論よ。ところで明治さんは?」と辺りを見回す乙女。

 近くの階段を駆け上がって来る美瑠が、二人の視界に入る。

「ごめん。お待たせ」と駆け寄る美瑠。


 手には、黄色のラベル、駅弁のシウマイ弁当とペットボトルのお茶。

「お荷物になるかも知れないんですけど、良かったらお弁当どうぞ」と美瑠は弁当の入った手提げ袋を乙女に渡す。

「あら横浜土産ね。ありがとう。是非後で頂くわ。今はまだそんなにおなかすいていないから」と言って受け取る。


「本当に気配り上手さんね。山崎さんは幸せ者だ」と笑う乙女。

 そんな中、発車合図のメロディが鳴り始める。

 と、そのとき、「マスター、美瑠さん、思川さん」とホームの彼方から駆け寄ってくる二人組がいた。晴海と夏夫である。


 山崎は額を手で覆うと、『待ってて、って言ったのに……』と万事休すの様相だ。


「あら帰ってきてくれたのね。お召し替えすると、カジュアルな学生に戻るのねえ。ボーイフレンドまで連れて」と楽しげな表情で、何の疑いも持たない乙女。


「阿久さん。今日はありがとうね。またお会いしましょうね」と乙女が言うと、電車のドアが閉まる。


 意味の分からない晴海は、

「ありがとうってなんですか?」とドアに駆け寄るが乙女には聞こえない。

 乙女は嬉しそうに列車のデッキから手を振っている。

 山崎は「やれやれ」と胸をなで下ろした。


 動き出した列車に、皆は手を振ると、軽くお辞儀をした。乙女も会釈を返す。


 列車の音も小さくなり、視界から消えていくと、山崎は、

「さあ、皆さん。答え合わせの時間ですよ」と笑った。


相南 「さきわひ」の店内

「晴海ちゃん、今日は何で乙女さんとの待ち合わせに来れなかったの?」と山崎。

「……」

 俯いて、申し訳なさげな晴海。


 山崎は彼女の責任感が強いのを知っている。決して責めているわけではない。

「責めていないよ。理由を聞いているだけ」と山崎。表情にはいつものように、優しさがあふれていた。


 晴海には、それが分かるから迷惑を掛けて済まなかった、という気持ちを拭えないのである。


 無言と沈黙に、耐えかねた夏夫が代わりに口を開く。

「ハルちゃん。熱を出して寝込んでたんだ。今日もまだ病み上がりなの」

 山崎は笑顔で、「じゃあ、仕方ないよね」と頷く。


 だが夕方からの途中参加の美瑠は、ことの推移があまりよく分かっていない。

「でも山手ではあんなに元気に、乙女さんに教会のタイムゲートの案内していたのに?」


 美瑠のその言葉に、晴海と夏夫は首を傾げた。

「山手?」

 晴海のその言葉に、美瑠は、

「着替えてくる前よ。黒いスーツスカートはいて」と説明する。


「私、そんなビジネス用の洋服なんて持っていないわ」と返す晴海。

「ハルちゃん、朝からずっと僕と一緒だったよ。タイムゲートには行っていないと思う」


 二人のもっともな反論に、美瑠は不思議そうな顔して、山崎に答えを求める。

「じゃあ、私がお会いした、あの山手の教会の前で会った彼女は誰?」

 美瑠の視線に少し間を置いてから、山崎は微笑むと、

「葉織さんです」と答えた。

「おかあさん?」と晴海。

「阿久のおばちゃん?」と夏夫。

「よく似てるでしょう」と山崎。


 その言葉に、夏夫も思い当たる節があった。


 頷いた後で、夏夫は、

「僕も初めてハルちゃんと会ったとき、阿久のおばちゃんの若い時と間違えた。タイムスリップで二十一世紀に来たのかと思った」と、山崎の言葉に少々納得がいったようだ。


「どういういきさつで、二人が出会ったのかは、私は分からないんです。私が葉織さんから連絡を受けて馬車道の喫茶店に行ったときは、すでに二人は会っていました。ただ晴海ちゃんと葉織さんを間違えて、思川さんが彼女に声をかけたのは事実。晴海ちゃんとの待ち合わせの桜木町駅前に、偶然、この時代に飛ばされた、若き日の葉織さんがいた。それが全てです。晴海ちゃんが葉織さんを見るのは大丈夫なのですが、葉織さんがまだ見ぬ我が子の晴海ちゃんを知るのは、少し問題、と思って、私は、二人が出くわさないように時間をずらしてもらいました」


 山崎は手短に事の次第を皆に伝えた。

「私が病気で出かけられないから、若いときのお母さんが代わりをしてくれたの?」と晴海。

「さあ、詳しいことは葉織さん、ご本人に後で訊いてください。今現在の葉織さんになら、カレンダーガールの晴海ちゃんが訊いても時間は揺れませんから」と肩をすくめ、ひょうきんに笑っている山崎。


 そして「答え合わせは以上です」と加えた笑顔の山崎。

 納得がいったようで、

「ゴールデンウイークの後半に帰省するって言ってあるから、そのとき訊いてみるわ」と晴海。

「ええ。もちろん。葉織さんが今日のこと覚えていればの話ですけどね。さあ、お茶でも飲みましょう」

 山崎はそう言うと、厨房に入ってケトルに火をかけた。



松阪の駅前

 本居宣長もとおりのりなが公の銅像が誇らしげに駅前ローターリーに立つのが見える。町中が本居公にちなんで、鈴のデザインだらけである。本居公の家の屋号が「鈴屋すずや」のためだ。


 駅の改札を抜け、出入り口脇のパン屋の店先には、カーネーションのおまけが付いたカステラが売られている。ゴールデンウィークが終われば、すぐに母の日である。


 晴海のバッグの中には、小さなカーネーションが忍ばせてある。

「晴海」と声をかけたのは葉織だった。駅前に立つ葉織は、娘が帰ってくるとあって上機嫌だ。


「お母さん」


 葉織は手を差し出すと、「荷物持つしい」と笑う。

「いいよ。わるいし。……迎えに来てくれたんやねえ」

「町まで来る用事があったんよ。今回は電車やったんね」

「うん」


 貨物コンテナが無造作に置かれている駅近くを線路に沿って歩く二人。ベンツAクラスのロックを解除して、二人は乗り込んだ。ビジネスホテルが軒を連ねる駅横近くにある市営駐車場から車を出す。


「先週はありがとう」と晴海。

 葉織は不思議そうな顔をして、

「先週? わたし、なんかした?」と身に覚えのない態度をする。

「ドッペルゲンガーやに」と笑う晴海。


 しばらく信号待ちをしながら考える葉織。あごに手をやり、気むずかしい顔だ。


 信号が変わると同時に、「ああ」と思い出して笑う。

「乙女さんの件やねえ。もう私にとっては、四半世紀以上も前のことやに。あれ、今月のことやったん」


 晴海は「ありがとう。私が熱でうなされていたんで、駆けつけてくれたんやろ?」と言うと、

「あん時、あんた風邪ひいとったんか。初めて知ったわ」と笑う葉織。

「ええ、ちがうん?」と見当違いの推測に、晴海は「感謝して損したわ」と加える。

「それやったら、結果的に、あん時のあんたを助けることが出来たってことね。ええわ、それで」

「折角、感謝のしるしにカーネーション買ってきたのに損した」

 骨折り損という顔で、窓越しに頬杖をつく晴海。

「あら良いじゃない。ぜひ頂きたいわ。日頃の感謝の賜物として」といたずら顔の葉織である。

「なんで急に丁寧語になるんよ」

「そんなこと良いから、早くカーネーション出しや」

「催促してもらうものじゃないでしょう」とあきれ顔の晴海に、

「頂けるものは、何でも頂くわ」と葉織は嬉しさを込めた表情で返す。


 晴海は鞄の中をごそごそと手探りで、五本ほどの深紅のカーネーションが束になったミニ・ブーケを取り出した。巻紙はピンク色で、その上から透明のセロファン紙が巻かれている。そこそこのレベルの花屋で買ったものと分かる花束だ。


「ハイ。母の日。少し早いけど」と丁度信号で止まったところでつっけんどんに差し出す。

 葉織はちらりと晴海の顔を見てから、受け取ると、

「優しい子に育ってくれてありがとう」と礼を言う。

 晴海は少し赤面すると、照れ隠しにサイドミラーに目線を反らして、角口のまま、

「別に優しくないもん」と呟く。

「そんなこと言って、お母さん、大好きなくせに」と葉織がふざけると、


「ジョーダン。小さいとき、わたしが風邪引いた時のこと、まだ根に持っているからね。感冒薬と一緒に、凄い量の食事を押しつけてきたわよね。自分はどっか行っちゃってさ。津から取り寄せた鰻重に、桑名の漁師さんにもらったハマグリ鍋、喫茶店の知り合いをわざわざ名古屋から呼び出して作ったピラナポに、フォアグラとキャビアを合わせたソースに、三河の八丁味噌のとんかつ載せてさ。だいたいにして料理に思えなかったわ、あれ。たまにトンカツ屋のヤバトンまで持って来て。寝てるのに、そんなに食べれやんやん。健康状態分かっとるやん」と毒づいたおふざけ口調で葉織をなじる。


「みんな、あんたのめっちゃ好きなもんやん。そんだけ愛されてるんよ」と葉織。


「どんな愛されかたや。屈折しとおわ。愛情のこもった粥の一善でも持ってきいや」と嘆きの声で、

「あーあ。不二のおばちゃんがお母さんだったら良かったのに」と笑う。

 晴海のその言葉に、

「夏夫くんのお嫁さんになれば、自動的に初歩も、もれなく付いてくるわ」と返す葉織。

「雑誌のふろくじゃないっての」

「でも気の短いあんたが、初歩と一緒の生活したら、毎日怒りまくると思うけどね」

「お母さんといたって毎日怒りまくっていたけど」


 我が子の成長を目の当たりに感じた葉織は、嬉しいようなくすぐったいような、幸せな気分に浸りながら、自宅への道を運転していた。

「それは私も一緒や。似たもの親子だもの」と葉織。

「性格まで、ドッペルゲンガー」

「いいえ。この場合はファッション・モデルらしく『ダブル・フェイス』かもね。同じ生地の二枚重ねとかけてみた」

「たまには良いこと言うじゃない。お母さんも」


「お褒め預かり光栄です。さあ、お父さんも待っているわよ。早く帰ろう。明日は、みんなで内宮ないくうさんに行って、おかげ横丁で美味しいもの食べよう、って、お父さん張り切っていたわ」


 新緑に彩られた、鮮やかな木々の若葉が織りなす三重の道。母子のふれあいに伊勢路を流れる風も、心優しく感じる。そんな穏やかな季節、晴海にとっての親子の愛情、その大切な絆の確認作業を与えてくれたのは、「時神の粋な計らい」だったのかも知れない。

                                  了






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