三話
「……あ、いらっしゃいませ!」
姉ちゃんの一段高い声に、俺は皿を洗う手を止めて入り口のほうをのぞいた。案の定、いつも通りの地味な服装に、うつむき加減の姿勢でハンネスが入ってくるところだった。
カウンターの左から二番目の席に座ると、これまでならうつむいてじっとしてたけど、今日は違った。昨日話すのを楽しみにしてると言った通り、席に着くと、正面奥に見える洗い場の俺に気付いて、わずかに笑いかけてきた。がらっと変わった態度に、俺は戸惑いつつも、とりあえず頭だけで会釈した。
「何にしますか?」
姉ちゃんが注文を聞きに行くと、昨日までは大して顔も上げなかったハンネスなのに、今日はしっかりと姉ちゃんを見て料理を注文した。
「揚げ野菜と焼き豚、あと水を」
「は、はい! しばらくお待ちを……」
面と向かって見られたことに、姉ちゃんは舞い上がったのか、顔を赤くして小走りに店長へ注文を伝えに行った。そんな様子を見てるのか見てないのか、ハンネスはカウンターに両腕を載せて、店内をゆっくり眺めてる。
「アイヴァー、コップ、コップはどこ?」
「そこの棚にあるだろ」
いつもの動作もままならないほど、姉ちゃんは舞い上がってるらしい。惚れた相手と初めてしっかり目が合えば、やっぱり嬉しいもんだろうな。
「お、お水です。どうぞ」
両手でつかんだコップを姉ちゃんは差し出す。カウンターに置かれたコップにはなみなみと水が入ってる。明らかに入れすぎだ。少しでも傾ければこぼれてしまいそうな水を、ハンネスは嫌な顔もしないで慎重に飲んだ。やれやれと思いながら、俺が次の皿を洗おうと手を動かした時だった。
「今日もにぎわってるね」
ん? と顔を上げれば、カウンターの向こうに座るハンネスが笑みを浮かべて俺のほうを見てた。どうやら俺に話しかけたらしい。
反応のなかった俺に、ハンネスは続ける。
「仕事、忙しそうだ」
「そうでもないですよ」
「でも、これだけの人数の食器を、一人で洗うんだろ?」
今はちょうど昼時だ。この食堂の一番忙しい時間帯で、カウンター席以外はほぼ客で埋まってる。料理のいい匂いが漂う店内は、客達の喧騒で溢れてる。
「そうですけど、一気に洗い物が出るわけじゃないですから。まあ、手は休められませんけど」
皿を洗いつつ横目でハンネスを見ると、その目は怪訝そうに俺を見てた。
「……どうか、しました?」
「そんなにかしこまった話し方、しなくてもいいよ」
するとハンネスは腕を組んで微笑んだ。
「アイヴァーは十七歳だろ? 僕は二十歳で、たった三歳しか違わない。もっと気軽に話してほしいな」
それを聞いて俺は驚いた。この人、こんな雰囲気と見た目で二十歳なのか? 俺はてっきり三十手前くらいかと思って見てたんだけど……老けてる。そう思うのは俺だけだろうか。低い声に落ち着き払った態度は、大人になったばかりの青年には到底見えない。そこそこ人生経験を積んだ十歳くらい年上の男性だと思ってたのに、まさか三歳しか違わなかったなんて。やっぱり人は見た目じゃわからないもんだ。
まずはそんなことに驚いたけど、まだ驚く箇所がある。俺はその疑問をハンネスに聞いてみた。
「何で俺の歳、知ってるんですか?」
ハンネスと話したのは昨日が初めてで、そこで自分の歳なんか言った覚えはもちろんない。そもそもこの町に来てから歳を誰かに教えたことは一度も――
「アイヴァーがこの食堂に初めて来た時に、店長さんと話してるのを聞いたんだよ」
「……あ」
言ってた。俺は確かに自分の歳を言ってた。あれは姉ちゃんが初めて俺を店長に会わせてくれた時だ。弟のアイヴァーと挨拶して、店長に何歳だと聞かれて、その時に俺は十七だと確かに教えてた……。
思わず俺はハンネスを見つめてた。本人も忘れてるような些細な瞬間を、まさか客のほうがよく憶えてるなんて――
「思い出したかな」
ハンネスはにこにこしながら聞いてくる。
「記憶力、いいんですね……いや、いいんだな」
「そういうことが結構得意なほうでね。働き始めて二日目に、小皿を落として割ったことも憶えてるよ」
いたずらっぽくハンネスは笑う。そんなことも確かにあったけど……。
「はい、お待ちどうさまです!」
その時、姉ちゃんが注文の料理を運んできた。揚げ野菜と焦げ目の付いた焼き豚を丁寧にカウンターに置く。
「ごゆっくり、どうぞ……」
少し照れたように言うと、姉ちゃんはすぐに俺の横にやってきた。
「ハンネスさんが会話している姿、初めて見たわ」
そして俺を見据えて続ける。
「どうしてハンネスさんはアイヴァーと話しているの?」
「いろいろあって、話す仲になった」
「そのいろいろを聞きたいんだけど」
「うーん……説明すんの面倒くさい」
「もうっ! ……私も、話せるかしら」
「それはどうかな。結構内気な性格みたいだから、すぐにってわけにはいかないかも」
「そうなの? ハンネスさんって内気な方だったの……」
小さな溜息を吐いて、姉ちゃんは接客に戻ってった。嘘をついちゃったけど、これも姉ちゃんのためだ。結果が出るまでは彼にあんまり近付けさせないようにしないと。
「アイヴァーのお姉さん、綺麗な人だね」
焼き豚をナイフで切りつつ、ハンネスが言った。その視線は壁際の席で客の話に付き合う姉ちゃんに向いてる。俺の歳を憶えてるくらいだ。俺達が姉弟だってこともとっくに知ってるらしい。
「……そうかな」
「そうだよ。アイヴァーは毎日見てきたから、わかってないんじゃないか?」
家族だから見慣れた顔ではあるけど、村じゃそんなに目立った存在じゃなかったはずだ。まあ、悪い意味で目立ったことはあったけど。
「ハンネスは、ああいう見た目が好みなの?」
「どうだろうな。でも、そう、なのかもしれない」
姉ちゃんは中肉中背、長い茶の髪に黄色の瞳と、ごく普通の容姿をしてると思う。人より目が大きいとか胸がでかいとか、腰がくびれてるとかいったこともない。姉ちゃんより美人な女性なら他にもいると思うけど、ハンネスは自分に似た、ちょっと地味目な女性が好きなんだろうか――そこまで考えて、俺はふと不安な感じを覚えた。まさか、ハンネスは姉ちゃんに惚れてる? 惚れてるから綺麗とか言ってるんじゃ……。
俺は揚げ野菜を頬張るハンネスを見据えて聞いてみた。
「もしかしてハンネス、姉ちゃんに惚れてたり、する?」
食事に集中してたハンネスは顔をゆっくり上げると、口の中のものを飲み込んでから言った。
「綺麗だと言ったのは、そう思ったから言っただけだよ。それだけだ」
「そ、そう……」
俺は胸を撫で下ろした。こっちの調べが終わる前に、二人を勝手に突き進ませるわけにはいかないからな。気持ちがないんじゃそういう心配もないだろ。とりあえずは大丈夫か……。
「ごちそうさま」
しばらくすると食べ終えたハンネスが席から立ち上がる。彼は品のいい食べ方のわりに、かなり短い時間で食事を終える。毎回十分もかかってないんじゃないだろうか。店側としては長居しない客は嬉しいのかもしれないけど、姉ちゃんはハンネスが帰る時は、いつも名残惜しそうな目で見送ってる。
金を出そうと、ハンネスが上着のポケットを探ってる時だった。入り口の扉が開いて、一人の若い女性が辺りを見回しながら入ってきた。
「あ、いらっしゃいま……」
姉ちゃんが言い終える前に、その女性はカウンターにいるハンネスを見つけると、そのまま一直線に歩み寄ってきた。俺も見慣れないけど、他の客達も見慣れないのか、その初めて見る女性に、皆いぶかしげな視線を送ってる。
「あの、ハンネスさん、ですよね」
女性は高音の照れた声をかける。これにハンネスは振り向く。
「……何ですか?」
小首をかしげて聞いたハンネスに、女性は恥ずかしそうに言う。
「じ、実はその、以前からあなたを何度かお見かけしていて、それで……」
相当照れてるのか、先の言葉が続かない。しばらく待ってたハンネスだけど、そのうつむいた顔をのぞき込むと言った。
「……あなたとは昨日の夜、道ですれ違いましたね」
これに女性は顔を跳ね上げて、驚いたように目を見開いた。でも次の瞬間には顔一杯に少女のような笑顔を浮かべた。男前は、こういうところも抜け目ないんだろうか。
「私を、憶えていてくれたんですか! 嬉しい……」
感激する女性にハンネスは微笑む。
「それで、僕にどういったご用ですか」
「あっ、はい。あの、お願いがあって……」
女性はもじもじしてる。言いたいことは何となく予想できるけど。
「お暇な時、一度、私とお食事に行ってはもらえませんか! ひゃっ!」
自分で言った言葉に照れて、女性は顔を両手で覆ってしまった。女性からこんなことを言うのはかなり勇気がいるだろう。恥ずかしがる気持ちはわからなくもない。でも、人が大勢いるこんな時間と場所で誘うっていうのは、逆に勇気がありすぎて、女性の態度を疑いたい気もするけど……そう思うのは俺の妬みだろうか。
俺も含めて、客達が二人のやり取りに注視する。もてる男ハンネスはどう答えるのか――するとハンネスは軽く息を吐いて、そして言った。
「せっかくの誘いですけど、お断りします」
え! と声が漏れそうなくらい女性の表情は引きつって固まってる。
「ごめんなさい。気持ちは嬉しいですが……僕には関わらないほうがいいですよ」
ハンネスはポケットから手早く代金を出すと、カウンターに置いてさっさと店を出てってしまった。
「ありがとう、ございました……」
姉ちゃんの呆然とした声が店内に響く。残された女性は呼び止めようとしてたみたいだけど、素っ気ないハンネスの態度に、肩を落としてとぼとぼと店を後にした。そんな光景に客達はしばらくざわつく。が、一分も経てば料理や世間話に戻って、食堂内はいつもの空気に包まれた。
でも、その中で一人、気が気でない表情の人がいる。姉ちゃんだ。
「ねえ、大丈夫?」
俺は洗い場から声をかけた。
「……大丈夫って、何が?」
静かに振り返った姉ちゃんは笑ってたけど、まったく力がない笑顔だった。惚れた人を他の女性が誘う場面を見たんだ。幸い失敗に終わったけど、姉ちゃんは焦りを覚えたのかもしれない。これで突っ走るような真似、しなきゃいいんだけど……。
それにしてもハンネスは、何で誘いを断ったんだろ。二十代半ばくらいに見えた女性は結構綺麗な人だったのに。やっぱり地味な見た目が好みなのか、それとも、もう心に決めた人とか恋人がいるのか――そうだ、今度それ聞いてみよう。もしいれば、姉ちゃんも諦めてくれるかもしれないし、俺も探る必要がなくなる。
でも、ちょっと気になることがある。さっきのハンネスの断り方だ。僕には関わらないほうがいいって、俺が昨日初めて話した時と同じような言い方だった。事実、ハンネスには悪い噂が立ってるけど、あれじゃ自分が危険人物だって認めてるみたいだ。根も葉もない噂なら、卑屈にならないでもっと堂々と断ればいいのに。周りの目を気にして相手を気遣ったのか、関わると本当によくないことがあるって警告なのか。どっちなのか俺にはまだわからないけど、とにかく引き続き話してみる必要があるのは確かだ。
そして翌日、いつも通り昼食を食べにきたハンネスは、昨日のことを引きずる姉ちゃんに愛想よく注文すると、皿洗い中の俺に話しかけてきた。
「アイヴァーはいつ昼食を食べてるの?」
「この忙しい時間が終わった後」
「ふーん、まかないってやつか?」
「うん。店長が余り物とかでいろいろ作ってくれるんだ」
「なかなかいい職場だね」
微笑むハンネスを見て、俺はふと聞いてみた。
「ハンネスは仕事、何してるの?」
「僕は無職だよ」
さらりと言われて、俺は一瞬止まってしまった。
「……そ、そうなんだ。じゃあ大変じゃない? お金とか平気なの?」
「蓄えがあるから、しばらくは心配ないよ」
言葉通り、明るい口調からは生活を心配する様子はない。結構な蓄えがあるんだろうか。
「無職なんじゃ、普段は何してるの?」
「何も。その日の気分次第。いい仕事も見つけたいんだけどね」
ハンネスは小さな溜息を漏らす。彼の今の評判を思えば、この溜息には深いものがありそうだ。
「職探し中か……それじゃ恋人と遊ぶ時間もなさそうだね」
「そんなものいないよ」
「男前のくせに?」
「恋人ができるかどうかは、見た目で決まるんじゃない。お互いの相性だよ」
俺は舌打ちしたいのをどうにかこらえた。もてたことない男を前に、よくも抜け抜けと言える。こういうこと言うから美形は同性に嫌われるんだ。まあ、その理由が妬みだって俺もよくわかってるけど……。それはいいとして、ハンネスには今恋人はいないらしい。どうせなら男前らしくいてほしかったけど。
「いらっしゃいま……あ」
客を迎える姉ちゃんの声が途切れた。俺とハンネスが同時に顔を向けた先には、入り口から入ってきた昨日の女性の姿があった。そして食事中の大勢の客の間を一直線に向かってくる。その目当てはもちろん、カウンター席に座るハンネスだ。
「こ、こんにちは」
少し緊張気味に女性は言う。ハンネスは女性と向き合い、軽く微笑む。
「今日は何ですか?」
聞かれると、女性はうつむき加減に言った。
「その、あの、やっぱり、諦めきれなくて……昨日お断りされたのはわかってるんですが、私、私……ハンネスさんと、一緒に……」
その先は恥ずかしいのか、女性はじっと黙り込んでしまった。昨日の出来事を知る客も知らない客も、二人の様子に耳をそばだててる。もちろん俺も。女性が恥ずかしさに耐えて、二日連続で誘いに来たんだ。ハンネスは一体どんな返事をするのか――
「……ごめんなさい」
断った!
「理由は昨日と同じです。僕には関わらずに、他の男性を見つけてください。そのほうがあなたのためですから」
ハンネスは努めて優しく言った。すると女性は呆然とした表情の後、ひどく悲しげな目に変わって、ハンネスを上目遣いにちらと見ると、もう無理と感じたのか、踵を返して無言で店を後にした。客達はその背中を見送ると、再び食事の続きを始める。俺も止まってた手を慌てて動かす。見てたこっちが気まずいっていうのも変だけど、どうやって言ってやればいいのか……。
「ウルリカちゃーん、出来たよ!」
調理場からの声に、姉ちゃんが小走りで向かう。そして受け取った料理をカウンターに置いた。
「木の実のパンと鶏肉のスープ、です」
カタン、と食器が鳴る。見れば姉ちゃんの顔は、安堵と焦りの入り混じった表情をしてる。二回もこんな場面を見せられちゃ、やっぱり動揺もするだろうな。
姉ちゃんが遠ざかると、ハンネスはパンをちぎり始めた。それを見ながら俺はさっきまでの会話の続きを意識して話しかけた。
「恋人がいないんなら、誘いを受ければいいのに」
パンの欠片を口に放り込んで、ハンネスは答える。
「好みじゃないのに誘いは受けられない」
「でも彼女はハンネスが好きなんだ。一度くらい付き合ってあげても――」
「無駄に希望を持たせたらかわいそうだよ。それに、僕には関わるべきじゃない」
またこれか……。
「そう言うけどさ、関わるかどうかは彼女の勝手だろ? 嫌ならそうはっきりと――」
「そういう言い方をするのは嫌だからじゃないよ。彼女のためを思って言ってるんだ」
「嫌じゃないなら、付き合ってあげなよ」
「だから、好みじゃないんだ」
苦笑いを浮かべて、ハンネスはスープをすすった。うーん……まあ、とりあえずハンネスが好みにうるさくて、女なら誰彼構わず遊ぶようなやつじゃないことはわかった。でも、俺はもったいないと思うな。綺麗な女性だったのに……。
「……ハンネス」
「ん?」
向いた顔を俺は見据えて言った。
「ハンネスが付き合わないんならさ、俺が誘ってみてもいい?」
これは本気じゃない。綺麗な人ではあるけど、俺にはちょっと大人っぽすぎるから正直付き合う自信なんてない。でもこう言えば、ハンネスがちょっとは惜しがるかと思って、あくまで冗談で聞いてみた。
君には無理だよ、とか言われると思ってたら、次の瞬間、ハンネスは真剣な眼差しを向けてきて言った。
「彼女、見た目通りの女じゃないよ。やめておいたほうがいい」
まるで助言でもするように、笑顔を消して、真っすぐ俺を見てハンネスはそう言った。どういう意味? って聞き返そうと思ったけど、あまりに真剣な口調に呑まれて、俺はその機会を失ってた。
ハンネスが帰った後、独りでその言葉の意味を考えてみた。見た目通りの女じゃない――ということは、その内側をハンネスは知ってる? つまりあの女性のことを、ハンネスは前から知ってた? それとも、ただ経験からそう感じただけのことなんだろうか……。ちょっと深く考えすぎかな。もしかしたら俺の思惑通り、少しは彼女のことを惜しがってくれたのかもしれない。だからそんなこと言って止めたんだ。きっとそうだ――そう結論付けて、俺はこの日、仕事を終えて帰った。
でもこの翌日、あの女性が死体で見つかったって聞いて、俺はこの結論をあっさり捨てることになった。
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